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ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

戦略論36~ジョミニの概要と思想

2022-08-01 11:42:37 | 戦略論
 本稿の第2部は、戦略論の基礎的な研究のノートである。筆者は、軍事学や安全保障学に関しては素人である。紙の書籍を主たる参考資料とするとともに、ネット上に公開されている専門家や篤学の士の掲示に学ぶことも多い。ネット上のサイトに特に多くを負っている項目は文中にその旨を書き、感謝をもって紹介させていただく。

●ジョミニ

◆生涯

 クラウゼウィッツとともに19世紀を代表する軍事思想家が、アントワーヌ=アンリ・ジョミニである。スイス出身の軍人で、軍務の経験をもとに軍事理論と戦争史を研究した。クラウゼウィッツより1年早く1779年に生まれ、クラウゼヴィッツより38年長く生きて1869年に死去した。
 最初は傭兵としてフランス軍に勤務した。ナポレオン1世に認められ、ミシェル・ネー将軍の幕僚としてナポレオン戦争に参加した。しかし、ロシア遠征の後、参謀総長ベルティエと対立し、ロシア軍に投降した。1813年からはロシア軍に仕え、アレクサンドル1世の幕僚を勤め、陸軍大将となった。ニコライ1世の軍事顧問として第4次露土戦争を指揮した。その後、フランスに戻り、ナポレオン3世のイタリア遠征の顧問となった。
 軍事理論家・歴史家として、20歳代から多くの著書を出した。そのうち最もよく知られているのが『戦争術概論』(1838年)である。

◆著書

 ジョミニの著書『戦争術概論』は、クラウゼウィッツの『戦争論』とともに、ナポレオン戦争に参加した経験に基づき、ナポレオン戦争以降の近代戦争について総合的に研究した軍事理論書である。『戦争論』と同年の1838年に発表された。『戦争概論』という邦題も使われているが、「術」を入れた方がよいのは、原題が ”Précis de l'art de la guerre”であることによる。
 本書は、序説と結論を除く8つの章で構成されている。「戦争との関係における政治」「軍事政策」「戦略」「大戦術と戦闘」「戦略的または戦術的な作戦」「機動する部隊の兵站または実践的技術」「諸兵科連合部隊」の8章である。内容は、戦争の類型、戦争と政治、軍事政策、軍事制度、戦略、戦術、兵站、指導者、部隊等の全般にわたっており、網羅的・体系的である。

◆思想

#戦略の定義
 ジョミニは、「戦略とは地図上において戦争を計画する技術であり、作戦地全体を包括する」と定義した。この定義は、私の分類では作戦戦略に当たる。
 彼のいう戦略は、以下の点を含むものとされる。

(1)戦域の選択とそこに含意されるさまざまな関連に関する考察
(2)戦域の組み合わせにおける決勝点と、最も有利な作戦方針の決定
(3)恒久的な基地と作戦地帯の選択と設定
(4)攻勢と防勢における目標地点の選択
(5)戦略正面、防衛線、作戦正面
(6)目標地点と戦略正面を接続する作戦線の選択
(7)所定の作戦で最良の戦略線とあらゆる事態に対応するために必要なさまざまな機動
(8)必然的に使用する作戦基地と戦略予備
(9)機動と考えられる軍の行進
(10)補給処の位置と軍の行進との関係
(11)軍の避難場所として、また攻囲や守備に見られるように軍の前進の障害となる戦略的手段としての要塞
(12)駐屯地や橋頭堡に適当な地点
(13)牽制の実行とそれに要する大規模な分遣隊

#戦略・戦術・兵站
 ジョミニは、「戦略はどこで行動するかを決定し、兵站は部隊をこの地点に動かし、大戦術はその部隊の要領と展開を決定する」とした。
 戦略が作戦図上で戦争計画を立てる技術であるのに対し、戦術は図上計画に基づき、現場に応じて部隊に戦闘をさせる技術である。兵站は部隊を戦場に輸送する準備や手段である。

#戦闘と戦術
 戦闘は我が軍と敵軍の武力衝突である。戦術はその衝突において戦闘の形式を規定する。戦闘の形式には、防御戦闘、攻撃戦闘、遭遇戦の3種類がある。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
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 『細川一彦著作集(CD)』(細川一彦事務所)

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戦略論35~クラウゼヴィッツの『戦争論』

2022-07-30 08:22:44 | 戦略論
●クラウゼヴィッツ(続き)

◆思想(続き)

#『戦争論』の抜粋

★戦争
・戦争の本性は、拡大された決闘である。
・戦争は、敵に強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる実力行使である。
・血を流すことを厭う者は、これを厭わぬ者によって滅ぼされる。
・戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続である。

★戦略と戦術
・多くの戦闘を連合して戦争の目的を達せしめるのが戦略であり、一つの戦闘を計画し実施するのが戦術である。
・戦略は戦術を準備する。いつ、どこで、どのくらいの戦闘力をもって戦うかを決める。
・戦略は戦術を収穫する。戦術的成果は、勝利でも敗北でも、これを取り上げて、戦争目的達成に利用する。
・戦術的成功がなければ、戦略的成果はない。
・敵の戦闘力の破壊という戦争本来の手段をなるべく使わないで済まそうとする戦略は誤りである。しかし、敵の戦闘力を直接破壊することだけが戦略ではない。

★準備
・戦略の第一条件は、できるだけ強大な戦力をもって戦場に臨むことである。
・数の優勢ということは、勝利の諸要件のうちの一つにすぎない。
・十分でない戦力をもって戦争を開始することは、成功しないばかりでなく、かえって害がある。
・一息に全作戦を実行し終われるだけの力を貯えてから仕事に取りかからねばならない。小飛躍は大飛躍より容易ではあるが、広い濠の半分だけを、まず飛び越えるということは不可能である。
・戦いは、勝とうと思う者同士の抗争である。必勝の条件というものは望めない。準備において、できるだけ勝利の条件をととのえ、実行に当たっては打算を超越して断行せよ。

★開戦と終戦
・開戦のための判断を誤らないことは、天才にだけできることで、たんなる理論的計算では不可能である。
・戦争の終末を考えないで、その第一歩を踏み出すことはできない。
・武力だけでは、戦争の目的を達成できない。
・戦勝軍の終戦条件は過大ではいけない。武力の効果を過信するな。将来に禍根を残すな。

★作戦と展開
・戦略的には、最初から全戦力を使用すべきであるが、戦術的には、逐次に使用することもある。戦術上の好機はしばしば終末期の混戦中に生ずるからである。
・大火は、小火がいくつ集まっても出せないほどの大熱を出す。
・十の力をもって一時間でできる仕事は、五の力をもって二時間でできるという理論は、戦争では通用しない。

★詭計と明察力
・戦略の語源はギリシャ語の詭計である。しかし、詭計が戦略ではない。(註 戦略の語源を詭計とするのは、一説)
・詭計にも相当の労力と時間とが必要であり、下手をすると本来の戦力を減らす。責任ある将帥はこれを好まない。詭計よりも、明察力のほうが大切である。

★成功と勝利
・作戦は幾何学的形式(態勢)の優越だけで成功するものではない。
・大きい成功をすれば、小さい成功はこれについてくる。いたるところで勝つ必要はない。
・勝つためには、常に敵全体の重心を目指し、全力をあげて突進せよ。敵の軍隊・首都(政治中枢)・同盟強国などは重要な突進目標である。目的はパリ、目標はフランス野戦軍(対仏作戦計画)
・一連隊の敗戦は、一軍の戦勝によって盛り返すことができるが、一軍の敗戦は、一連隊の戦勝では盛り返せない。

★攻撃と防御
・防御は攻撃よりも堅固な戦闘方式である。防御は、待機と反撃よりなる、前者は後者に先行する。
・防御の目的は消極的である。防御するのは、攻撃する力のないときにかぎる。
・攻撃は防御よりも敗れやすい戦闘方式であるが、それ故に大なる成功を収めることができる。

★決戦
・栄冠は最後の勝利者に与えられる。途中の得点の総和が敵にまさっていても、なんにもならない。
・三つの敵に対する場合、第一の敵、第二の敵を破っても、第三の敵に敗れれば、全ての敵に敗れたのと同じである。
・決戦時には、勝敗両者ともに危機にある。精神力を失うことが、勝敗の分かれる原因である。

◆影響

 『戦争論』ほど、その後の戦略思想に大きな影響を与えた本はない。内容は陸戦を主としているために、海戦の重要性が増し、さらに航空戦が本格化した第2次世界大戦以後は、古典的な理論書となった。だが、基本的な部分は現代の戦争にも当てはまるものであり続けている。
 『戦争論』の影響で見逃してはならないのは、共産主義の革命理論にも大きな影響を与えた点である。フリードリッヒ・エンゲルスやウラディミール・レーニンは、クラウゼウィッツの説く戦争の本性を、階級闘争における支配階級の撃滅と読み替え、革命の成功には人民大衆の階級意識の形成が重要であるとした。彼らは「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続である」という定義を強調し、武力闘争によって権力の奪取を図る軍事理論を実践した。彼らの姿勢は、その後の共産主義者に継承された。また、ゲリラ戦略の指導者やテロリストにも受け継がれている。

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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戦略論34~クラウゼヴィッツの概要と思想

2022-07-28 09:42:48 | 戦略論
●クラウゼヴィッツ

◆生涯

 カール・フォン・クラウゼヴィッツは、19世紀前半のドイツの軍人で軍事学者である。1780年に生まれ、ナポレオン戦争に、プロイセン王国の将校として参加した。戦後は、ナポレオンのロシア遠征、ワーテルローの戦い等の実戦の経験をもとにして、戦争の研究と著述に専念した。主著『戦争論』は、死の1年後の1832年に発表された。

◆著書

 クラウゼヴィッツの主著『戦争論』は、人類の戦争史の画期となったナポレオン戦争以降の近代的な戦争を体系的に研究した軍事理論書である。戦争の本質から戦略論・戦術論までを含む包括的な内容となっている。『孫子』と並んで、東西の二大戦争書と称される。
 全体の構成は、「戦争の本性」「戦争の理論」「戦闘」「戦闘力」「防御」「攻撃」「戦争計画」からなる。

◆思想

♯戦争の定義
 クラウゼヴィッツは、戦争の本性を「拡大された決闘」であるととらえた。そして、戦争を「敵に強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為である」と定義した。ここで暴力は 独語gewalt の訳語だが、組織化された軍事的な力に暴力という漢字単語を用いるのは、弊害が多い。(この点は拙稿「人権~その起源と目標」第1部第3章で検討した) 私は主に実力を使っている。実力とは、物理的な強制力である。そこで、先の定義を訳語を替えて書き直すと、戦争とは「敵に強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる実力行使である」となる。

#戦争と政治の関係
 フランス革命によって、戦争は絶対王政の国王が雇った傭兵同士が戦うものから、国民が兵士として参加する国民国家の軍隊の戦いに代わっていった。クラウゼヴィッツの『戦争論』は、そうした時代の変化の中で、戦争と政治の関わりを考察した。そして、「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続である」と定義した。
 この定義は、第一に、戦争は政治目的を達成するための手段であることを示す。第二に、戦争は外交とは別の手段である実力を行使して、自分の意思を相手に強制する行為ととらえる。第三に、戦争は政治の下位に位置することを意味する。
 こうした定義は、戦争の開始・継続・終了は、その国の政治が判断する事柄であることを明らかにする。

#戦略と戦術
 クラウゼヴィッツは、「多くの戦闘を連合して戦争の目的を達せしめるのが戦略であり、一つの戦闘を計画し実施するのが戦術である」と定義した。この定義によれば、一つ一つの戦闘に関わるのが戦術であり、多くの戦闘を組み合わせるのが戦略ということになる。
 クラウゼヴィッツは、また「戦略は戦術を準備する。いつ、どこで、どのくらいの戦闘力をもって戦うかを決める」「戦略は戦術を収穫する。戦術的成果は、勝利でも敗北でも、これを取り上げて、戦争目的達成に利用する」と述べている。
 私は、クラウゼヴィッツに学んで戦略と戦術を区別した上で、国家総合戦略と軍事戦略を分け、軍事戦略には世界戦略・地域戦略・作戦戦略があるとしている。クラウゼヴィッツの戦略論において、国家総合戦略のレベルに当たるのは戦争と政治の関係についてである。軍事戦略以外の個別的な分野の戦略については、外交以外は述べておらず、外交に関してもごくわずかしか触れていない。軍事戦略に関しては、彼の時代はまだ世界戦略を考える時代ではなく、地域戦略及び作戦戦略が論じられている。戦争と政治の関係を除くならば、地理的・空間的に限られた範囲での作戦戦略が主に論じられている。

#絶対的戦争と現実的戦争
 ナポレオン1世は、敵を徹底的に殲滅する作戦を実践してそれまでのヨーロッパにおける軍事思想に大きな影響を与えた。クラウゼヴィッツは『戦争論』において、「さまざまな現実の制約がなければ、我と敵の暴力の相互作用によって戦争は無制限に暴力性を拡大する」と考え、そうした戦争を「絶対的戦争」と呼んだ。
 「絶対的戦争」とは、敵を完全に打倒するまで戦う戦争である。敵に自らの意思を強制するためには、実力を行使して敵の戦力の殲滅を目指すことが必要である。しかし、一方で戦争は政治の下位に位置し、戦争の目的は政治目的に従属する。また多かれ少なかれ外交的手段を伴う。クラウゼヴィッツは、「敵の戦闘力を直接破壊することだけが戦略ではない」「武力だけでは、戦争の目的を達成できない」と述べている。
 この点からクラウゼヴィッツは、「戦争は常に政治的交渉の継続の文脈におかれているため、現実の戦争は絶対的戦争にはなり得ない」として、絶対的戦争に対して「現実的戦争」という概念を用いた。また戦争には、目的が無制限のものと目的が制限されているものがあるとした。現実的戦争は、目的を制限された戦争であり、政治的な目的が達成されれば、戦争は停止される。

#軍事的天才
 戦争に勝つためには、優れた指導者が不可欠である。クラウゼヴィッツが、軍事的天才として念頭に置いた指導者は、ナポレオン1世である。
 軍事的天才とは、複雑で不確実性の高い環境においても、常に最適の戦略を的確に発想する能力を持ち、高度な論理的思考力、勇気、決断力、忍耐力、自制心等を兼ね備えた人間である。そうした指導者を得られるかどうかが、戦争の勝敗に大きく影響することをクラウゼヴィッツは強調している。

 次回に続く。

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戦略論33~鉄砲の登場、ナポレオン戦争

2022-07-26 08:31:14 | 戦略論
●鉄砲の登場による戦術の変化

 古代から中世までは、人間が馬に乗り、手で鋭利な武器を操って戦うという戦術は、変わらなかった。そこに劇的な変化が起こったのは、銃砲の登場による。
 銃砲は、弓矢や投石機などの射出武器が進歩したものである。それまでの射出武器は、人間の身体的な能力によって物を飛ばす武器だったが、火薬の爆発力が利用されるようになった。
 火薬は、シナ文明で9世紀に発明された。不老長寿の薬を求める錬丹術の研究の中で作られた。最初に実用化されたのは黒色火薬で、13世頃に火器に使用されるようになった。元を通じて全モンゴル軍で使われた時は、火薬弾として使用された。ヨーロッパでは、火薬は14世紀から銃砲の発射薬として使用され、15世紀には小銃が現れて従来の戦法を一新した。ルネサンスの時代である。
 小銃は、それまでの重装甲の騎士軍を無力化した。火砲は、中世式の城砦を破壊できた。15世紀末に火縄銃が発明され、1543年にはわが国に伝わった。銃砲の普及は、築城術に大きな変化をもたらし、銃砲の攻撃に耐え得る近代的要塞が出現した。海戦においても、威力ある大砲が船の船体に穴を開け、敵艦隊を沈没させた。
 ヨーロッパで近代国家が発生した時、最初の国家体制は絶対王政だった。当時の国王の軍隊は、傭兵を主体とした。それが18世紀末まで続いた。小銃を持った兵士が横に並んで緩慢に行進して近接距離になったところで射ち合う横隊戦術が取られた。18世紀後半からイギリスを先頭に産業革命が進展すると、銃砲の発射速度や精度が増し、横隊は次第に散開隊形に変わった。武器の技術の進歩とともに、戦術にも大きな変化が起こり、戦闘による殺傷力・破壊力は増大した。

●ナポレオン戦争が歴史的転機

 近代国民国家は、17世紀イギリスの市民革命を通じて出現した。資本主義がする発達する中で、自由主義・民主主義が普及した。1776年、イギリスの植民地だったアメリカが君主制の宗主国から独立し、共和制の国家を建国した。1789年に始まるフランスの市民革命では、君主制が打倒され、共和制に移行した。その後、何度か政体が変化したが、革命の成果を外国の干渉から守るために国民徴兵による大規模な軍隊が作られた。軍隊は多数の列を組んだ縦隊で急速に行進し、戦闘に当たっては散開して銃砲で攻撃した。動揺する敵陣に白兵突撃を行い、騎兵や予備隊が追撃した。
 ナポレオン・ボナパルトという人類史上、屈指の軍事的な天才の出現によって、戦争の歴史は大きな転機を迎えた。ナポレオン戦争は、近代国民国家の戦争だった。国民国家は、国民が政治に参加する権利を持つとともに、国民が祖国を防衛する義務を負うのが基本である。徴兵制によって国民が参加して行われるようになった戦争を、国民戦争という。国民戦争は、絶対王政の傭兵による軍隊よりはるかに大規模な兵力で戦われる。そのため、将帥の経験や直観に頼らない合理的な軍事理論が必要とされるようになった。また、戦争は従来に増して国家の興亡盛衰に大きく影響するようになったため、政治と軍事の関係の明確化が求められた。そこで18世紀末から、それまで混然としていた戦略と戦術が明確に区別して使用されるようになった。
 ナポレオン戦争の研究を通じて、こうした時代の要請に応える軍事理論が発達した。19世紀前半には、クラウゼウィッツやジョミニがその理論を集大成した。彼らの理論書では、政治と戦争の関係、政治的目的と軍事的手段、指揮官の意義、合理的決断、戦力の優越性の原則、欺瞞や奇襲などの軍事戦略に関する主題が総合的に論じられている。彼らの理論を基盤として、戦略論は今日まで発達してきている。

 次回に続く。

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戦略論32~マキャヴェッリの軍事戦略

2022-07-24 08:37:38 | 戦略論
●マキャヴェッリ(続き)

◆主張(続き)

#軍事戦略
・自らの安全を自らの力によって守る意思を持たない場合、いかなる国家といえども、独立と平和を期待することはできない。
・自らの武力を持っていなければ、どんな国でも安泰ではない。自ら実力を持たない権力者の名声ほど、当てにならないものはない。
・祖国の存亡がかかっているような場合は、いかなる手段もその目的にとって有効ならば、正当化される。
・やむにやまれぬときの戦いは正義であり、他に方法がないときの武力行使もまた神聖である。
・戦いを避けるために譲歩しても、結局は戦いを避けることはできない。なぜなら譲歩しても相手は満足せず、譲歩するあなたに敬意を感じなくなり、より多くを奪おうと考えるからである。
・武器なき預言者(聖者・人格者)は滅びる。
・人に危害を加えるときは、復讐をおそれる必要がないように痛烈にやらなければならない。
・敵の計略を見抜くことほど、指揮官にとって重要なことはない。
・戦いは、大軍を投入して短期間に勝を決せよ。
・戦争目的は、自己の意思を相手に強制することによって、敵の完全敗北という成果を得て、速やかに終結させなければならない。(以上、『君主論』より)
・恩賞はわずかでよい。
・功績があるからといって、罪をゆるすことはできない。
・戦いの勝敗を決するものは将帥にあり。
・指揮官は複数ではいけない。
・出征軍司令官には絶大な権限を与え、しかも無暗に罰しない。
・持久作戦は、我が軍が精鋭で敵軍が攻撃をためらうか、敵軍が物資欠乏で永く戦場に留まれないなどの、戦理上有利な条件が確実にある場合のほか、取るべきものではない。
・最初の一撃を持ちこたえよ。
・断行して、敵の度肝をぬけ。
・前哨戦を誤ると全軍が崩壊する。
・無暗にゆずるな。国家の威信をそこなうようなことは絶対にしてはならない。我が国が武器を投げ出せば、今までの味方までが敵にまわる。(以上、『政略論』より)
・幸福のために社会にもたらされる技術や神の下で制定された儀礼は、軍事力がなければ無価値になる。
・勝った戦いは、他の悪い行動を打ち消す。同様に、一つ敗れることによって、以前の良いことはすべて無駄になる。
・戦争では、規律は怒り以上のことをすることができる。
・敵がこちらが試みることができないと信じているものほど成功する見込みのあるものはない。(以上、『戦術論』より)

◆マキャヴェッリ以後

 マキャヴェッリの時代の後、ヨーロッパ文明は近代西洋文明へと拡大した。近代西洋文明では、ナポレオン戦争後の19世紀のクラウゼヴィッツ、ジョミニらが登場するまで、軍事思想に大きな進展はなかった。

◆マキャヴェリズム

 マキャヴェッリは、目的を達成するためには手段を選ばず、権謀術数を駆使することをよしとした。そういう思想は古今東西に見られるが、しばしばマキャヴェッリの名を冠して、マキャヴェリズムと呼ばれる。
 19世紀ロシアの革命家セルゲイ・ネチャーエフは、目的は手段を正当化するというマキャヴェッリの思想を実践した。ウラディミール・レーニンはネチャーエフの「革命のマキャヴェリズム」を評価し、自らも謀略と冷酷さをもってロシア革命を成功に導いた。権力の奪取後は、強権的な支配を行い、個人崇拝の体制を作った。彼こそ、典型的なマキャヴェリアンと言えるだろう。
 次にマキャヴェッリの思想は、しばしば『韓非子』の思想との類似性が指摘されるので、その点について述べたい。
 『韓非子』は、シナ文明の戦国時代末期の思想家、韓非に帰せられる書物である。『韓非子』の思想は、マキャヴェッリ以前のマキャヴェリズムだともいわれる。シナ文明の有徳者王の思想や徳治の観念とは正反対の考え方を説いており、マキャヴェッリの脱宗教と道徳の否定の姿勢に通じる。ただし、両者の思想的な基盤は全く違う。
 韓非は儒家の荀子に学んだ後、法家思想を大成した。荀子は、人間の本性は欲望に支配された悪であるとする性悪説に立つ。それゆえ、内発的な徳よりも、外部から人間を規制する人為的な礼を重視した。礼を守るために必要な法こそが礼であるとし、すぐれた王が人民を規制するために定めるのが礼すなわち法であるとした。
 韓非は、こうした荀子の思想の影響を強く受け、厳格な法治主義を説いた。荀子の性悪説を人性利己説に徹底させ、国家の秩序を保つには孔子や孟子が説いた仁や義などの抽象的な徳ではなく、客観的な規制が必要だとした。礼が刑罰の裏づけを欠いているのを欠陥とし、礼よりも強い拘束力をもつ法による政治を強調した。
 韓非にとって、人民は支配と搾取の対象であり,君主に奉仕すべきものである。君主と人民の利害は相反するゆえ、人民を法で規制し、また法の権威を保つべくいっさいの批判を封じるべきことを説いた。王は、臣下に法を励行させ、信賞必罰をもって自在に操縦すべきことを主張した。また君主の力量がなくとも、法を完備することで国の秩序を保つことができるとして、「法」による刑罰と「術」による支配が必要だとし、不害、慎到、商鞅らの法家思想を集大成した。
 こうして韓非は、厳格な法治主義の励行が政治の基礎であると説き、君権を強化することを目ざした。秦の始皇帝は韓非の思想に感嘆し、実践した。秦に呼ばれた韓非は、宰相の李斯の謀略により服毒自殺を図って生涯を終えた。韓非の死後、秦は初のシナ国統一を成し遂げた。以後、韓非の思想をまとめた『韓非子』はシナ文明の歴史に大きな影響を与えている。その影響の度合いは、儒家・道家よりはるかに大きい。
 マキャヴェッリを『韓非子』と比較する時、マキャヴェッリの思想は、君主が個人独裁を行う中小国家に適合し、『韓非子』の思想は、統治の制度化が進んだ大規模な国家や帝国に適合することが分かる。前者は「人の支配」であり、後者は「法の支配」である。
 シナ文明において、漢は儒教を国教としたが、実質的には儒教的な理念の下で、法家的な政治が行われた。漢代以降、儒家と法家は融合し、法家は学派としては消滅した。このことは、同時に、儒家の法家化を意味する。儒法融合の政治学によって、シナ社会は、理念としては徳治主義、行政としては法治主義、だが実態は汚職や賄賂が横行する人治主義の社会となった。
 私は、シナ文明でマキャヴェッリの思想との間で『韓非子』とともに類似性があるのが、『孫子』『呉子』『六韜』『三略』等の兵法書だと考える。マキャヴェッリは内政だけでなく外交・軍事についても多く説いたが、『韓非子』の関心は内政に集中し、外交・軍事への関心は薄い。それに比べ、シナの兵法書は外交・軍事の仕方を主に説いており、マキャヴェッリ以前のマキャヴェリズムをそこにも見出すことができる。
 マキャヴェッリについては政治思想を中心とした研究が多いが、軍事思想にも焦点を合わせて、シナの兵法書と比較することによって、時代と文明の違いを越えて戦争において現れる人間の本性の一面、すなわち悪性、悪魔的な側面が一層よく浮かび上がる。
 私は、シナ文明の軍事思想と西洋文明の軍事思想をつなぐ関節に当たるものとして、マキャヴェッリとマキャヴェリズムがあると考える。

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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戦略論31~マキャヴェッリの君主論・外交戦略

2022-07-22 08:25:50 | 戦略論
●マキャヴェッリ(続き)

◆主張

 マキャヴェッリの軍事思想は、君主はどうあるべきかに基づくものであり、また専制君主が行うべき外交と切り離せない。そこで次に、マキャヴェッリの説く君主論を概観し、その後に外交戦略・軍事戦略の要点を示す。

#君主論
・君主には悪徳も必要である。どの程度まで善人であればよいかをわきまえよ。
・君主は、あるときは善をなし、あるときは悪ができねばならない。悪人との妥協も必要である。
・君主の美徳が国を滅ぼし、悪徳が国を栄えさすことがある。
・君主に大切なことは、真義を守り、仁慈、誠実で、人情にあつく、信心深そうに見えることである。本当にそうであり、常にそのすべてを実行すれば、失敗する。善く見せかけることは容易である。人民は外見と結果だけで判断する。虚名の威力は絶大である。
・君主は、けちであれ。気前がよくても増税すれば怨まれる。君主の気前よさの恩恵に浴する者は近くにいる少数者であるが、その被害者は多数者である。
・決断力のない君主は、多くの場合、当面の危険を回避しようとして中立を選ぶ。そして、おおかたその君主は滅んでしまう。
・重臣や側近から決断力がない、と見くびられた君主は、危ない。
・君主は、自らの権威を傷つける恐れのある妥協は、絶対にすべきではない。
・君主にとっての敵は、内と外の双方にある。これらの敵から身を守るのは、準備怠りない防衛力と友好関係である。
・君主に強い軍隊があるかぎり、善良なる同盟国に不自由することはない。金がなくなると、悪友も寄りつかない。
・戦争とは、君主の唯一の研究課題である。君主は平和を息継ぎの時間、軍事上の計画を立案して、実行に移す能力を身につける暇を与える時間とみなさなければならない。
・次の二つは絶対に軽視してはならない。第一は、寛容と忍耐をもってしては、人間の敵意は決して溶解しない。第二は、報酬と経済援助などの援助を与えても敵対関係は好転しない。
・君主は愛され、また恐れられよ。両方は無理なら、恐れられるのが望ましい。
・君主は恐れられてもよいが、恨まれてはいけない。
・君主は、真義など守らなくてもよいことがある。
・政治は道徳とは無縁である。
・君主は獅子のごとく猛々しく、狐のごとく狡猾でなければならぬ。
・獅子は策略の罠から身を守れないし、狐は狼から身を守ることができない。人間ならば、策略の罠を知り尽くす狐のようであれ。また狼を威嚇する獅子でもあれ。(以上、『君主論』より)

 マキャヴェッリは、君主のあるべき姿をこのように説いたうえで、そうした君主が行うべき外交と軍事について説いている。

#外交戦略
・他国が強くなるのを助ける国民は、自滅する。
・自治制国家を占領したら、国民を抹殺するか、君主自らそこに住め。
・味方でない国には中立を迫り、中立したら、わが国のために武器を取らせる。
・自国より強い国の手を借りるな。たとえ勝っても、獲物を横取りされ、悪くすれば自身がその国の捕虜にされる。(以上、『君主論』より)
・弱い国はつねに決断力を欠く。君主に決断のないほど国を危うくするものはない。
・名声はあっても、実力の伴わない国とは同盟するな。
・同盟が破棄されることも、考えておけ。
・共和国との同盟のほうが、君主国との同盟よりも信頼できる。
・敵中に味方をつくれ。
・内紛に乗じても、不用意に攻めると不覚をとる。逆に内紛が団結を促すことがある。
・強制されて結んだ約束は、守らなくてよい。
・征服した国の君主の血統は根絶せよ。歴史・国語・宗教を抹殺せよ。新しい宗教を新しい言葉で布教させればよい。
・戦いに敗れたら外交で勝て。(以上、『政略論』より)

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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戦略論30~マキャヴェッリ の生涯と思想

2022-07-20 08:21:02 | 戦略論
●マキャヴェッリ

◆生涯

 西洋文明の軍事思想は、古代ギリシャまで遡ることができる。だが、ギリシャ=ローマ文明には、『孫子』に匹敵するような兵法書は存在しない。ヨーロッパ文明においても長く軍事思想は発達せず、ようやく本格的な軍事思想が現れたのは16世紀前半のマキャヴェッリを嚆矢とする。
 ニッコロ・マキャヴェッリは、ルネサンス期イタリアの政治家・政治思想家である。マキアベリなどとも書くが、本稿ではマキャヴェッリと表記する。
 マキャヴェッリは、極めて冷徹な現実主義の政治思想で知られる。中世のヨーロッパ文明は、西方キリスト教の宗教的な秩序の下にあったが、マキャヴェッリはキリスト教的な道徳からの政治の解放を唱え、近代政治学の祖とされる。
 マキャヴェッリは、近代西欧における軍事思想の始祖的存在でもある。『君主論』『政略論』『戦術論』等において軍事力の重要性と軍事力に基づいた外交や内政について論じている。
 権力の究極的な基盤は、いずれの時代であっても、武力や警察力にある。マキャヴェッリは、この原理を踏まえて、強い軍隊を創出して国家の基礎とすることを説いた。彼の主張はヨーロッパにおける近代軍事思想の源流となり、プロイセン王フリードリッヒ2世(大王)やナポレオン・ボナパルト、カール・クラウゼウィッツらの軍事思想に大きな影響を与えた。
 マキャヴェッリの生きた時代は、15世紀後半から16世紀前半である。生年は1469年、没年は1527年である。その生涯は、ほぼわが国の戦国時代と重なる。当時イタリアも戦国時代にあって、小国に分立して内戦を繰り返していた。強力な外敵が侵攻してくる脅威もあった、そうした中でマキャヴェッリは、フィレンツェ共和国の書記官となり、主として外交・軍事を担当した。各国との外交に奔走したが、弱小国の代表として辛酸をなめたため、軍事力の強化を唱え、傭兵隊中心の軍制を批判し,農民からなる軍隊の創設に力を尽くした。この間、イタリアの政治家で宗教家、チェザーレ・ボルジアと出会い、彼の政治活動をつぶさに観察した。マキャヴェッリは後に書く『君主論』で、彼を理想的な専制君主として描いている。
 フィレンツェの支配者にメディチ家が復帰すると、反メディチ派の烙印を押されたマキャヴェッリは一切の官職を奪われて、一時投獄された。釈放後はフィレンツェ近郊の寒村で執筆活動に専念し、『君主論』(1513年)、『政略論』(1517年、原題『ティトゥス・リウィウスの初篇十章にもとづく論考』、邦題は『ローマ史論』ともいう)、『戦術論』(1520年) 等を著わした。その後、メディチ家との関係が好転し、フィレンツェに戻った。ところが、メディチ家支配が打倒されて共和政が再建されると、今度はメディチ派と見られて、再び失脚し失意のうちに没した。

◆思想

 マキャヴェッリは、『君主論』で、君主が善良で敬虔で、慈悲深い人間であることは称賛すべきであるとしつつも、人間の現実をみるならば、もしこの理想のように振舞うならば、そうした君主は邪悪な人間が多い中で必ず没落するであろうと論じた。場合によっては約束を踏みにじり、けちに徹し、冷酷であることが是非とも必要であると述べた。そこには、政治目的のためにはいかなる反道徳的な手段も許されるという主張がある。西方キリスト教の宗教的な道徳を否定する主張であり、またシナ文明の有徳者王の思想や徳治の観念とは正反対の考え方である。
 主著『君主論』は、君主はどうあるべきかを説き、また専制君主が行うべき外交・軍事を説いている。君主論と外交論・軍事論が一体になっている。軍事思想については、『君主論』『政略論』に続く『戦術論』で主題的に説いている。
 『戦術論』で、マキャヴェッリは古代ローマの軍事制度を参考にして、当時イタリアで主流だった傭兵による軍事組織ではなく、自国民を徴集して軍事組織を作ることを主張した。騎兵に依存する国家の脆弱性を指摘し、騎兵よりも歩兵を重視した。国民で組織した軍隊に軍事訓練を行って、精強な軍事組織を作り上げることを提案した。また、指揮官には特別の資質が必要であることを説いた。本書は16世紀に21版を重ね、フランス語・英語・ドイツ語・ラテン語に翻訳され、軍事学の研究に影響を与えたとされる。

 次回に続く。

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戦略論29~西洋文明の軍事思想

2022-07-18 08:43:43 | 戦略論
(3)西洋文明の軍事思想

 次に、西洋文明の軍事思想を概説する。

●ユーラシア大陸における「文明の衝突」

 最初に、ユーラシア大陸における戦争の歴史について述べたい。
 古代からユーラシア大陸では「文明の衝突」が繰り返されてきた。「文明の衝突」は、国際政治学者サミュエル・ハンチントンが米ソ冷戦の終結後の現代世界について用いた概念である。だが、人類の歴史は、古代から諸文明の発生、出会い、交流、その中での盛衰興亡の過程だった。その歴史は、また文明の衝突と戦争の歴史だった。
 本項は戦略論の基礎的研究のために、ヨーロッパの側から諸文明の衝突と戦争の歴史を、簡単に概観するものである。
 まず古代から、シナ文明と西洋文明が直接軍事的に衝突したことは、近代までなかった。ユーラシア大陸の東部と西部の間には広大な距離があり、またその空間には砂漠と山岳がある。こうした地理的条件が、両文明がぶつかり合う戦争を長い間、不可能にしていた。
 シナ文明と古代ローマ文明の間には、貿易・通商が行われていた。古代ローマ文明が滅亡した後、ヨーロッパはユーラシア大陸西端にある後進的な地域だった。西欧に発生したヨーロッパ文明は徐々に発展し、やがてイスラーム文明との間で十字軍による戦いを繰り広げるようになった。
 イスラーム文明は、7世紀初めにムハンマドがアラビア半島で開教したイスラーム教を宗教的な中核とし、西アジア、北アフリカ等に広がった。ヨーロッパの騎士たちは、13世紀当時、イスラーム地域に遠征するほどの武力を誇っていた。しかし、当時、ユーラシア大陸の内陸部に勃興したモンゴル帝国の強さは、圧倒的だった。
 モンゴル帝国は、13世紀初めチンギス=ハンによって建てられたモンゴル民族の帝国である。独特の軽装騎馬戦術・組織力・移動性を利用して、東はシナの東北部,西は南ロシアからイラクに至る大帝国をつくった。チンギス=ハンの死後、4人の子によって、キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イルの四ハン国が分立した。モンゴル帝国では、1271年に宗家の第5代フビライ=ハン(世祖)がユーラシア大陸の東部に元を建て、南宋を滅ぼしてシナ全土を統一した。その頃から四ハン国は完全に自立し、帝国は事実上分裂した。
 最盛期のモンゴル帝国の領土は、ユーラシア大陸の大部分に及んだ。モンゴル軍の強さは、当時の諸文明の間で抜群のものだった。ヨーロッパでは、怒涛のように押し寄せる騎馬軍団によって、東欧のハンガリーが占拠され、ポーランド・ドイツ騎士団諸侯連合軍も敗れた。1242年には、モンゴル軍が神聖ローマ帝国のウィーン郊外まで達し、ヨーロッパは恐怖のどん底に陥った。ところが、ここでモンゴル帝国の皇帝オゴタイ(チンギス・ハンの三男)が逝去し、モンゴル軍は撤退を始めた。もしオゴタイの死がなければ、ヨーロッパはモンゴルの征服・支配を受けたことだろう。
 イスラーム文明は13世紀にモンゴル帝国の支配下に入った。しかし、帝国の周辺部では、モンゴル人の力に服することを潔しとしないトルコ民族が立ち上がり、1299年にオスマン朝を創建した。オスマン朝は、モンゴル帝国の解体により、イスラーム文明の中心となった。ヨーロッパ文明より軍事技術や農業技術では優れていたオスマン帝国は、強大化を続け、1453年にコンスタンチノープルを陥落し、東ローマ帝国を最終的に滅亡させた。
 ヨーロッパは、長い間、オスマン帝国の圧力を受けた。圧力の頂点は16世紀前半、ルネサンスの時期だった。オスマン帝国のスレイマン1世は、1529年に神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲し、カール5世を危機に陥れた。しかし、例年より早い寒波の到来が、ヨーロッパ文明には幸いした。オスマン軍は、攻撃をあきらめた。それによって、西欧は異文明の支配を免れた。1242年にモンゴル軍がウィーン郊外まで達した時も侵攻を避けられたから、これが二度目だった。オスマン帝国はその後も長く続いたが、第1次世界大戦を通じて解体された。
 モンゴル帝国、次いでオスマン帝国の侵攻を避けることのできたヨーロッパ文明は、新たな発展の時を迎えた。危地を逃れた西欧では、ポルトガルとスペインが地理上の発見によって、領域を拡大した。以後、オランダ、イギリス、フランス等が南北アメリカ、アジア、アフリカ等に進出した。まさに世界を分割する勢いだった。
 アメリカ大陸にも広がったヨーロッパ文明を、近代西洋文明と呼ぶ。近代西洋文明が本格的に世界的な優位を確立したのは、18世紀後半に産業革命が起こり、近代資本主義と科学技術が結合し、強大な生産力を発揮するようになってからである。その結果、近代西洋文明は、経済力と軍事力において、他の全ての文明に圧倒的な大差をつけるようになった。
 それが如実に表れたのは、1840~42年のアヘン戦争でシナ文明の清がイギリスに敗れて、反植民地になったことである。アヘン戦争は、古代以来、シナ文明と西洋文明が直接軍事的に衝突した最初の戦争だった。1858年にはインド文明のムガル帝国がイギリスによって滅亡させられた。
 この間、西洋文明では、軍事技術の大きな進歩があった。銃砲の登場、蒸気機関の武器への応用、機関銃の発明である。これらの新しい武器を手にした西洋文明は、白人種による世界支配を実現した。
 以後の歴史については、本稿の折々で述べることにして、ここから西洋文明の軍事思想の話に入る。まず15世紀後半から20世紀はじめの世界大戦の時代の前までとして、マキャヴェッリ、クラウゼヴィッツ、ジョミニ、モルトケ、マハン、コーベットについて主に述べる。

 次回に続く。

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戦略論28~武士道、そしてアヘン戦争から今日までの日本

2022-07-16 09:25:16 | 戦略論
●『闘戦経』と『甲陽軍鑑』を貫くもの――武士道

 『闘戦経』と『甲陽軍鑑』を貫くものーーそれは武士道である。『闘戦経』は、平安時代末期、11世紀末から12世紀初めに成立したとみられる日本最古の兵法書であり、武士道に関わる書物としては、最も早い時期のものである。一方、『甲陽軍鑑』は、その約500年後、江戸時代初期に書かれた書物である。この間に大きく発達したのが武士道である。武士道には、日本固有の軍事思想が表れ、またそこに戦略思想も含まれている。
 日本の武士は世界にもユニークな存在である。その武士の特徴として、第一に皇室から分かれた貴族の出身であること、第二に戦闘のプロフェッショナルであること、第三に土地に密着した為政者であることがある。これらの特徴は、それぞれ尊皇・尚武・仁政という徳目に対応する。
 こうした特徴と徳目をもつ武士たちは、平安後期から鎌倉・室町・戦国の時代を通じて、独自の倫理と美意識を生み出した。江戸時代に入って、それが一層、自覚的に表現されることになった。それが、武士道である。
 武士道は、日本固有の思想であり、日本人の精神的特徴がよく表れている。わが国は古来、敬神崇祖、忠孝一本の国柄である。そこに形成されたのが、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の日本独自の精神、日本精神である。日本精神の特徴は、武士道において、皇室への尊崇、主君への忠誠、親や先祖への孝養、家族的団結などとして表れている。そして、勇気、仁愛、礼節、誠実、克己等の徳性は、武士という階級を通じて、見事に開花・向上した。日本精神は、約700年の武士の時代に、武士道の発展を通じて、豊かに成長・成熟したのである。
 武士道というと、多くの人は『葉隠』を語る。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一句はあまりにも有名である。しかし『葉隠』は佐賀鍋島の地方武士の作であり、書かれた当時、それほど社会的影響を与えた書ではなかった。これに比し、江戸時代の武士たちに広く読まれたものの一つが、『甲陽軍鑑』である。またそれ以上に武士道の規範とされて、さまざまな藩で読み継がれた書に、山鹿素行の『武教全書』、大道寺友山の『武道初心集』等がある。
 大道寺友山は、『甲陽軍鑑』の編著者・小幡景憲や、その弟子山鹿素行らに師事した。『甲陽軍鑑』『武教全書』『武道初心集』等は、江戸時代の武士が実際に学んだ武士道の教本である。江戸時代における武士道の形成には、武田信玄の甲州流軍学が強い影響を与えたことが、このことからもわかる。
 武士道を世界に知らしめたのは、新渡戸稲造が英文で書いた『武士道』だが、新渡戸は武士道の道徳的な側面を強調し、武士の本質の一つである「武」の部分を軽視した。そのため、彼の武士道論は武士道の軍事思想が抜け落ちている。だが、武士は戦闘のプロフェッショナルであり、武士道を語るには軍事思想を欠くわけにはいかない。
 武士道の軍事思想、またその戦略思想は、『闘戦経』『甲陽軍鑑』の他に『武教全書』『武道初心集』等にも含まれている。だが、江戸時代の武士道の書物は、武士の心得、文官的な道徳、日常生活の仕方、仁政のあり方等が内容の多くを占める。太平の世にあって、異民族の外敵の侵攻を想定した防衛理論は発達しなかった。そのため、戦略思想として最も必要な現実的な脅威への具体的な備えを説くものとなっていない。

関連掲示
・マイサイトの「武士道」のページ
http://khosokawa.sakura.ne.jp/j-mind09.htm
 拙著『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)の付属CDにも収納

●アヘン戦争から今日までの日本

 徳川家康が開いた江戸時代は、世界史に稀な平和は時代だった。外敵の侵攻を受けることがなく、島原の乱以降、約230年の間、内戦もなかった。そのため、軍学は実戦の機会を失い、武士たちは道徳的な行動を期待される文官的な官僚となっていた。
 そうしたわが国に19世紀半ば、突然、強い衝撃が走った。アヘン戦争で、シナ(清国)が英国に敗れたのである。それまで日本人にとって、シナは世界の中心的な存在だった。そのシナが西洋に敗北を喫したことは、世界観が揺らぐほどの大事件だった。この時、この衝撃を最も強く感じ、行動した日本人には軍事や防衛の専門家すなわち兵学者が多かった。信州・松代藩の兵学者、佐久間象山(ぞうざん)はその一人である。象山は、シナの敗北を知るや、白人列強の侵攻の手は、必ずわが国に及んでくる、といち早く予見し、それまでの儒学の観念世界を破り出て、自ら西洋の科学技術を学び取った。白人に征服・支配されないためである。
 象山は、朱子学を信奉していた。彼の最も有名な言葉は、「東洋道徳、西洋芸術」である。彼のいうところの「東洋道徳」とは、儒教的な道徳だった。孔子が説いた「仁」「忠」「孝」等の徳目の体系である。象山は、孔子の理想は、わが国の皇室を中心とする国柄に実現している、だから、これを守らねばならないと考えた。こうした道義国家・日本を守るために、「西洋芸術」すなわち西洋の科学技術の摂取を焦眉の課題とした。
 象山が西洋の科学技術の修得に努めたのは、武士として日本の国を守るための行動だった。象山が拠り所としたのは、『孫子』である。『孫子』は、「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」といい、相手を知り己を知ることを勝利の要諦とする。また、「百戦百勝は善の善なるものにあらず、戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」とし、戦わずして勝つことこそ、最高の道であると説く。象山は孫子の兵法に基づいて西洋列強に学び、相手から科学技術を採り入れて我が国の国防力を強大にし、相手に侵攻をあきらめさせることを目指したのである。
 象山の弟子に吉田松陰がいる。松陰は、武田流軍学の系統を継ぐ山鹿素行が開いた山鹿流兵学を修めた軍学者だった。松陰は、象山の危機意識と課題を自らのものとし、国防の強化を目指して行動した。国禁を破って渡米しようとしたのは、『孫子』に従って敵を知るための決死の行動だった。彼の思想と行動は幕末の草莽の志士たちに強い影響を与え、明治維新を実現する推進力の一つとなった。
 幕末には、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス等の列強の艦船が我が国を訪れ、開国を迫った。軍事力や科学技術力で圧倒的な差を見せつけられたわが国は、不利な条件で開国せざるを得なかった。だが、それによって、インド文明やシナ文明のように植民地や反植民地となることなく、独立を維持し、近代国家の建国に成功した。
 明治政府は、西洋諸国から教官を招いたり、教範を翻訳するなどして、近代西洋文明の戦略・戦術を学び、富国強兵を進めた。西洋一辺倒ではなく、シナ・日本の兵学書の伝統を継承した独自の戦争理論を発達させた。それが、日清戦争・日露戦争での勝利に貢献した。だが、大正・昭和と時代が進むに従って、国家指導層は近代西洋文明の軍事思想の影響を強く受けるようになった。特に陸軍にはドイツの戦略・戦術の影響が顕著であり、国家指導者の多くを独伊のファシズムの模倣に向かわせた。
 昭和天皇は、大東亜戦争の敗戦後、1946年(昭和21年)3~4月に、側近に対して、自ら歩んだ時代を語った。その記録が『昭和天皇独白録』(文春文庫)である。昭和天皇は歴史の節目の多くの場合に、的確な判断をしていた。最も重要な事実は、天皇は米英に対する戦争に反対だったことである。しかし、時の指導層は、この天皇の意思を黙殺して、無謀な戦争に突入した。結果は、大敗だった。
 天皇は『昭和天皇独白録』でこの戦争について、次のように述べている。戦争の原因は「第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している」と。「日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦(また)然(しか)りである」と天皇は、長期的な背景があったことを指摘している。
 昭和天皇はまた、わが国が大東亜戦争に敗れた原因について、自身の見解を明らかにしている。

 「敗戦の原因は四つあると思う。
 第一、兵法の研究が不充分であったこと、即ち孫子の『敵を知り己を知れば、百戦危からず』という根本原理を体得していなかったこと。
 第ニ、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
 第三、陸海軍の不一致。
 第四、常識ある首脳者の存在しなかった事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛という様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、且(かつ)軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂(いわゆる)下克上の状態を招いたこと」

 敗戦の原因の第一に、兵法の研究が不充分であったことを挙げ、『孫子』の「敵を知り己を知れば、百戦危からず」という根本原理を体得していなかったと指摘している。そこに敗戦の根本原因があると見ている。先に書いた象山は1850年代から、『孫子』に基づいて西洋列強の侵攻に備え、日本の国防に取り組んだ。その後、開国、維新、近代国家建設、日露戦争、日中戦争、大東亜戦争があった。西洋列強との対決は、大敗に終わった。象山の取り組みから約90年後、昭和天皇は、象山と同じく『孫子』に基づいて、約1世紀の歴史の結果としての日本の敗戦の原因を看破している。「兵法の研究が不充分であったこと、即ち孫子の『敵を知り己を知れば、百戦危からず』という根本原理を体得していなかったこと」と。
 昭和天皇が続いて挙げる第二から第四の原因は、わが国の国家指導層の問題点を指摘したものである。「余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと」「陸海軍の不一致」「常識ある首脳者の存在しなかった事。・・・大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、且(かつ)軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂(いわゆる)下克上の状態を招いたこと」。それらもまた『孫子』が敗北の原因となるものとして挙げている事柄である。彼我の国力を客観的に比較・評価する姿勢がなく、国内に対立・不一致があり、大局をとらえて全体を統率する優れた指導者を欠いていた。
 私は、これらの昭和天皇の指摘に敬服するとともに、昭和戦前期の日本は、日本文明独自の軍事思想である『闘戦経』『甲陽軍鑑』の教訓からも外れていたと考える。さらに言えば、それらに現れた日本精神を忘れ、佐久間象山が守ろうとした東洋の知恵をも失い、近代西洋文明、とりわけ独伊のファシズムの模倣に走ったことが、大きな敗因と考える。そして、決定的なのは、あらゆる分野に通じる達人にして孫子の兵法の真髄をも極めた大塚寛一先生が建白書を送って「厳正中立」「不戦必勝」の大策を建言したにもかかわらず、時の指導層はこれを採用しなかったことである。(註 4)
 大東亜戦争に敗北したわが国では、GHQが日本を弱体化する政策を強行し、憲法第9条に、戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認が規定された。さらに政府が専守防衛や非核三原則を国防政策の根本に置いたため、自縄自縛の状態に陥っている。
 19世紀後半以降、欧米を中心に機械工業の発達とともに新しい武器が次々に登場し、戦争の規模は拡大する一方となっている。機関銃、戦車、潜水艦、飛行機、毒ガス、細菌兵器等が登場し、核兵器の発明によって。武器の発達は一つのピークに達した。さらに、コンピューターの軍事利用によって、軍事的な手段は高度化を続けている。この間、2度の世界大戦が起こり、世界平和への希求は切実なものとなっている。しかし、人類は戦争の歴史に終止符を打つことができるのかどうかは疑わしい。
 わが国は、こうした世界にあって、周辺を中国・北朝鮮・ロシアのような軍事偏重の国家に囲まれている。また、国際社会は米中が対決する歴史的な段階に入っている。いま(2022年7月現在)世界は、ロシアのウクライナ侵攻によって、第3次世界大戦への発展や核兵器の使用が懸念される危険な状況になっている。
 わが国は、国民一人一人が、国家とは何か、国益とは何か、日本をどう守り、いかにして危機を生き抜くかについて真剣に考えなければならないところに来ている。本稿の国家論及び戦略論・地政学の基礎的研究がその検討の参考になれば幸いである。


(4) 大塚先生の建白書については、下記をご参照下さい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/keynote.htm
【その2】「大東亜戦争は、戦う必要がなかった」

 次回に続く。

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戦略論27~『甲陽軍鑑』の概要

2022-07-14 08:51:30 | 戦略論
●『甲陽軍鑑』

 『闘戦経』と違ってわが国で広く読まれてきた兵書に『甲陽軍鑑』がある。『甲陽軍鑑』は、武田流軍学を集大成したものである。徳川家康は、武田信玄を恐れ、また信玄に学んだ。徳川幕府は信玄の軍学を取り入れたので、武田流軍学は江戸時代の武士道の一要素となった。
 『甲陽軍鑑』の著者は信玄の家臣・高坂昌信と伝えられるが、実際の編著者は小幡景憲と見られる。景憲は武田家滅亡の後、軍学を修め、徳川幕府に仕えて、軍学を講じた。幕府は景憲が完成した武田流軍学を、官許の学として公認した。そして、『甲陽軍鑑』は「本邦第一の兵書」といわれ、武士の素養となっていた。本書を中心に武田流軍学の主な特質を挙げてみよう。

1. 人材を尊重し活用せよ

 武田流軍学は何より、人材を大切にした。大将には、三つの中心任務があるとし、その第一番に「人の目利(めきき)」を挙げている。人材を尊重し、人それぞれの個性を生かして使うことが、一番重要だというのである。信玄は「渋柿も甘柿も、それぞれに役立たせるのが国持大名のつとめ」と言っている。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり」という名文句は、武田流軍学の特質をよく表わすものである。

2.戦争の目的を忘れるな

 武田流軍学には、「後途の勝を肝要とする」ということがある。すなわち、個々の戦闘は、あくまで次の、より大きな目標に近づくための手段に過ぎない。目先の現象に目を奪われず、将来の利害、大局の得失にもとづいて判断を下し、行動せよということである。これは、戦略的な考え方である。『孫子』の一節にも、「明君名将は、つねに戦争の根本の目的を見失うことがない。だからこそ、かれらは慎重なのだ。有利、確実、かつやむを得ざる場合にのみ兵を動かして戦闘を交える」とある。

3.攻撃こそ最大の防御なり
 
 『甲陽軍鑑』には、「わが国ばかりが長久と思い、他国に攻撃をかけないでいると、他国から逆に攻め込まれてしまう」とある。自分の国さえ安穏ならばよいと考えて、おとなしくしていれば、必ず他国の攻撃を受けて滅ぼされてしまう。内に蓄えた力によって打って出て、他国の力を弱め、あるいはこちらの領国とする以外に、自らの安全を確保する道はないというのである。

4.組織を完全に統率せよ

 「疾(はや)きこと風のごとく、静かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとし」――『孫子』軍争篇にあるこの言葉を、信玄は戦術の基本とした。そして、事前の精密な作戦計画、首脳部の意志の統一、指揮命令系統の整備、全軍に対する訓練等を徹底的に行った。その結果、全軍が信玄の采配の下に一糸乱れずに行動できたのである。まさに軍事戦略の実行の基本である。

5.内政を充実せよ

 もともと甲斐の国(現在の山梨県)は山岳部の僻地である。この甲州を基盤とした武田氏が勢力を振るったのは、信玄の精魂込めた富国強兵策によっている。信玄は、領国内の統治体制を整備するという点でも、当時の諸大名の中では先頭を切っていた。治山治水、鉱山の開発、商工業の保護育成など多面的な政策を進め、領国の経済力を強めるとともに、領民の心を引き付けた。「国の仕置が悪ければ、たとえ合戦に勝っても国を失う」というのが、信玄の警告だった。

 以上、武田流軍学の特質を挙げた。その軍学を集大成した『甲陽軍鑑』は、自国の領土を治め、他国を従えるために必要な、政治・軍事・外交等の心得に満ちている。ただの軍学の書ではない。国家総合戦略の書ともなっている。私は『孫子』と『甲陽軍鑑』をもって、近代以前の東アジアにおける二大総合戦略の書と考える。
 ところで、これほど充実した戦略書を持っていたにもかかわらず、武田家は名将・信玄の死後、息子の勝頼の代でわずかの期間のうちに滅亡した。様々な説があるが、いかに優れた戦略理論があり、また実践されていても、最高指導者が真に優れた人物でなければ、国家・組織は存続・繁栄し得ないということだろう。

 次回に続く。

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