goo blog サービス終了のお知らせ 

ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

アイヌ施策推進法10~アイヌの人口・分布・認定

2019-05-29 10:34:12 | 時事
3.アイヌの現状

(1) アイヌの存在と人口
 昭和30年(1965年)の時点で、知里真志保は、「民族としてのアイヌは既に滅びたといってよく、厳密にいうならば、彼らは、もはやアイヌではなく、せいぜいアイヌ系日本人とでも称すべきものである」と書いた。知里は、この年、次のようにも述べている。
 「私達いわゆるアイヌといわれている者もやはり全部日本人なのです。日本語を使い、日本人の生活をし、似教(ママ)を奉じているのです。ですからいわゆるアイヌ系日本人なのです。所がなぜアイヌのみが日本人の中で異民族扱いを受けるのでしょう。これは去年行なわれた熊まつりに見られるように今(ママ)だに沢山の日本人がアイヌを見世物根性で見、特異なものとして見たがるところからきているのです。・・・また多くの人々は民族の文化の保存といいますが、現実にはアイヌ文化は明治時代以前に滅びてしまって、その後はいわゆるアイヌ系日本人によってその文化が多少とも保たれてきたわけです」(北海道大学新聞昭和30年(1955年)1月31日付)(註 文中の「似教」は仏教の誤植か)
 昭和30年(1965年)当時でさえ、アイヌは知里が書いたような状態になっていた。されにそれから今日まで50年以上たっている。現在「アイヌ」を自称している人達の中に、アイヌ語を話す純粋な「アイヌ」は一人もいない。また、アイヌは、DNA検査では認定できず、長い間に日本人と混血してきているので日本人と区別できない状態と見られる。
 国勢調査には、アイヌ人の項目はなく、国家機関での実態調査は行われていないに等しい。そのため、アイヌ人の正確な数は不明である。
 平成18年(2006年)の北海道庁の調査によると、アイヌの人口は23,782人だった。相手がアイヌであることを否定している場合は調査の対象としていないという。ただし、アイヌだと答えた人たちが本当にアイヌなのかどうかは、検証されていない。後で詳しく述べるが、その点に大きな問題がある。
 先の調査の11年後に行われた平成29年(2017年)の調査では、道内のアイヌの人口は約1万3千人だった。10年ちょっとの間に、54.7%ほどに減少している。5割近い減り方である。この減少には、調査に協力している北海道アイヌ協会の会員数が減少したこと、個人情報の保護への関心の高まりから調査に協力する人が減っていることなどが、理由にあるという。しかし、その点を考慮したとしても、減り方が非常に大きい。和人との混血や同化が進み、自称アイヌまたは自分はアイヌだという意識を持つ人たちが急速に減っているのだろう。
 一方では、奇妙な現象が起こっている。東京では、アイヌが激増しているのである。昭和63年(1988年)の調査では、東京在住のアイヌの人口は、2,700人と推計された。ところが、平成31年(2019年)には、東京に約7万5千人のアイヌがいることになっているという。30年ほどの間に、27.8倍に急増したことになる。以前は北海道在住のアイヌの10分の1程度だったのが、今や5倍以上に増えたことになる。これは、後で述べるように、アイヌ協会が認めればアイヌと認定されるから、実際にはアイヌではない者がアイヌということになっているのだろう。

(2)分布
 東京のアイヌの人口には大きな疑問符が付くので、それを除くと、アイヌが主に分布するのは、北海道である。北海道には、アイヌ居留地は存在しない。アイヌ系日本人は、日本人として、日本の社会に他の日本人とともに居住して生活している。
 アイヌ系日本人は、支庁別では胆振、日高支庁に多い。日高地方の平取町二風谷には、多数が居住する。また、道南で苫小牧に近い白老、道北の阿寒には、観光名所としてコタンと呼ばれる集落が存在する。

4.アイヌ系団体に関する問題点

(1) アイヌの認定

●認定者
 アイヌと認定するのは、国ではない。公益社団法人北海道アイヌ協会が認定している。アイヌ協会の理事長が承認すれば、アイヌと認められ、補助金等を受けられる。これがアイヌ問題で最大の問題である。
 アイヌ問題研究家の的場光昭によると、平成20年(2008年)に的場が直接、北海道ウタリ協会(現・北海道アイヌ協会)に問い合わせたところ、同協会は次のように回答したという。
「アイヌの血を引くと確認された者、およびその家族・配偶者・子孫がアイヌである。また養子縁組などでアイヌの家族になった者も含まれるが、これは本人一代限りにおいてアイヌと認め同協会への入会が認められる」と。
 「アイヌの血」を引くかどうかについては、家系図、戸籍、除籍謄本等を判断資料としているらしい。だが、これらの資料は、科学的に血の継承を証明するものではなく、制度上の家族関係を表すものに過ぎない。問題は、アイヌ協会は、「アイヌの血を引くと確認された者」のほか、その家族・配偶者・子孫、養子縁組による者にまでアイヌと認定していることである。これでは、同居者や連れ子もアイヌと認定され得る。
 アイヌ系日本人である砂澤陣は、次のように述べている。「そもそも、現在アイヌと自称している人達の中に、自然と共生し、アイヌ語を話す純粋なアイヌは一人もいない。それどころか、協会が認めれば誰でもアイヌというのが現状である」と。
 実際にはアイヌの血を引いていなくともアイヌと認定されれば、異常に手厚い社会保障の特権を受けることができる。先に東京在住のアイヌが激増していると書いたが、アイヌ協会が認定すれば、誰でもアイヌになれるから、補助金目当ての偽(にせ)アイヌが増えていると考えられる。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 *************

 細川一彦著『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)

 https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

*********************************

アイヌ施策推進法9~北海道アイヌ協会

2019-05-27 09:26:17 | 時事
●昭和戦後期のアイヌ
 
 アイヌは、幕末から和人に同化したことで、生活が大きく向上した。その中で新たな格差が生じた。松前藩時代の役土人制は、幕府直轄の時代から明治・大正・昭和の時代を通じて、形を変えて踏襲された。大東亜戦争後も、役付きのアイヌ系日本人は他のアイヌと違って、多くの和人以上に非常に裕福だった。
 日本を占領したGHQは、昭和22年(1947年)に農地改革を行った。この時、有力アイヌは、自分たちは大地主だから適用外にしてほしいとマッカーサーに要請した。実際、アイヌの酋長やその一族らは、裕福で広大な土地を持ち、日本人を小作人として使っていた。しかし、マッカーサーは、アイヌの要請を受け入れなかった。それでアイヌの地主は土地を没収されたが、これは日本人の地主も同じことだった。
 また、当時、GHQのスイング司令官は、「アイヌに独立する意思はないか」と尋ねた。しかし、アイヌは「自分たちは日本人だ」といって、独立を断った。日本人としてのアイデンティティを持ち、日本国民として生きることをあらためて選択したわけである。
 昭和20年(1945年)8月、ソ連は一方的に日ソ中立条約を破棄し、日本に侵攻し、南樺太と千島列島を占拠した。そこに居住していたアイヌは、残留の意志を示した者を除いて、日本に送還された。送還されたアイヌもまた、日本国民として生きることを選択したのである。

◆北海道アイヌ協会
 昭和5年(1930年)に北海道アイヌ協会が設立された。北海道庁の主唱で、アイヌの同化を前提に、アイヌの社会的地位の向上を目的として組織されたものである。その後、大東亜戦争期には活動が停滞し、敗戦後の昭和21年(1946年)に社団法人として再建された。
 昭和30年(1965年)、アイヌ出身の天才言語学者で北海道大学教授だった知里真志保は、アイヌの実態について、次のように書いた。
 「今これらの人々は一口にアイヌと呼ばれているが、その大部分は日本人との混血によって本来の人種的特質を希薄にし、さらに明治以来の同化政策の効果もあって、急速に同化の一途をたどり、今はその固有の文化を失って、物心ともに一般の日本人と少しも変わることがない生活を営むまでにいたっている。したがって、民族としてのアイヌは既に滅びたといってよく、厳密にいうならば、彼らは、もはやアイヌではなく、せいぜいアイヌ系日本人とでも称すべきものである」(『世界大百科事典』(平凡社、昭和30年版)
 しかし、一部のアイヌ系日本人は、アイヌとしての意識を強め、組織的な活動を行ってきた。その中心となったのが、北海道アイヌ協会である。
 北海道アイヌ協会は、昭和35年(1960年)に再建総会を開催した。翌36年(1961年)に、名称を北海道ウタリ協会と改めた。ウタリはアイヌ語で「同胞・仲間」等を意味する。改称は、アイヌ差別が理由だったというが、平成21年(2009年)に再度、北海道アイヌ協会に名称を戻した。現在は、公益社団法人北海道アイヌ協会となっている。
 戦後、北海道旧土人保護法は、社会の変化によって実情と合わない点が多くなり、その廃止が課題となった。北海道ウタリ協会は、昭和59年(1984年)から新たな法律の原案を作り、立法化を図った。平成6年(1994年)、萱野茂がアイヌとして初の国会議員(参議院議員)となり、立法化が推進された。平成9年(1997年)、アイヌ文化振興法が国会で成立し、施行された。これに伴い北海道旧土人保護法は廃止された。
 アイヌ文化振興法は、アイヌを固有の民族として位置づけた初めての法律であり、国や地方自治体にアイヌ文化の調査・研究、承継者の育成、国民への啓発活動等を進めることを義務づけた。
 同法の目的は、第1条に次のように定められている。「この法律は、アイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌ文化が置かれている状況にかんがみ、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する国民に対する知識の普及及び啓発を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与することを目的とする」と。
 このように同法は、「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与すること」を目的としている。アイヌ文化については、第2条に、「アイヌ語並びにアイヌにおいて継承されてきた音楽、舞踊、エ芸その他の文化的所産及びこれらから発展した文化的所産をいう」と定めている。
 だが、同法は「アイヌの人々の民族としての誇り」の尊重を強調しながら、民族とは何かの定義が書かれていない。定義を欠いたままアイヌを民族と呼んでいる。
 また、同法はアイヌを先住民族とは認定していない。しかし、同時に衆議院,参議院内閣委員会にて「アイヌの人々の『先住性』は、歴史的事実であり、この事実も含め、アイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発の推進に努めること」が決議された。この決議は、安易に「先住性」を「歴史的事実」とする過ちを犯している。
 ところで、北海道旧土人保護法のもと、アイヌの資産管理能力の不足等を理由として、アイヌの共有財産は北海道知事が委託され管理してきた。アイヌ文化振興法の施行後、北海道は、共有財産の現金のみの返還を官報で公告した。これに対し、北海道ウタリ協会札幌支部理事の小川隆吉らアイヌ24人は、返還手続きの無効の確認を求めて提訴した。これをアイヌ民族共有財産裁判という。平成18年(2006年)に最高裁で原告敗訴が確定した。だが、これを不服とする一部のアイヌは、政治的な活動を強めてきた。次に、アイヌの現状について書く。

 次回に続く。

アイヌ施策推進法8~北海道旧土人保護法の制定

2019-05-24 09:45:16 | 時事
●北海道旧土人保護法の制定

 アイヌの窮状を救う動きが起こった。明治26年(1893年)、衆議院議員の加藤正之助は、北海道土人保護法案を帝国議会に提出した。だが、廃案になってしまった。アイヌは法案成立を目指して、自らの代表を送って国会に陳情した。
 その陳情の甲斐あって、明治32年(1899年)に北海道旧土人保護法が制定された。以後、政府はこの法律の下でアイヌの保護政策を行った。
 アイヌは文字を持たず、計算ができなかった。風呂に入る習慣がなく不衛生で、結核・疥癬・梅毒・トラホーム等が蔓延していた。そのままでは滅びてしまうので、同じ日本国民として保護するために、この法律がつくられた。
 日本政府がアイヌに対して行った政策は、台湾において行った政策と比較すべきものである。わが国は日清戦争に勝利した結果、明治28年(1895年)、シナ(清国)から台湾の割譲を受けた。以後、約50年間、台湾を統治し、国民が明治天皇の一視同仁・四海兄弟の精神を体して、台湾の発展と台湾人の幸福のために貢献した。日本人は国内においては、北海道のアイヌに対して、同様の精神を以って生活向上に努めた。北海道で開拓者たちは、橋を架け、病院を開き、学校を建て、ダムを造った。アイヌもまた北海道民として、これらの恩恵に浴した。台湾では善政を行い、アイヌには悪政を行ったのではない。
 北海道旧土人保護法は、決して差別的な内容のものではない。そのことは、法案の提案理由に次のようにあることを見れば、明らかである。「北海道の旧土人即ちアイヌは、同じく帝国の臣民でありながら、北海道の開くるに従って、内地の営業者が北海道の土地に向って事業を進めるに従い、旧土人は優勝劣敗の結果段々と圧迫せられて・・・同じく帝国臣民たるものが、かくの如き困難に陥らしめるのは、即ち一視同仁の誓旨にそわない次第という所よりして、この法律を制定して旧土人アイヌもその所を得る様に致したいというに、外ならぬことでございます」と。(現代文は、ほそかわによる)
 法律の名称に使われた「土人」という言葉には、差別的な意味はなかった。「その土地に生まれ住む人」「土着の民」という意味で、江戸時代の文献から大東亜戦争後の公文書にいたるまで普通に使われていた。旧土人と「旧」をつけたのは、「旧(ふる)くからその土地に居住する人々」という意味である。旧土人とは「旧(ふる)くから住んでいる土地の人」という意味」。昭和47年(1972年)頃から差別的な言葉と意識され、やがて使用されなくなった。

◆内容
 北海道旧土人保護法は、旧土人すなわちアイヌに無償で土地や農具、種子を与えて自立を支援し、また積極的な生活扶助・社会福祉・教育奨励を行うことを定めたものである。
 同法は、第1条で、アイヌで農業をしたいと志す者には、一戸につき土地1万5千坪を無償で与えるとしている。1万5千坪は、五町歩すなわち約5ヘクタールである。この面積は、民間の開拓者に下付された面積と同じである。屯田開拓は三町五反であり、屯田兵より優遇されていた。無償で下付した土地については、第2条で、相続以外は他に譲渡することはできない、また質権・抵当権・地上権・永小作権は設定できないとした。これは、文字が読めず、契約をよく理解できないアイヌが、悪い和人に騙されて土地を失うことのないようにしたものだろう。また、下付された土地には、30年間、固定資産税・地方税を課さないとして、特別の免税が定められている。第4条で、アイヌで貧困の者には農具及び種子を給付するとしている。
 次に、生活扶助・社会福祉については、第5条で、傷病者や病気で自費治療することができない者には、薬代を支給するとしている。第6条で、怪我・病気・身体障害・老衰・幼少のため自活することができない者を救済するとし、死亡した場合は埋葬料を支給するとしている。
 わが国で社会保障が発達したのは、大東亜戦争後である。戦前の日本で、明治時代からこのように手厚い社会保障がアイヌに対して行われていたことは、驚くべきことである。
 次に、教育奨励については、第7条で、アイヌの貧困者の子弟で就学する者には、授業料を支給するとしている。第9条で、アイヌの集落のある場所には国庫によって小学校を設置するとしている。
 こうした内容から、北海道旧土人保護法は、アイヌの保護を目的とした法律だったことは明らかである。政府は、北海道に住む和人の貧困者より、アイヌを優遇したのである。

◆保護法下の実態
 アイヌの多くは、政府から土地や農具等を与えられても、自ら汗水流して農業労働をすることを好まなかったようである。与えられた土地を、和人の小作人に貸して、小作料(当時は物納)を取っていっている者もいた。また、酋長とその一族らは、共有財産を私物化していた。
 明治時代になっても、有力なアイヌは、ウタレと呼ばれる下僕・下人を多数持ち、労働力として使っていた。歴史学者の岩崎奈緒子は、著書『日本近世のアイヌ社会』に、アッケシ(厚岸町)では、ウタレを所持していたのはアイヌの世帯全体の5%であり、有力アイヌのイコトイは、ウタレを30~40人余も所持していたと記している。アイヌ社会には、はっきりした身分や貧富の差があったのである。明治政府は、ウタレを解放し、彼らも自立できるように支援した。人権の擁護を主張する者は、アイヌの酋長と明治政府のどちらを支持するか、見解を明らかにすべきである。
 次に、明治政府は、アイヌの子供の教育のために、多大な予算と労力を注いだ。政府は、アイヌの子供に教育を受けさせるために学校を作って、文字を教えた。アイヌは、子供を家業に働かせたり、子守に出して酒代を稼がしたりしていた。子供を学校へやりたがらない親には金銭を与えて、子供を学校に行かせた。アイヌの児童には給食や学用品を与えた。アイヌの生活習慣に合わせて始業時間を遅らせた。入浴習慣がないため、風土病や伝染性の罹患率が高かったので、彼らを学校で入浴させ、身体をきれいに保つことを教えた。現場の教師が苦労してこうした指導をしたことが記録に残っている。
 こうした北海道旧土人保護法のもとに行われた政策は、アイヌを保護し、文明生活へと導いた。アイヌ自身が保護を受けて、日本の文化・社会に同化することを望んだ。明治・大正・昭和戦前期を通じて、アイヌの同化は進んだ。

 次回に続く。

アイヌ施策推進法7~明治時代前半のアイヌ政策

2019-05-22 06:48:42 | 時事
●明治時代前半のアイヌ政策
 
◆北海道の命名
 明治2年(1869年)年8月15日、蝦夷地は太政官布告によって「北海道」と命名された。「北海道の名付け親」と言われるのは、松浦武四郎である。松浦は、幕末から明治時代初めにかけて活躍した北方探検家である。蝦夷地の他、樺太、国後島、択捉島等を探査し、詳細な記録を数多く残した。アイヌとの交流を深め、アイヌが蝦夷地で安心して暮らせるようになることを願って行動した。明治政府で開拓判官に任じられ、蝦夷地に替わる名称として「北加伊道」等を提案し、それがもとになって、「北海道」に決まった。
 同年、北海道開拓使庁が置かれ、北海道の開拓が本格的に開始された。開拓の最大の目的は、ロシアの脅威に対抗することだった。そのために西郷隆盛が屯田兵制度を立案し、明治7年(1874年)に法令が施行され、翌年から入植が行われた。一般の農民も次々と入植し、北海道の人口が増加した。
 地名には、アイヌ語由来の名称が多く採用された。その名称は、天照大神等の日本古来の神々を祀る神社の名称にも使われた。愛別神社・比布神社等がその例である。ここには、否定や排除ではなく、肯定と受容の姿勢が表れている。

◆保護政策
 明治4年(1871年)に戸籍法が制定され、翌5年に戸籍が編製された。これを壬申戸籍という。アイヌは「平民」として編入されて戸籍に登録され、日本国民の一部となった。アイヌは、これを拒否して独立運動を起こしてはいない。この時、政府は、アイヌの風習の一部を禁じる通達を出した。
 明治政府は、アイヌが幼い女児に行う刺青を禁じた。顔の口元への入れ墨は、日本国民として社会生活をするうえで、大きな不利となったからである。ただし、これに従わなくとも処罰されることはなかった。それゆえ、昭和時代初期まで半ば公然と刺青が行われていた。
 また、アイヌには、父親が死ぬと、死後の世界でその霊が困らないように、死者ともども家屋・家財を焼き払うという風習があった。明治政府は、それが富の蓄積を妨げ、貧困の原因になっているとみなし、この風習も禁止した。
 主な禁止事項は、この2点である。
 アイヌの文化を絶対視し、無条件に保護すべしと考える者は、女児の刺青や家屋・家財の焼き払いの禁止を不当とし、その復活を主張するのだろうか。それぞれの民族は、独自の文化・伝統・慣習を持つ。その中には、悪習・悪弊もある。時代の変化とともに、良い部分は維持し、悪い部分は廃止しながら進むところに、新たな創造がある。どの民族の文化もそうであり、日本の文化もまた古代からそのようにして発達してきた。既存のものをなんでも維持すべきと考えるのは、単なる頑迷である。
 なお、政府による禁止の対象ではないが、アイヌには飲酒に関する風習がある。明治時代に日本を訪れた探検家イザベラ・バードは、北海道も探検した。著書『日本奥地紀行』において、バードはアイヌの「最大の悪徳」は飲酒だと断じた。彼女によると、アイヌは交易等による儲けを全部はたいて日本酒を買い、それをものすごく多量に飲む。アイヌは、「神々のために飲む」と信じており、泥酔が「最高の幸福」であり、泥酔状態は彼らにとって神聖なものとされていたという。こうした大量飲酒は、経済的にも、健康のためにも大きな害のある習慣である。アイヌといえば、その文化・習慣のすべてを守るべき価値あるものと考えるのは、行き過ぎである。
 明治政府は、アイヌを保護するために、優先的に漁具や漁場を与えた。だがアイヌがサケや鹿の乱獲を行ったので、資源の枯渇を防ぐために規制を加えた。自然に近い生活をしている集団が、必ずしも自然の保護をするとは限らない。政府はまた、アイヌに対して授産と教化を進めた。だが、物々交換経済のアイヌは貨幣経済に馴染むことができず、成果はあまり上がらなかった。
 明治15年(1882年)に北海道開拓使が廃止され、19年(1886年)に北海道庁が設置された。道庁は、明治24年(1891年)にアイヌへの授産指導を廃止した。すると、大量飲酒の習慣があるアイヌは、焼酎一本、酒一升での漁場や耕作地を手放してしまい、政府が与えた彼らの生活基盤の多くが失われてしまった。

 次回に続く。

アイヌ施策推進法6~アイヌの歴史:平安時代から江戸時代まで

2019-05-20 13:21:59 | 時事
(3)アイヌの歴史

●平安時代末期から江戸時代まで

 アイヌが北海道の歴史に出現したのは13世紀だが、和人はもっと前から北海道に居住していた。ここで和人とは、日本民族のうち本州以南で弥生文化及びそれ以降の文化を発達させた集団をいう。
 『日本書紀』には、7世紀後半に和人である阿倍比羅夫が北海道の蝦夷を服属させ、粛慎を平らげたことが書かれている。そのことから、当時北海道に先住していた者がいたこと、大和朝廷は北海道を平定し、これを日本の一部としていたことがわかる。
 その後も、和人は北海道に居住し続けてきた。平安時代の中期から後期、東北では奥州藤原氏が栄えた。岩手県平泉町の中尊寺金色堂が有名だが、藤原氏は多量の金を保有していたことで知られる。藤原氏は、北海道の渡島半島南部にある知内で、砂金を採掘していた。また、12世紀前半には、胆振地方の厚真町に勢力を及ぼし、仏教を伝えていたことがわかっている。そのことを示す出土品が、約870年前に作られた常滑焼壺で、仏教広布のために奥州各地に造営された経塚に用いられる壺と同種とされる。また北海道最古の神社である函館の船魂(ふなだま)神社は、保延元年(1135年)の創立である。北海道沿岸部には、700~800年以上の歴史を持つ神社が複数ある。それゆえ、アイヌが北海道に先住していたのではない。アイヌよりも百年ほど先に住み着いた和人がいたのである。少なくとも北海道のある地域にはアイヌが、別の地域には和人が住んでいる状態が続いたのである。アイヌが北海道全体に先住していたということはあり得ない。
 ところが、一般に江戸時代には北海道にはアイヌだけが住んでいて、和人が侵入してひどいことをしたと思われている。そういう教育がされてきたからである。これは間違いである。
 平安時代末期以降、和人とアイヌはともに北海道に住んできた。その間で戦いが何度かあった。それらの戦いは、和人とアイヌの戦いとはいえ、和人は和人で鎌倉時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代と各地で戦いを繰り広げていたのであり、特にアイヌとだけ戦ったのではない。和人とアイヌの戦いで有名なものに、コシャマインの戦いと、シャクシャインの戦いがある。
 コシャマインの戦いは、室町時代中期の康正2年(1456年)に、北海道渡島半島で起きた。安藤氏が津軽半島から蝦夷地に逃亡した後、和人とアイヌの対立が起こり、東部アイヌの首長コシャマインに率いられたアイヌが蜂起した。アイヌ軍は優勢に戦いを進めたが、花沢館主蠣崎(かきざき)季繁の客将・武田信広が和人軍を指揮して反撃し、コシャマイン父子を射殺して、アイヌ軍は鎮圧された。
 この戦いによって、アイヌが大量殺戮されて滅亡したり、土地をすべて奪われたりはしていない。以後も、アイヌは北海道で一定の勢力を維持したからである。
 武田信広は、蠣崎家を継ぎ、その子孫が松前藩を興した。松前藩は、徳川家康に所領を安堵され、松前地方を治めた。松前藩は、寛永12年(1635年)に北海道全島と千島・樺太を含む北方地域の調査を行った。この松前藩の統治下で起きたのが、元禄12年(1660年)のシャクシャインの戦いである。
 ことの発端は、和人がアイヌを侵攻したのではない。胆振・日高地方等のアイヌが漁猟権をめぐって部族紛争を起こしたのがきっかけである。松前藩がその一方を支援すると、シベチャリ族の副族長シャクシャインが、他の部族に呼びかけて松前藩と戦った。そこには、松前藩の支配に対するアイヌの不満があった。
 アイヌの酋長やその一族は、和人との交易で富を蓄え、多数の鉄砲を持つに至っていた。だが、鉄砲の威力で優る松前藩が優勢に戦いを進めた。シャクシャインらの賠償の提出と助命という条件で和議となった。しかし、松前藩はシャクシャインらを謀殺し、砦を攻め落として、戦いを鎮圧した。その結果、蝦夷地における松前藩の主導権が確立された。
 松前藩のやり方はよくないが、この戦いにおいても、アイヌが大量殺戮されて滅亡したり、土地をすべて奪われたりはしていない。江戸時代の末期、アイヌの酋長や有力な一族は、大資産家だった。日本刀を百振余りも持っている家が複数あったという。刀一振りは、現在の価値に換算すると200万円程度と推定される。刀だけでも2億円相当の財産を持っていたことになる。
 ロシアの脅威を意識するようになった江戸幕府は、北辺防備のため、文化4年 (1807年) までに松前藩を陸奥梁川に転封して、蝦夷地全島を直轄とした。
 この間、間宮林蔵は、1800年に蝦夷地御用雇となり、蝦夷地測量中の伊能忠敬に測量術を学び、蝦夷地や択捉島を測量した。それが伊能の「蝦夷地沿海実測図」を完成させるきっかけとなった。間宮はさらに樺太、アムール川流域も探検し、樺太が島であることを確認した。
 江戸時代には、和人が北海道に多く渡り、1850年頃には、北海道のほとんどの場所に、アイヌと同時に多くの和人が住んでいた。また、北海道の人口はアイヌより和人の方が多くなっていたと推計されている。アイヌと和人女性の交わりにより、アイヌに和人のDNAが入ったと考えられている。江戸時代になると、アイヌにN9bが多くなっているのは、このためと見られる。
 幕府は一時、北海道を松前藩に返還したが、ロシアのプチャーチンが来航すると、北方防衛の必要性に迫られた。安政元年(1855年)、日露和親条約が締結され、日本とロシアの国境線が決定した。これによって、当時の国際法の下、日露双方の領土が確定した。幕府は、ロシアへの防備のため、安政2年 (1855年)に再び蝦夷地の大半を直轄とした。アイヌには、こうした領土防衛の意識や能力は期待できない状態だった。
 日露和親条約以後、北方に住むアイヌは、大半が日本国民となった。ロシア国民となった一部のアイヌは、樺太、千島等に居住し続け、多くはロシア正教徒になった。なお、明治維新後、明治8年(1875年)にロシアと樺太千島交換条約が結ばれると、政府は物資の補給と防衛上の理由から、千島のアイヌのほとんどを色丹島へ移住させた。

●松前藩と幕府のアイヌ政策

 松前藩は、アイヌに日本語を話すことを禁じたり、髷も含めた日本風の服装を禁じた。これはアイヌの中に日本語を話したり、和風の服装をしようとする者がいたということである。松前藩は、こうした文化政策を行う一方、アイヌに対して役土人制を敷き、アイヌを藩の行政組織に組み込んだ。役土人とは、アイヌが村役人に擬した名称の役職に任じられたものである。その地位の者は、松前城で藩主に謁することができた。また、松前藩は、一定地域におけるアイヌとの交易を商人に委ね、毎年運上金を受け取る場所請負制を敷いた。この制度のもとに、松前藩はアイヌを酷使したり、和人の出稼ぎ漁民に重税を課すなどした。この制度の弊害は大きく、明治政府によって廃止されることになる。
 蝦夷地を直轄統治に戻した幕府は、松前藩が禁じていた日本語の使用や和風の服装等を自由とした。すると、アイヌは公に日本語を話せるようになり、日本文字を使用できる者が増えた。その結果、アイヌ文化が失われることになっていった。文字を持たない民族が文字を持つ民族と交流すると、文字を持たない民族は、必ず文字を持つ民族に同化されていく。評論家の西部邁は、これを「歴史の法則」だと指摘している。強制ではなく、文化の作用である。その作用による同化が、江戸時代後期から始まっていた。
 酋長やその一族など有力なアイヌは、和人との交易で巨万の富を得て、裕福な生活をしていた。彼らは多くの妾を所有していた。妾は性欲の対象だっただけでなく、労働力として使われていた。江戸後期の国学者で紀行家の菅江真澄は、著書『かたい袋』に、アイヌの妾は暇なく働かされ、妾が多くいれば男は寝て暮らせると書いている。女性の労働力の搾取である。
 当時、アイヌは人口が減少していた。幕府はその原因を、酋長らが多くの妾を囲い、若い男女の結婚の機会が奪われているためと判断した。十数人の妾を持って女性を独占する者もいた。そこで、幕府は妾の数を3人までに制限した。幕府がアイヌに禁じたのはこの一点だけだった。幕府は、若いアイヌの結婚を推進し、それによってアイヌの人口が増加した。このことは、幕府はアイヌの保護政策を行ったことを意味する。

 次回に続く。

■追記
 本項を含む拙稿「アイヌ施策推進法は改正すべし~その誤謬と大いなる危険性」は、下記に掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13-05.htm

アイヌ施策推進法5~北海道とアイヌの歴史

2019-05-18 08:28:41 | 時事
2.北海道とアイヌの歴史

(1)縄文期と古代の北海道
 日本列島では、旧石器時代の約1万2~3千年前頃から縄文文化が始まり、約2千3百年前に終わったとされる。縄文文化は定住を伴う狩猟採集文化であり、世界最古の高度土器文化として異彩を放っている。縄文人は、他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だった。
 旧石器時代には、鋭い刃の石器を作るために黒曜石が使われた。北海道紋別郡遠軽町にある赤石山は、当時日本最大の黒曜石の産出地だった。そこで切り出された黒曜石が青森県の三内丸山遺跡で出土している。縄文時代に、北海道と東北は海路で結ばれた広域的な文化圏を形成していたのである。その後、本州以南で水田稲作が普及すると、両者の文化に大きな違いを生じた。寒冷地の北海道では水田稲作ができず、縄文文化が継続した。本州以南では、稲作を基盤とする弥生文化が栄えた。
 『日本書紀』によると、658年すなわち斉明天皇の4年からの3年間、阿倍比羅夫は水軍を率いて、日本海側の東北の蝦夷(えみし)を討ち、帰順の誓約をした者には官位を与えたり、饗応したりした。また、北海道の蝦夷を服属させた。蝦夷は、東北・北海道の縄文人の子孫と考えられる。
 阿倍比羅夫は、粛慎(みしはせ)を平らげたとも『日本書紀』は記している。粛慎は、蝦夷を襲っていた民族であり、オホーツク人と推測される。阿倍比羅夫は、北海道の後方羊蹄(しりべし)に政所を置き郡領を任命して帰ったとも記されている。江戸時代末期の探検家・松浦武四郎は、阿倍比羅夫の足跡を調査し、後方羊蹄を尻別川流域と推測した。
 『日本書紀』の記述は、7世紀後半に北海道に先住していた者がいたこと、大和朝廷は北海道を平定し、これを日本の一部としていたことを示している。その記述の600年ほど後になる13世紀になってから、北海道の歴史にアイヌが現れる。

(2)アイヌとは何か
 アイヌは自分たちを「アイヌ」と呼んだ。原義は「人間」である。彼らは和人を「シャモ」等と呼んだ。原義は「隣人」である。和人は彼らを「土人」等と呼んだ。
 かつては、アイヌ民族は縄文人の子孫であり、原日本人であるという見方が定説のようになっていた。この見方は依然として有力である。生物の遺伝子の本体となっているのは、DNA(デオキシリボ核酸)である。平成30年(2018年)初め、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのグループは、縄文人の核DNA解析を行った結果として、現代日本人の遺伝情報のうち、縄文人から受け継いだのは12%に留まる。縄文人のDNAはアイヌで50%以上であり、沖縄の人たちで20%程度だと発表した。このデータによると、現代日本人のうち、アイヌ系日本人は最も縄文人の遺伝情報を多く受け継いでいることになる。
 仮にアイヌは縄文人の子孫であるとしても、日本人のほとんどは縄文人の子孫であるから、アイヌと日本民族は縄文人を共通の祖先とする同じ民族ということになる。アイヌは、日本民族と別の民族ではない。この観点に立つと、アイヌを先住民族として規定するのは、民族でないものを民族とみなす間違いとなる。
 また、アイヌを独自の人種的特徴・言語・文化・宗教等を持つ民族だとみなすことが可能なのは、アイヌを縄文人とは別の民族と考える時のみである。現在は、そうした民族的要素のほとんどが失われているが、歴史的には一個の民族だったと考える場合、それが先住民族といえるかどうかが問題となる。
 アイヌは縄文人の子孫かどうかについては、先に引いたものとは別の遺伝子研究によって、北海道縄文人の単純な子孫ではないことが明らかになっている。
 アイヌが北海道の歴史に出現するのは、13世紀以降である。北海道では、5世紀からオホーツク海沿岸にオホーツク文化が栄えた。その文化の担い手をオホーツク人という。彼らは漁撈採集生活を送っていた。アザラシ等の海獣を狩猟する民族で、海外から北海道に侵入して定住するようになったと考えられる。北海道ではまた7世紀から特徴的な土器を持つ擦文文化も栄えた。その文化の担い手は北海道縄文人である。彼らは、弥生文化の影響を受けることなく、縄文文化を保っていた。
 13世紀に、北海道ではこれらのオホーツク文化と擦文文化が滅んだ。同時にアイヌの文化が歴史に現れた。この経緯は、まだよくわかっていない。しかし、近年遺伝子の研究によって、アイヌは、北海道縄文人の単純な子孫ではないことがわかった。その一方、オホーツク人とは遺伝的に近いこともわかった。
 DNAの配列の型をハプロタイプという。また、よく似たハプロタイプを持つ集団をハプログループという。DNAの継承において、母子間でのみ受け継がれるものが、ミトコンドリアDNAである。ミトコンドリアDNAのハプログループの中に、N9がある。N9は中国広東省付近で誕生したグループで、東アジアに広がっている。N9には、いくつかの下位グループがある。そのうちN9bは、ほぼ日本人特有のハプログループで、日本固有種といわれる。また、ハプログループYという集団があり、その遺伝子を持つ者は、縄文人や本土の日本人では1%未満だが、アイヌは20%もいる。
 北海道縄文人には、N9bが非常に多く見られる一方、アイヌに特徴的なYは出てこない。このことが意味するのは、アイヌは北海道縄文人の単純な子孫ではないということである。
 アイヌにはハプログループYの遺伝子を持つ者が20%いると書いたが、このアイヌと遺伝的な共通性が高いのが、オホーツク人である。
 オホーツク人は、樺太や大陸のアムール川下流域に住むニブフ(ギリヤーク人)に遺伝的に最も近い。それゆえ、アイヌは、大陸や樺太から来たオホーツク人と北海道縄文人が通婚して、誕生した民族ではないかという説がある(増田隆一北大准教授ら)。だが、北海道では、遅くとも7世紀以降、オホーツク人と北海道縄文人が交流していたと考えられる。その交流によって、13世紀頃になって、新たにアイヌという民族が誕生したとは考えられない。アイヌとオホーツク人や北海道縄文人との遺伝的なつながりは、むしろアイヌが後から北海道に入ってきて、オホーツク人や北海道縄文人と通婚した結果と考えられる。
 別の説として、アイヌはもともと日本に住んでいたのではなく、大陸や樺太から来て、オホーツク人や擦文文化人を滅ぼして、北海道に広がったのではないかという説がある(医師・的場光昭氏)。この説は、アイヌの熊送りの儀式が北海道縄文人や東北地方には見られず、ユーラシア大陸の狩猟民族の典型的な宗教文化であることと符合する。この説によれば、アイヌはもともと日本に住んでいたのではなく、800年ほど前に大陸からやってきて、オホーツク人や北海道縄文人の文化を滅ぼしたと考えられる。これは、北海道の歴史とほぼ一致する。
 800年ほど前というのは、シナ大陸での諸民族の動きと関係している。13世紀はじめ、チンギス・ハーン(1167~1227)がモンゴル帝国を建設し、シナ大陸に進出した。彼の死後、元が1271年に建国され、1368年まで存続した。このモンゴル族の活動に圧されて、北東シベリアの熊送りの儀式をする内陸狩猟民族が、大陸から樺太に移動し、さらに北海道に渡った可能性がある。オホーツク人は、考古遺物や人骨の研究からアムール川流域の漁撈民をルーツに持つと考えられているから、内陸狩猟民族とは異なる。
 熊送りをするアイヌは、シナ大陸の狩猟民族が700~800年ほど前に、北海道に来たというのが最も説得力のある仮設だと私は思う。この場合、アイヌは海外から侵入した民族であり、オホーツク人や北海道縄文人こそが先住民族だったことになる。
 縄文人のDNAがアイヌで50%以上あるというのは、北海道縄文人及びその子孫との混血が多く行われた結果と考えられる。
 先にアイヌは縄文人の子孫であるとすれば、日本民族と別の民族ではなく、アイヌを先住民族として規定するのは間違いだと書いた。これとは別に、アイヌは700~800年ほど前に海外から侵入した民族だとすれば、北海道には別の民族が先住していたので、アイヌは先住民族ではない。どちらにしても、アイヌを先住民族と規定するのは間違いということになる。

 次回に続く。

アイヌ施策推進法4~アイヌを先住民族とすることを求める国会決議

2019-05-17 09:39:03 | 時事
(4)アイヌを先住民族とすることを求める国会決議
 国連宣言の翌年、平成20年(2008年)6月6日、国会で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が可決された。衆参両院全会一致だった。
 決議案は、前日の6月5日に突然提出され、質問も反対意見も述べる機会のないまま、翌6日に決議された。異例の進め方である。
 国会決議の主要な部分は、次の通りである。

 「我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされた歴史的事実を厳粛に受け止めなければならない。政府はこれを機に次の施策を早急に講じるべきである。

一 政府は「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を踏まえ、アイヌの人々を日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族と認めること。
二 政府は「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されたことを機に、同宣言における関連条項を参照しつつ、高いレベルで有識者の意見を聞きながら、これまでのアイヌ政策を推進し、総合的な背策の確立に取り組むこと」。

 この決議が依拠する国連宣言には、先住民族を定義づける記述がない。国会決議にも先住民族とは何かという定義がない。また、アイヌが北海道に「先住」していたかどうかの歴史的裏付けがなく、今日のアイヌが「独自の言語、宗教や文化の独自性」を有しているかどうかの裏付けもない。「差別され、貧窮を余儀なくされた」と断定している根拠も示されていない。
 このような決議が、国会で質疑応答や民主的な議論をすることなく、突然なされたのである。その経緯について、平成20年(2008年)6月7日の北海道新聞は、概略次のように報じた。
 決議に向けた動きが水面下で始まったのは、同年1月、鈴木宗男代表が自民党北海道連会長の今津寛衆院議員に持ちかけたのがきっかけだった。民主党の鳩山由紀夫幹事長も同じ思いだった。3月には今津を代表として「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」が発足し、水面下で政府との調整を行い、決議の原案を作成した。しかし、自民党の党内手続きで必要な政務調査会(会長 中川昭一衆院議員)の審査を経れば、「さらに異論が出てまとまらなくなる」(閣僚経験者)とみて、いきなり党の最高意思決定機関である総務会に諮り、了解を得た。通常手続きではないが、「決議の骨格を守るための巧妙な案」だった。「自民党内で議論すると流れるので党内議論もなしで、国会議員には予め議案も提示せず、いきなり採決に持ち込んだ」と。
 民主党・社民党・共産党等の野党は、左翼的な人権・反権力の思想が浸透しており、決議案に異論のない状況だった。一方、与党の自民党は、前年の平成19年(2007年)に発覚した「消えた年金問題」で国民の批判を浴び、内部が混乱していた。仮に解散総選挙になれば、大敗を喫する可能性があった。ここで浮上するのが、連立与党である公明党の存在である。公明党は、長年アイヌ問題を熱心に進めていた。自民党は公明党の選挙協力を得るために、満足な議論もせずに、国会決議を進めたとみられる。ちなみに平成30年(2018年)末にアイヌ担当大臣が誕生したが、公明党がずっとポストを押さえている国土交通大臣が兼任している。
 先ほど述べたように、国連宣言には先住民族の明確な定義がない。それなのに、国会がアイヌを先住民族とすることを求める決議をしてしまった。ただし、あくまで「アイヌ民族を先住民族とすること」を「求める決議」であって、「認める決議」ではなかった。
 しかし、この決議に乗じて、アイヌ関係団体は、翌年の平成21年(2009年)6月、アイヌ民族の先住権、自決権に基づく法整備を求めて、政府に次の事項を要請した。(1)同化政策などに対する政府と天皇の謝罪、(2)土地・資源等を奪ったことへの賠償。(3)国会と地方議会の民族特別議席。(4)アイヌ語を中心にアイヌ文化・歴史を学べる教育機関の設置――である。当時、政府は、この要請を認めなかった。
 だが、その後、この10年ほどの間、一部のアイヌや左翼が、アイヌを先住民族とし、アイヌの権利を認めるよう、政府に執拗な働きかけをしてきた。そして、ついに今回、アイヌを先住民族と盛り込む法律が国会で成立した。
 そのことの何が問題なのかを述べるには、まずアイヌの定義、歴史、現状から書く必要がある。

 次回に続く。

アイヌ施策推進法3~左翼は先住民族や国連を利用している

2019-05-15 12:49:19 | 時事
(3)先住民族の権利に関する国連宣言(続き)
 国連宣言は、先住民族に関して、自己決定権、自治権、国政への参加と独自の制度の新設、奪われた権利の賠償、土地・領土・資源の返還等を認めるべきことが書いてある。
 アメリカ、カナダ、オーストラリアなどは、国連宣言に反対した。彼らはインディアンやアボリジニーの土地を奪って大量虐殺している。この宣言を認めれば、どれほどの賠償金や広大な土地返還が要求されるかわからない。だから、反対した。日本はこの国連宣言に賛成した。アイヌは日本人であり、先住民族と見ていなかったからである。
 宣言が採択された後、平成19年10月3日、福田康夫首相は衆院本会議の答弁で、「(国連)宣言には先住民族を定義づける記述がなく、アイヌの人々が同宣言にいう先住民族であるかについては結論を下せる状況にはございません」と述べている。
 この政府の見解通り、国連宣言には、先住民族とは何かという明確な定義はない。
 ただし、宣言の全体を読むと、ここにいう先住民族とは、大体次のようなものと理解できる。すなわち、15世紀以降、白人が世界各地に進出した過程で、植民地化され、人権や基本的自由を剥奪された民族を指しており、また、独自の文化・伝統を持ち、侵略者によって集団的に虐殺されたり、文化を奪われたり、差別された人々である。アメリカのインディアンやオーストラリアのアボリジニーは、まさにこれである。だが、アイヌは、違う。これには当てはまらない。
 後に詳しく書くが、アイヌは700~800年ほど前から和人との交流を持ち続け、混血が進んだ。明治政府によって保護され、自ら日本語を学んで同化した。他の少数民族のように強制的に同化されたのではない。多数のアイヌが自分たちは日本人だと認識し、日本国民全体もまたアイヌも同じ日本人だと認識してきた。
 ところで、先住民族とは、ある地域に、いつの時点で、誰と比べて先住していた民族をいうのだろうか。白人種は15世紀以降、地理上の発見によって、南米・北米・アフリカ・オーストラリア等を植民地にした。その白人種がそれらの土地に上陸した時点で、先住していた民族を先住民族と呼ぶのであれば、話は15世紀以降に限定される。
 ところが、ある民族が他の民族が居住する地域に侵攻し、これを征服・支配した時点で先住した民族をすべて先住民族と呼ぶとすれば、話はいくらでもさかのぼり得る。
 人類は、先史時代から抗争と融和を繰り返しながら、文明を発達させてきた。日本においては、大和朝廷が日本列島を平定した過程が、『古事記』『日本書紀』に記されているが、そこには、大和朝廷の勢力に抵抗した各地の豪族があったことが書かれている。熊襲、隼人、蝦夷、土蜘蛛等がそれである。だが、彼らは抗争の後に服属したり融和したりしながら、言語・文化・宗教等をともにするようになり、日本民族が形成され、発達してきた。その結果として、現在の日本がある。
 白人種についても、4~6世紀にゲルマン人が東方からヨーロッパに侵入した際、アルプス以北には同じインド=ヨーロッパ語族のケルト人が先住していた。ローマ帝国の支配を受けて独自性を失い、ゲルマン人に圧迫されて、アイルランドやスコットランド、ウェールズなどの一部に残るだけになった。このケルト人をヨーロッパの先住民族とみなすならば、ゲルマン人の子孫は、ケルト人の先住民族としての権利を認めなければならないことになる。
 同様のことが、インドであれば、紀元前1500年頃、アーリヤ人が侵入した時点で、ドラヴィダ人ないしドラヴィダ人につながる民族が先住していた。彼らは、現在も南インドを中心に居住している。これを先住民族とみなすならば、アーリヤ人の子孫はドラヴィダ人に対して、先住民族としての権利を認めなければならないことになる。
 こうした歴史を際限なくさかのぼり、その時点での先住民族の権利を主張するならば、あらゆる文明・文化をひっくり返すことになる。それゆえ、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」は、解釈の仕方によっては、人類の歴史における抗争を掘り起こし、収拾のつかない混乱を広げるものとなる。そして、国際的な左翼は、それを狙っているのだろう。既成の秩序は、歴史的に作られたものである。国際的な左翼は、その秩序を覆し、自分たちの目指す社会を実現するために、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」や国連という組織そのものを利用していると私は考える。

 次回に続く。

アイヌ施策推進法2~先住民族の権利に関する国連宣言

2019-05-13 09:59:23 | 時事
(3)先住民族の権利に関する国連宣言
 こうした国際的な左翼の動きの結果、平成19年(2007年)9月13日、国連で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(以下、国連宣言)が採択された。ここで、先住民族とは、indigenous peoplesの訳である。
 国連宣言には、長大な前文が置かれている。主語は「総会」である。市民外交センター訳で要所を見ると、
 「・・・先住民族が他のすべての民族と平等であることを確認し、・・・
 先住民族は、自らの権利の行使において、いかなる種類の差別からも自由であるべきことをまた再確認し、先住民族は、とりわけ、自らの植民地化とその土地、領域および資源の奪取の結果、歴史的な不正義によって苦しみ、したがって特に、自身のニーズ(必要性)と利益に従った発展に対する自らの権利を彼/女らが行使することを妨げられてきたことを懸念し、
 先住民族の政治的、経済的および社会的構造と、自らの文化、精神的伝統、歴史および哲学に由来するその生得の権利、特に土地、領域および資源に対する自らの権利を尊重し促進させる緊急の必要性を認識し、・・・
 国家と先住民族との間の条約、協定および建設的な取決めによって認められている権利は、状況によって、国際的な関心と利益、責任、性質の問題であることを考慮し、・・・
 本宣言中のいかなる規定も、どの民族に対しても、国際法に従って行使されるところの、その自己決定の権利を否認するために利用されてはならないことを心に銘記し、・・・・・・」などとしている。
 そして、「以下の先住民族の権利に関する国際連合宣言を、パートナーシップ(対等な立場に基づく協働関係)と相互尊重の精神の下で、達成を目指すべき基準として厳粛に宣言する」として、46条にわたる条文が書かれている。
 だが、長大な前文を見ても、本体である条文を見ても、宣言のどこにも、先住民族を明確に定義づける記述がない。先住民族の定義を欠いたまま、先住民族なるものの権利を並べている。
国連広報センターのサイトは、この宣言について、次のように書いている。「宣言は、文化、アイデンティティ、言語、雇用、健康、教育に対する権利を含め、先住民族の個人および集団の権利を規定している。宣言は、先住民族の制度、文化、伝統を維持、強化し、かつニーズと願望に従って開発を進める先住民族の権利を強調している。また、先住民族に対する差別を禁止し、先住民族に関係するすべての事項について完全かつ効果的に参加できるようにする。それには、固有の生活様式を守り、かつ経済社会開発に対する自身のビジョンを追及する権利も含められる」と。
 こうした国連宣言が総会で採択されるに至るまでの過程は、簡単に書くと次のようだった。昭和57年(1982年)に、国連の人権小委員会が先住民に関する作業グループを設置し、この作業グループが宣言の草案を作成した。平成5年(1993年)に、国連総会は、この年を「世界の先住民の国際年」と宣言し、以後の10年(1995~2004年)が「世界の先住民の国際の10年」、さらにその後の10年(2005~2014年)が「第2次世界の先住民族の国際の10年」に指定された。そして、平成19年(2007年)に先の国連宣言が総会で採択されたわけである。
 再び国連広報センターのサイトから引くと、このサイトは、先住民族について、次のような文章を掲載している。
 「先住民族は世界のもっとも不利な立場に置かれているグループの一つを構成する。国連はこれまでにもましてこの問題を取り上げるようになった。先住民族はまた最初の住民、部族民、アボリジニー、オートクトンとも呼ばれる。現在少なくとも5,000の先住民族が存在し、住民の数は3億7000万人を数え、5大陸の70か国以上の国々に住んでいる。多くの先住民族は政策決定プロセスから除外され、ぎりぎりの生活を強いられ、搾取され、社会に強制的に同化させられてきた。また自分の権利を主張すると弾圧、拷問、殺害の対象となった。彼らは迫害を恐れてしばしば難民となり、時には自己のアイデンティティを隠し、言語や伝統的な生活様式を捨てなければならない」と。

 次回に続く。

アイヌ施策推進法は改正すべし~その誤謬と大いなる危険性1

2019-05-11 09:26:51 | 時事
●はじめに

 平成31年(2019年)4月19日に「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」、略称アイヌ施策推進法が成立した。
 アイヌ施策推進法は、法律として初めてアイヌを「先住民族」と位置づけ、差別の禁止、アイヌ文化を生かした地域振興策を行うための交付金制度の創設等を定めた。同法のもと、政府はアイヌ政策推進本部を設置し、政府や自治体の責任で産業や観光の振興等に取り組み、アイヌ以外の国民との共生や経済格差の是正を図るとのことである。同法は平成19年(2007年)の国連宣言で先住民族の権利とされた自決権や教育権等は盛り込まず、付帯決議で宣言を尊重するよう政府に求めるにとどめたとはいえ、「先住民族」と法律に規定したことによって、今後多大な影響が予想される。私は、慰安婦問題以上の国際的な問題に拡大していくだろうと懸念する。
 アイヌは、特色ある文化を持ち、北海道の観光地で親しまれている。自然と共生する民族というイメージを持っている人も多いだろう。だが、アイヌの団体である北海道アイヌ協会には、様々な問題があることが指摘されてきた。アイヌ施策推進法の成立によって、補助金等の不正支出・不正受給や政治的な偏向などアイヌ協会の問題が全国に広がるだろう。また、一部のアイヌが土地の返還、謝罪・賠償、さらに自治権・独立を要求することが予想される。中国がアイヌの運動を利用する動きを見せていることも注意を要する。
 本稿は、アイヌ施策推進法の成立前に書いた拙稿「アイヌ新法は日本を分断し、亡国に導く」に続いて、同法によって生じる問題点を述べるものである。20回ほどの予定である。

●左翼の謀略とアイヌ施策推進法への経緯

(1) アイヌを利用する左翼の謀略
 私は、昭和29年(1954年)北海道の北東部にある北見市に生まれ、高校まで北見市とその周辺で育った。私の高校時代は、共産主義の思想が日本を席巻していた。私もその影響を受けた。高校2年の時、70年安保をめぐる騒動が起こった。それが日米安保条約の自動延長という形に終わった後、共産主義運動は世界的に大きく後退した。私は、共産主義の理論と活動に矛盾と限界を強く感じ、以後、その克服に取り組んだ。数年後、共産主義は人類を破滅に導く危険思想であると確信した。
 1970年代、共産主義に執着する左翼の過激派は、アイヌに目をつけ、これを革命運動に利用しようとする動きを始めた。昭和46年(1971年)に、トロツキストで過激派の教祖といわれた太田龍(栗原登一)が『辺境最深部に向って退却せよ! 』 を出した。私はそれを読んで、狂気に近い情念と不気味な戦略性を感じた。
 太田は、昭和48年(1973年)に、アナーキストの平岡正明、竹中労との共著で、窮民革命論を唱えた。昭和53年(1978年)の警察白書は、窮民革命論について、「我が国では、既に一般の労働者は革命へのエネルギーを失い、アイヌ、在日朝鮮人、日雇労働者等の少数の差別を受けている人だけが革命の主体になりうる」と記し、「極左暴力集団の一部」が主張している理論としている。ここにアイヌが革命の主体になり得るものの一つとして登場した。
 太田は、独自の思想を展開し、アイヌを担い手とする日本革命論を唱道して、過激派を扇動した。私の小学校の時、学校にアイヌの子が一人いた。その後、知り合いはいない。観光地や民芸品店以外では、アイヌと会った記憶がない。昭和40年代には、既にアイヌはごく少数の集団となっていたと思われる。そのような集団に目をつけ、革命に利用しようとする太田の思想に、私は驚きと脅威を感じた。
 昭和49年(1974年)に三菱重工ビル爆破事件が起こった。東アジア反日武装戦線「狼」による無差別爆弾テロ事件だった。このグループによる風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件は、アイヌの首長シャクシャインが殺害された日を選んでいた。
 昭和52年(1977年)には、北海道庁爆破事件が起こり、死者2名、負傷者95名を出した。太田の「アイヌ革命論」の影響を受けた過激派による爆弾テロだった。こうして、アイヌを利用する左翼過激派の運動は、世の中の注目を受けるようになった。
 「アイヌ革命論」とは、先の警察白書によると、「日本帝国主義を打倒し、独立した共和国を建設する革命の主体は、アイヌを中心とする抑圧され、差別されている少数の民族であり、これらの人々が相提携して、日本帝国主義者が収奪し、搾取した領土、文化等を取り戻すべきだ」という理論である。アイヌを中心とする少数民族を革命の主体として、日本に革命を起こそうというものである。
 アイヌ革命論は、当初はごく少数の一部の爆弾テログループの主張だった。だが、その後、左翼の運動に広く影響を及ぼしてきた。左翼の過激派やそのシンパである市民運動団体は、アイヌの関係団体を沖縄の左翼や在日韓国人・朝鮮人、旧民等の組織と結びつけて、反日的・反国家的な活動を行っている。
 新左翼最大の党派である中核派は、平成16年(2004年)1月、機関誌『未来』で、沖縄での「琉球自治区」、北海道の「(アイヌ)自治共和国」によって「日本の支配構造」を打破することを主張している。それを通じて、共産主義革命を実現しようとするものである。
 それゆえ、アイヌの政治的な活動は、左翼反日勢力の運動と切り離しては考えられないものになっている。

(2)「白い共産主義」と少数民族の利用
 共産主義には、二つの種類がある。一つは、ロシア革命のように、武力によって革命を起こし、政権を奪取するものである。もう一つは、伝統的な文化を破壊し、人々の意識を変えることで、社会を共産化していくものである。前者は武力革命型、後者は文化革命型である。前者を「赤い共産主義」、後者を「白い共産主義」とも呼ぶ。
 平成3年(1991年)のソ連の崩壊後、先進国では、武力による革命を目指す「赤い共産主義」は、大きく後退している。しかし、その一方、伝統文化の破壊による文化革命を目指す「白い共産主義」が、教育・マスコミ等に深く浸透し、知らずしらずに日本の家庭や社会が蝕まれている。
 白い共産主義の理論を構築した学者のグループに、ドイツのフランクフルト学派がある。ユダヤ人が多く、ナチスの台頭により、主な者は米国に亡命し、米国で活動した。彼らの最左派だったのが、マルクーゼである。「来るべき文化革命でプロレタリアートの役を演じるのは誰か」――マルクーゼが候補に挙げたのは、若者の過激派、黒人運動家、フェミニスト、同性愛者、社会的孤立者、第三世界の革命家などだった。労働者階級に代わって西洋文化を破壊するのは彼らだというのである。
 マルクーゼは「第三世界の革命家」に目を付けた。先進国の中で第三世界に当たるのは、発展途上国からの移民労働者やもともと住んでいた少数民族である。米国ではインディアンの権利を主張する運動が、1950年代から行われており、マルクーゼの理論は、米国で少数民族の権利の主張を共産主義運動に利用するものとなった。その影響が世界的に広がっている。
 左翼は、「人権」「平等」「寛容」「多様性」等の理念を掲げ、一部のマイノリティ(少数民族、女性、性的少数派等)が迫害されているという思想を広げ、マイノリティを擁護する運動を展開する。その目的は、マイノリティの権利を拡大することによって、社会を分裂させ、体制の転覆を進めることである。
 世界各国の左翼が少数民族を利用して、自分たちの目的を追求する活動を行っている。特に人権の擁護を推進する国連に働きかけ、国連で少数民族の権利を要求することを通じて、現在の世界の秩序を覆そうとしている。
 人権の問題は、今日の世界で極めて重要なものとなっている。その点は、拙稿「人権――その起源と目標」をご参照願いたい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i.htm

 次回に続く。

■追記
 本項を含む拙稿「アイヌ施策推進法は改正すべし~その誤謬と大いなる危険性」は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13-05.htm