goo blog サービス終了のお知らせ 

ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心109~東洋の理想と日本の目覚め:岡倉天心1

2022-05-08 08:49:55 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■日本の心109~東洋の理想と日本の目覚め:岡倉天心1

 明治の日本主義と、そこから展開した日本精神論を振り返る時、これらと深いつながりのあるアジア主義にも目を向ける必要があります。そこで、忘れてならないのが、岡倉天心の存在です。
 明治37年(1904)3月のある日、アメリカの大都会ニューヨークを、ひげを生やした男が闊歩していました。羽織・袴に黒足袋・雪駄ばきです。2、3人の若者が物珍しげに寄ってきて、冷やかし半分にたずねました。
 「ジャパニーズ、チャイニーズ、ジャバニーズ、ウイッチ・ニーズ、アーユー?」(お前は日本人かシナ人か、それともジャワ人か?) 男はそれには答えず、こう切り返しました。「モンキー、ドンキー、ヤンキー、ウイッチ・キー、アーユー?」(お前は猿か、ロバか、それともアメリカ人か?) この男こそ、岡倉天心でした。

●アジアは一つ

 岡倉天心は、日本の美、東洋の理想を世界に伝えた美術思想家です。明治11年(1878)、天心の在学する東京開成学校(後の東京大学)に、アメリカ人教師がやってきました。フェノロサでした。彼は哲学を教えるかたわら、日本の美術の研究にのめりこんでいました。そして彼はやがて日本美術の復興を提唱していきます。彼との出会いが、天心の人生を変えました。フェノロサの研究を手伝った天心は、卒業後に文部省に入り、フェノロサとともに奈良・京都などの古美術調査を実施しました。その後、天心は東京美術学校(現東京芸大)の創設(1889)に係わり、同校の校長となります。しかし、その後失脚して同校を去ることになります(1898年3月)。そして同年10月、橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草らとともに日本美術院(現在の院展)を立ち上げました。彼らの目指したのは、伝統的な日本画に西洋的な手法を取り入れた新しい日本画の創造でした。
 しかし、日本美術院の経営はうまくいかず、明治34年(1901)天心は、失意のうちにインドに渡りました。そこで天心は、インドの文化の偉大さに感銘を受けました。また、後年世界的に有名になる詩人タゴールと出会い、意気投合しました。また、イギリスの支配下に置かれているインド人の苦悩と屈辱感を知りました。
 天心は、インドに旅立つ前に、ある英文の原稿を書き上げていました。それは日本の美術史を中心とした壮大な東洋文明論でした。インドから帰ると、天心はその原稿に手を加えて、明治36年(1903)、ロンドンで出版しました。それが『東洋の理想』です。
 『東洋の理想』は”Asia is one.”という有名な言葉で始まります。「アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明、すなわち、孔子の共同社会主義をもつ中国文明と、ヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、ただ強調するためにのみ分かっている。しかし、この雪をいただく障壁さえも、究極普遍的なるものを求める愛の広いひろがりを、一瞬たりとも断ち切ることはできないのである。そして、この愛こそは、すべてのアジア民族に共通の思想的遣伝であり、かれらをして世界のすべての大宗教を生み出すことを得させ、また、特殊に留意し、人生の目的ではなくして手段をさがし出すことを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族からかれらを区別するところのものである」と。
 天心は、アジア民族に共通する精神的な特質とは、「究極普遍的なものへの愛」だとします。その愛が、仏教・キリスト教・イスラムなどの世界的な大宗教を生み出したのだと。また天心が本書で展開する日本と東洋の美術史もまた、「究極普遍的なものへの愛」が生み出した美の歴史だともいえます。
 「究極普遍的なもの」、それは宇宙の理法とも、神、真理、生命の本源ともいえるでしょう。東洋アジア人、なかんずく私たち日本人は、アジアを一つに貫いてきた「究極普遍的なものへの愛」を今一度、燃やすべき時に立っているのではないでしょうか。
 日本主義・日本精神とともに、アジア主義に目を向けることは、「究極普遍的なもの」に対する日本人の思いを取り戻すことにもなっていくのです。

●東洋の理想

 さて、天心の名著『東洋の理想』(明治36年)は、「アジアは一つである」と始まりました。続く部分で、天心は、日本は「アジアの思想と文化を託す真の貯蔵庫」となっていると書きます。そして、「日本はアジア文明の博物館となっている。いや博物館以上のものである。何となれば、この民族のふしぎな天性は、この民族をして、古いものを失うことなしに新しいものを歓迎する生ける不二一元論(アドヴァイテイズム)の精神をもって、過去の諸理想のすべての面に意を留めさせているからである」と記します。そして、次のように述べています。「日本の芸術の歴史は、かくして、アジアの諸理想の歴史となるーー相ついで寄せてきた東方の思想の波のおのおのが、国民的意識にぶつかって砂に波跡を残して行った浜辺となるのである」と。
 こうして天心は、古代から近代にいたる日本美術の歴史の記述へと筆を進めます。そこで彼は、日本のみの美術史ではなく、日本に流れ込んだインド・シナ等の東洋の美術と宗教と思想の歴史を、全アジア的・国際的なスケールで描いています。
 そして結章で、天心は書き記します。「アジアの栄光は、…すべての人の胸に脈打つ平和の鼓動の中にある。帝王と田夫とを合一させる調和の中にある。あらゆる共感、あらゆる礼譲をその結果たらしめるところの、崇高な同心一体の直感の中にある」。しかし、今日、インドやシナ(清)は西洋列強の支配を受けている。日本もまた欧化の中で、堕落・破滅へと進んでいるのかも知れない。「今日、アジアのなすべき仕事は、アジア的様式を擁護し、回復する仕事となる。しかし、これをするためには、アジアみずからがまず、これらの様式の意識を確認し発達させなければならない。けだし、過去の影は未来の約束だからである。いかなる木も、種子の中にある力以上に偉大になることはできない。生命はつねに自己への回帰の中に存する」。こう天心は書いています。
 本書の末尾で、天心は、呼びかけます。「われわれは、暗黒(※西洋列強による征服・支配)を引き裂く稲妻の閃く剣を持っている。何となれば、恐ろしい静寂は破られなけれならず、新しい花が生い出てその美しい色で大地を覆うことができる前に、新しい生気の雨の滴がそれを清新にしなければならないからである。しかしその大いなる声が聞こえて来るのは、この民族の千古の道筋を通って、アジアそのものからでなければならない。内からの勝利か、それとも外からの強大な死か」と。
 本書『東洋の理想』において天心は、西洋近代の物質文明の弊害を克服する価値観として、東洋の精神文化のもつ価値観がいかに貴重かを世界に示そうとしました。近代以降、欧米に支配され虐げられたという点において、東洋は運命を共有していると天心は認識しました。欧米の支配下にあって自信を失っているアジア人の姿に天心は憤りました。そして、日本の美術に結晶したアジアの歴史を再発見することによって、精神的伝統を取り戻せ、自らの理想に向かって立ち上がれと、アジアの人々に、天心は訴えました。
 しかし、天心は武力をもって対抗せよと言ったのではありません。天心は、力によって異文明・他民族を侵略・支配・搾取し、自然をも征服して、ただ無限に富だけを追う西洋の姿勢を批判します。そして、アジアは、西洋と同じ道を行くのではなく、本来の平和的、自足的、調和的なものを追う伝統を復活させるべきだと訴えたのです。そして、世界平和の実現のためには、アジアのみでなく西洋諸国をも目覚めさせなくてはならないと、天心は考えたのです。
 こうした「東洋の理想」こそ、今日、私たちが掲げるべき目標といえるでしょう。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心108~武士道の復活を願う:新渡戸稲造2

2022-05-06 07:26:03 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


■日本の心108~武士道の復活を願う:新渡戸稲造2

 武士道は本来、武士階級に発達したものでした。「だが」と新渡戸は書いています。武士道は「やがて国民全体の憧れとなり、その精神となった。庶民は武士の道徳的高みにまで達することはできなかったが、大和魂、すなわち日本人の魂は、究めるところ島国の民族精神を表すにいたった」。そしてそれが武士だけでなく、日本人全体の道徳の基礎となっていることを新渡戸は述べています。
 また、新渡戸は、欧米人にとっては日本には宗教がないと見られがちだが、武士道には、神道・仏教・儒教の顕著な影響が見られることを説き、日本精神には、独自の深い宗教性があることを明らかにしています。そして、この精神は世界に通じる精神であると唱えています。
 新渡戸稲造が、著書『武士道』を発表し、世界に向けて、武士道を伝えたのは、明治32年(1899)のことでした。日本が明治維新を成し遂げ、アジアで初めての近代国家として、国際社会で注目されていたころです。当時、欧米では日本人の精神面・道徳性についてはほとんど知られていませんでした。そうした欧米の知識人に向けて、新渡戸は、武士道こそが「日本の活動精神、推進力」であり、「新しい日本を形成する力」であることを伝えようとしました。そして、次のように書いています。
 「維新回天の嵐と渦の中で、日本という船の舵取りをした偉大な指導者たちは、武士道以外の道徳的教訓をまったく知ることのない人であった。近代日本を建設した人々の生い立ちをひもといてみるとよい。伊藤、大隅、板垣ら現存している人々の回想録はいうまでもなく、佐久間、西郷、大久保、木戸らが人となった跡をたどってみよ。彼が考え、築き上げてきたことは、一に武士道が原動力となっていることがわかるだろう」と。
 しかし、新渡戸は、同時にこの明治維新によって、社会的な階級としての武士は消滅したことを記しています。西洋文明や科学技術の導入によって、日本は新しい国に大きく生まれ変わりつつありました。しかし、新渡戸は、武士道は不滅であり、必ずや新たな形で生き続けることを確信していました。
 確かに明治以降の日本のリーダーたち、経済人やジャーナリストや教育者などには、武士道から理想や信念を学んだ人たちが、多くいます。武士道は姿形を変えて、日本人の生き方のなかに受け継がれてきたのです。また今なお、武士道は、日本人の道徳心や規範意識を支えていることを、見逃すべきではありません。
 新渡戸は書いていました。
 「武士道は一つの独立した道徳の掟としては消滅するかもしれない。しかしその力はこの地上から消え去ることはない。その武勇と文徳の教訓は解体されるかもしれない。しかしその光と栄誉はその廃虚を超えて蘇生するにちがいない。あの象徴たる桜の花のように、四方の風に吹かれたあと、人生を豊かにする芳香を運んで人間を祝福し続けるだろう。何世代か後に、武士道の習慣が葬り去られ、その名が忘れ去られるときが来るとしても、『路辺に立ちて眺めやれば』、その香りは遠く離れた、見えない丘から漂ってくることだろう」と。
 新渡戸稲造の『武士道』が発刊されて、120年有余年が過ぎました。彼の言葉は、予言のようにも祈りのようにも響きます。
 現代の日本では、武士道に現れたような道徳心は廃り、日本人から香り高い精神性は、消えうせたかに思われます。
 武士道は、「日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華」と新渡戸は述べました。そうした武士道の精神を忘れ去ってしまったならば、日本人は精神的に劣化していくばかりでしょう。
 この21世紀において、日本が大転換の時を迎えている今、私たちは、新渡戸の言葉に耳を傾け、武士道に現れた精神的伝統を取り戻すべき時に立っていると思います。
 明治維新後、身分としての武士は消滅しました。四民平等・廃藩置県等の政策が断行され、武士階級の消滅とともに、それまでの武士道そのものは担い手がなくなりました。しかし、近代国家建設を進める過程で、武士の道徳は全国民のものになりました。国民皆兵によって、それまでは武士だけのものだった「武」の役割が、国民に広く共有されたからです。ちょんまげや帯刀は廃りましたが、国を守る、主君を守るという意識が普及し、武士道が国民の道徳となりました。封建的な武士道は形を変えて、近代的な道徳として再生されたわけです。具体的には、教育勅語や軍人勅諭によく表れています。
 新渡戸稲造の『武士道』は武士道の道徳的な側面を強調し、武士の本質の一つである「武」の部分を軽視しています。「武」の部分を補ったうえで、明治中期から昭和戦前期における、近代国民的な武士道の展開をとらえる必要があるのです。
 新渡戸が『武士道』を発表した5年後の明治37年(1904)、日本はロシアと戦い、この大国に勝利しました。日露戦争は日本の興亡をかけた大戦争でした。その戦争に勝利できたのは、武士道の「武」の部分が大いに発揮されたからです。乃木希典や東郷平八郎らが体現した武士道が日本を救ったのです。また、この勝利によって日本が国際社会で高く評価され、さらに日本人は道徳性の高さによって尊敬を受けるようにもなりました。
 ところが、大東亜戦争の敗戦後、日本は連合国によって軍事的に武装解除され、さらにGHQの占領政策によって、精神的にも武装解除がされました。GHQは武士道に関する書籍や映画等を禁じ、西郷隆盛に関する本すら出版できなかったのです。国民には国防の義務がなくなり、国防の意識すら奪われました。私は、こうして占領期から本格的に武士道の精神が失われ出し、戦後の憲法と教育の下で、ますます失われてきていると思います。
 その結果、日本や日本的なものを守るという意識そのものが低下し、日本人は、自国の領土を侵されても鈍感になり、自国の文化を奪われても抗議すらできないような、無抵抗・無気力の状態になり下がっていると思います。武士道を失った日本人は、アメリカ・中国・韓国等の圧力に対して、自己を保つことすらできないで、右往左往しています。こうした状態が続けば、日本は亡国に陥り、日本人は苦海を漂流することになるでしょう。
それゆえ、日本の再生のために、「武士道のリバイバル」は重要なポイントとなっているのです。

参考資料
・新渡戸稲造著『武士道』(岩波文庫)
・新渡戸稲造著・奈良本辰也訳・解説『現代語で読む 武士道』(三笠書房) 

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心107~武士道の復活を願う:新渡戸稲造1

2022-05-04 08:07:27 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


■日本の心107~武士道の復活を願う:新渡戸稲造1

 武士道が廃れ始めた時代、それは明治維新によって近代化が進められていた時代でした。その時代に、武士道について、書物をまとめ、世界に紹介した人物がいます。それが、五千円札の肖像にもなった新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)です。
 新渡戸は、ある時、ベルギーの学者に日本のことを質問されました。「あなたがたの学校では宗教教育というものがないというのですか」。新渡戸は答えました。「ありません」。教授は驚いて聞きました。「宗教がないとは! いったいあなたがたは、どのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」。
 キリスト教が文明の基礎となっている欧州では、道徳は宗教を元にしたものであり、宗教なしに道徳教育など考えられないのでしょう。しかし、日本にはそれに代わるものがある、それは武士道だと新渡戸は思い至りました。そして明治32年(1899)、英文で『武士道』を書きました。原題は、“Bushido, the Soul of Japan”、つまり『武士道――日本の魂』でした。新渡戸は、本書で武士道こそ日本人の道徳の基礎にあるものだということを、欧米人に知らしめようとしたのです。
 新渡戸は武士の子でした。幕末の文久2年(1862)盛岡(現岩手県盛岡市)に生まれた彼は、武家の家庭教育を受けました。そして新渡戸は、明治の大改革の時代に成長しました。クラーク博士の下で西洋の科学を学び、海外に出て活躍した国際的日本人でした。
 名著『武士道』で新渡戸は、武士道を詳細に論じています。まず新渡戸は、「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である」と説き起こします。そして、武士道の淵源・特質、民衆への感化を考察しています。
 新渡戸によると、武士道とは、もろもろの徳から成っているものです。以下、各項目から、内容の一部を抜粋し、概観して見ましょう。

●「武士道の渕源」より~「武士道は『論語読みの論語知らず』的種類の知識を軽んじ、知識それ自体を求むべきで無く叡知獲得の手段として求むべきとし実践窮行、知行合一を重視した」

●「義」より~「義は武士の掟の中で最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振舞程忌むべきものはない」

●「勇、敢爲堅忍の精神」より~「勇気は義の為に行われるのでなければ、徳の中に数えられるに殆ど値しない。孔子曰く『義を見てなさざるは勇なきなり』と」

●「仁、即惻隠(そくいん)の心」より~「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適しき徳として賞賛せられた」

●「礼」より~「作法の慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は、日本人の著しき特性にして、他人の感情に対する同情的思い遣(や)りの外に表れた者である。それは又、正当なる事物に対する正当なる尊敬を、従って、社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する」

●「誠」より~「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。…『武士の一言』と言えば、その言の真実性に対する十分なる保障であった。『武士に二言はなし』二言、即ち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている」

●「名誉」より~「名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。… 廉恥心は、少年の教育において、養成せられるべき最初の徳の一つであった。『笑われるぞ』『体面を汚すぞ』『恥づかしくないのか』等は非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった」

●「忠義」より~「シナでは、儒教が親に対する服従を以って、人間第一の義務となしたのに対し日本では、忠が第一に置かれた」

●「武士の教育及び訓練」より~「武士の教育に於いて守るべき第一の点は、品性を建つるにあり。思慮、知識、弁論等、知的才能は重んぜられなかった。武士道の骨組みを支えた鼎足は、知・仁・勇であると称せられた」

●「克己」より~「克己の理想とする処は、心を平らかならしむるにあり」

 以上のように、武士道は多くの徳によって成り立っており、高い精神性をもつものだったことを、新渡戸は解き明かしています。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心106~21世紀、東洋人の課題:三宅雪嶺

2022-05-02 07:48:06 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■日本の心106~21世紀、東洋人の課題:三宅雪嶺

 三宅雪嶺は、明治の中期から昭和前期まで活躍した精神的巨人です。国際的な視野を持つジャーナリストであり、哲学者、歴史家でもありました。万延元年(1860)、石川県金沢の医師の家系に生まれ、昭和20年(1945)85歳で没しています。
 早くから社会問題に関心の強かった雪嶺は、明治21年(1888)、政府の条約改正案や欧化政策に反対して、志賀重昂らとともに政教社を設立し、雑誌『日本人』を創刊しました。
 当時使われた「国粋」という言葉は、ナショナリティの訳語で民族性・国民性を意味します。そして、「国粋保存」という言葉が広まりました。しかし、雪嶺はこのことを残念がります。「国粋保存」は適当でない、「国粋顕彰」や「国粋助長」が良いというのです。実際、政教社の人々は、日本固有の制度や風俗習慣を、ただそれだけで保守しようとしたのではありません。欧化であれ国粋であれ、本当に価値があるかどうか十分考慮したうえで、取捨選択すべきだという合理的態度を良しとしたのです。
 明治22年5月、雪嶺は『余輩国粋主義を唱導するあに偶然ならんや』を発表します。この中で、雪嶺は次のように書いています。
 「たとい欧米の風俗を採用するも、たとい旧来の習慣を打破するも、日本在来の精神はこれを保存せざるべからず、これを顕彰せざるべからず、これを助長せざるべからず。ある部類の人士のごとく、その心志を英に化し、その精神を独に変じて、自ら得たりとするは、日本人にして日本人にあらざるなり、言を換えて言えば、泰西(=西洋)の利機はこれを採用するも、泰西の智識はこれを利用するも、各自『日本人』たるの精神はこれを喪亡せざるべしとすること、これなり」
 雪嶺は東西の哲学を検討し、わが国における最初の自覚的な哲学書『哲学涓滴(けんてき)』(明治22年)を書きました。その緒論で次のように述べます。「東洋といひ西洋といへば、優劣自ら判然たるが如なれども、マルコ・ポロの元の世祖に仕へし時は、恐くは東洋を以て西洋に超越すと為せしならん」と。つまり、彼はかつては東洋が西洋にまさっていた時代があった、近代のヨーロッパの優越は相対的なものであると認識していました。「一盛一衰は自然の勢いのみ。盛なれば貴ばれ、衰ふれば賎(いやし)まる。(略)嗟吁(ああ)東洋果して永く下劣を甘んじて、西洋果して常に秀憂を誇るか。時あり、勢あり、資質奚(なん)ぞ異ならん」。彼は、やがて東洋が再び西洋にまさる時が来ることを、歴史的に予想していたのです。
 雪嶺は、当時ほとんど顧みられなくなっていた東洋哲学を、世界の思想の中で、西洋哲学と並ぶものとして位置づけます。そして、東西両哲学の総合をめざします。「我国儒教を伝ふる久し。仏教を伝ふるも久し。若し泰西(たいせい=西洋)の哲学を注入し、混然和合して新に進化開達するに及ては、東海において宇内(うだい=世界)第二十世紀の哲学界を支配するを得ん」。雪嶺は、東西の思想が相補って世界の文明を進展させるべきだと考えました。この課題は、21世紀の東洋人の大きな課題でもあります。今から110数年前、明治維新後、わずか20年あまりの時代に、かくも雄大な思想が胚胎されていたことは、驚嘆に値しましょう。
 雪嶺は、西洋白人種が支配する世界において、東洋アジア人が目覚めるべき時が来たことを感得し、日本人の個性と役割を自覚しました。彼は次のように書いています。
「その実力の薀蓄(うんちく)ひとたび暢達(ちょうたつ=発揮)せば、世界史のふたたび蒙古種の紀事に充たされんこと、けっして疑いを容るべからず。…東洋の問題に矻々(こつこつ=努力)するはまさにこれ蒙古人種を因睡(いんすい=眠り)より醒起(せいき=目覚めさ)して、重大なる任務のあるところを知らしめ、それをしてアリアン(=アーリア人種)と馳駆(ちく=奔走)して世界の円満なる極処を尋求せしむるのみ。二十世紀より後はけだし蒙古種に取りて好望の世なり。しかして日本人に取りてまたもっとも好望の世なり」
 雪嶺は、こうした主張を、続く著書『真善美日本人』において、大きく展開するのです。
 三宅雪嶺の名を不朽のものとしているもの、それが、明治24年(1891)、わずか32歳で世に問うた名著『真善美日本人』です。
 巻頭、雪嶺は次のように記します。「自国の為に力を尽すは、世界の為に力を尽すなり、民種の特色を発揚するは人類の化育を裨補(ひほ=補う)するなり、護国と博愛と奚(なん)ぞ撞着すること有らん」と。ここにおいて、雪嶺は、国家に尽くし民族の特色を発揮することが、世界のため、人類のためになる、愛国心と人類愛は矛盾しないと述べています。彼は国家と世界、民族と人類の間の共存調和を揺ぎない確信として語っているのです。
 続く第1章は「日本人の本質」です。ここで雪嶺は「日本人とはなんぞや」と切り出します。まさに日本人論です。明治維新後、ひたすら西洋文明を志向してきた欧化の風潮に対して、雪嶺は、日本人にとって必要なことは、まず日本人自身が何であるかを知ることであると主張します。そして、日本人のアイデンティティの発見を訴えます。
 注目すべきは、ここで雪嶺が、日本人の本質を、人類の進化という観点に立って自覚しようとしていることです。雪嶺は、人類進化の目標は、真・善・美という普遍的な価値の極致に至ることであるとします。そして、日本人にはこの理想の達成に貢献できる能力があるとし、西洋白人種が文明を独占していた当時の世界で、日本人は東洋アジア人として果たすべき使命をもっており、日本が覚醒した意義は大きい、と堂々たる見解を明らかにします。
 続いて雪嶺は、真・善・美の三つの領域における「日本人の能力」と「日本人の任務」を追求します。「真」に関して強調されているのは、日本人は、大いに西洋に学んで科学的国家になるとともに、東洋に関する学問を興すことです。「善」に関しては、列強の圧力に抗し国家としての独立を維持しながら、人権・公徳の実現をはかり、進んで正義を行なうべきことが力説されます。「美」に関しては、日本人は美的感覚に優れているが、その美は繊細な美に偏っているので、東洋や西洋の諸国に学び、もっと壮大な美をめざすべきだ、と主張しています。そして、こうした考察の下に、雪嶺は、日本人には「大に其の特能を伸べて、白人の欠陥を補ひ、真極り、善極り、美極る円満幸福の世界に進むべき一大任務」があると主張します。日本人が自らの本質を自覚し、その能力を発揮すれば、西洋白人種の欠陥を補って、人類の進化に貢献し、真・善・美の価値を実現した世界に進むことができるというわけです。
 こうした雪嶺の精神は独善主義を許しません。雪嶺は『真善美日本人』を公刊すると、同じ年、直ちに『偽悪醜・日本人』を世に出し、日本人の欠陥も厳しく指摘しました。本書と『真善美日本人』とは、一対をなしているのです。
 本書で雪嶺が述べているのは、日本と日本人の現実に対する厳しい批判と反省です。日本の近代化とともに現れてきた腐敗への、彼の憤りの深さが感じられます。すなわち、日本人の果たすべき使命の実現には、徹底的な日本の浄化が必要であり、積年の偽・悪・醜を一掃しなければならない。「偽」については、日本の学問は官僚の支配下にあり、学者自身も曲学阿世や私利私欲の徒が多いので、その弊害から脱すべきこと。「悪」については、社会の腐敗の根源は紳商(社会的地位の高い商人)・政商の跋扈(ばっこ)にあるので、彼らを一掃すべきこと。「醜」については、西洋の美の模倣から脱して、力強い日本の美を生み出すべきこと、を説いています。
 こうして雪嶺は、日本人の長所・短所、美点・欠点を総合的に把握し、そのうえで、日本人の世界史的使命を説いたのでした。個性の発揮を通じて、普遍的な価値を実現するーーそこに、日本古来の精神を発揚する意義があることを、雪嶺は今日の私たちに訴えています。明治の国粋主義あるいは日本主義は、独善的・排外的ではなく、国際的・人類的なスケールを持ったものだったのです。

参考資料
・『日本の名著 37 陸羯南・三宅雪嶺』(中央公論新社)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心105~日本主義は国民道徳の原理:高山樗牛

2022-04-30 06:09:03 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


■日本の心105~日本主義は国民道徳の原理:高山樗牛

 明治維新によって独立を守り、国際社会に参入した日本人が、大きな試練に遭遇したのが、日清戦争でした。それは、江戸時代末期のペリー来航以来、欧米の外圧の下に置かれてきたわが国の危機を、再認識させられる出来事でした。わが国はこの戦争に勝利することができましたが、列強の三国干渉を受け、苦渋をなめました。それとともに、日本人の民族的・国民的な自覚が高まりました。
 この頃、現れた新思想が、日本主義です。これは明治20年代初め、欧化現象への批判・抵抗として提唱された国民主義・国粋保存主義より、視野を広げ、一歩進んで提唱された思想です。
 日本主義という言葉を最初に使ったのは、志賀重昂のようだと志賀の項目に書きました。志賀は、明治21年(1888)雑誌『日本人』第6号で、「日本旨義」つまり日本主義を、「欧化旨義」つまり欧化主義と対比して打ち出したのです。日清戦争後には、国民道徳を顕揚する哲 学者・井上哲次郎も日本主義を唱え、倫理学者の木村鷹太郎が喧伝しました。明治30年(1897)には、井上・木村と高山樗牛(ちょぎゅう)らが中心となって「大日本協会」を創立し、機関紙『日本主義』を発行しました。その翌月、樗牛は『日本主義を賛す』を雑誌『太陽』に発表しました。
 樗牛は、明治27年、小説『瀧口入道』で彗星のように登場し、明治35年、32歳で亡くなるまで、文芸批評家、 思想家、美学者として短い生涯を駆け抜けました。『高山樗牛全集』は明治30年代の青年たちに熱烈な影響を与えました。
 樗牛の説いた日本主義とは、どういうものでしょうか。『日本主義を賛す』で樗牛は、「日本主義とは何ぞや」と問い、これを「国民的特性に本ける自主独立の精神に拠りて建国当初の抱負を発揮せむことを目的とする所の道徳的原理、即是なり」と定義しました。そして「日本主義は大和民族の抱負及理想を表白せるものなり。日本主義は日本国民の安心立命地を指定せるものなり。日本主義は宗教にあらず、哲学にあらず、国民的実行道徳の原理なり」としました。
 樗牛は次のように説いています。「帝国憲法、教育勅語、及び日本主義――吾人は是を以て明治思想上の三大事実となす。帝国憲法は国法の大綱を示し、教育勅語は教育の針路を明にし、日本主義は国民道徳の本領を指示するを主眼とす。若し夫れ大日本帝国の国体民性に基きて国民精神の統一を目的とするに至りては、三者其の軌を一にす」(『国民精神の統一』)。
 樗牛によれば、「国家は人生寄託の必然的形式にして又其の唯一形式」であり、「日本の国家は日本の国民の幸福の唯一且つ必然なる形式」です。それゆえに「日本主義は日本国民の性情に本づきて、皇祖建国の精神を発揮せしむことを目的とする所の国家的道徳の原理」(『世評を慨す』)にほかなりません。ただし彼が国家を至上と考えたのは、権威的な国家主義ではなく、「国民的性情」に根ざした「国家的道徳」のみが、実際に国民に「安心立命」の方向を示しうると考えたからでした。
 樗牛の「日本主義」は、日清戦争における日本の勝利の結果、「黄白人種最後の大格闘」はいまや不可避であり、「黄人種最後の運命を決すべき一大危機」は「眉睫の間に近づきつつある」という認識に立って、それに対処すべき日本のあり方を説こうとするものでした。このような認識の上に構築される「世界における日本の位置」は、欧米列強に伍すべき東洋・アジアの新興・日本の姿にほかなりませんでした。樗牛のいう「大格闘」は日露戦争という形で現実となりました。わが国は、この元寇以来の危機を、国民の一致団結によって、切り抜けました。そして、有色人種がはじめて白色人種に勝利したことによって、世界史は大きく転換することになったのです。
 樗牛らによる日本主義の唱導は、日本人が、西洋物質文明から東洋精神文明の時代へと向かう世界史の流れを感知し始めたことを示す、画期的な主張だったといえましょう。そして、この日本主義の思潮の中から、明治末期に「日本精神」という言葉が登場し、大正・昭和において日本精神論が大きく展開されていくのです。

参考資料
・ 高山樗牛著『樗牛全集』(日本図書センター)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心104~個性尊重の日本主義を提唱:志賀重昂

2022-04-27 08:29:04 | 日本精神
 日本主義という用語を使い出したのは、志賀重昂(しげたか)のようです。明治が生んだ世界的地理学者だった志賀は、三河国 (現・愛知県岡崎市) の武家に生まれ、札幌農学校を卒業しました。明治19年(1886)からダーウィンをまねて、船でオーストラリア、サモア、ハワイを歴訪し、帰国後その見聞記を書きました。その後も世界を旅行してほとんど全大陸を踏破し、当時の日本では比類のない大旅行家でした。
 志賀は明治27年(1894)日清戦争勃発の年に『日本風景論』を刊行しました。この書は、日本の気候の特徴、生物、水蒸気の現象、各地の火山等を描き、登山の準備、装備などについても詳細に書いたものです。古典文学からの引用と地理学の術語を駆使し、日本の風土がいかに欧米に比べて優れているかを情熱的な文章で綴(つづ)っています。この本は日清戦争と三国干渉の時期という時勢にのってベストセラーとなりました。若者が競って読み、発売後わずか3週間で完売したといわれます。 
 志賀は当時、既に思想家としても著名でした。明治21年(1888)、志賀は三宅雪嶺・杉浦重剛・陸羯南らと政教社を結成し、雑誌『日本人』を創刊しました。そして、「国粋保存主義」の唱導者として知られていました。
 「国粋」と聞くと、多くの人は右翼をイメージするでしょう。しかし、もともと「国粋」という言葉は 英語の nationality の訳語です。日本独自の風土や歴史や文化をとおして長年の間に形作られてきた国民性・民族性を意味します。志賀は、『日本人』第2号(1888)に次のように書きました。「国粋」とは「大和民族の間に千古万古より遺伝し来りし化醇し来り、終に当代に到るまで保存」されたものだ、と。そして、国粋保存主義とは、その「国粋」の「発育成長」を促し、大和民族を進化改良することを目的とする、と志賀は書いています。(『「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す分』)
 そして国粋保存主義とは、「国粋」こそ、今後、日本民族の進歩と改良とをめざすにあたって、もっとも考慮されるべき「標準」であり「基本」でなければならないとする主義である、と志賀は定義しています。
 ただし、これは外国文化を排斥するような排外的で閉鎖的な思想ではありませんでした。志賀は「日本の宗教、徳教、美術、政治、生産の制度を選択せんにも、亦『国粋保存』の大義を以て之を演繹せんとするものなり。然れども予輩は徹頭徹尾日本固有の旧分子を保存し旧原素を維持せんと欲する者に非ず。只泰西の開化を輸入し来るも、日本国粋なる胃官を以て之を咀嚼し之を消化し、日本なる身体に同化せしめん」とも書いています。(上掲論文)
 つまり、西洋の「開化」を採り入れても、それを日本的に「同化」することが大事だ、日本のめざすべきものは「西洋の開化」ではなく、あくまでも「日本の開化」でなければならないと、志賀は説いているのです。それゆえ、志賀の国粋保存主義とは、日本人としての主体的な姿勢を訴えるものだったわけです。 
 本来、国粋保存主義とは、各民族の「国粋」、つまり国民性・民族性の多様性を前提とするものでした。それは、各国民・各民族の個性を尊重する姿勢ともいえます。志賀は、次のように書いています。「人々個々の間に各自が最特の長処あるを以て、所謂分業なる者起るとなれば、邦国個々も亦長処を以て分業せざる可からざるや知るべし」と。これは、各国がそれぞれ長所を発揮して国際分業を行い、共存共栄することを説くものでしょう。国粋保存主義は、国際的な広がりをもった思想だったのです。
 志賀は「日本の国粋を精神となしこれを骨髄となし、而して後能く機に臨みて進退去就する」ところの「国粋保存旨義」とも書いています。日本の国粋を「精神」「骨髄」とする主義であれば、これを日本主義ということもできます。またこの「精神」を日本精神と呼ぶこともできます。
 実際、志賀は国粋保存主義を一歩進めて、『日本人』第6号(明治21年)では、「日本旨義」すなわち日本主義という用語を使用します。それは、「欧化旨義」つまり欧化主義と対比して打ち出したものでした。そして、志賀が提唱した日本主義は、その後、大きな発展を見せることになります。
 明治に出現した日本主義は、もともと排外的・偏狭的ではなく、主体的であるとともに国際性をもったものだったのです。

参考資料
・志賀重昂著『日本風景論』(岩波文庫)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心103~主体的で国際的な国民主義:陸羯南

2022-04-25 08:17:04 | 日本精神
 陸羯南(くが・かつなん)は、明治時代を代表する新聞記者であり、言論人です。広い意味での日本主義者の一人として、陸を指折ることが出来ます。
 弘前藩(現・青森県)の下級士族の出身である陸は、一時中央官庁に勤めたものの、政府の条約改正と欧化政策に反対して野に下りました。そして、明治21年(1888)年4月に政教社の雑誌『日本人』が創刊されると、これに呼応して翌22年2月、新聞『日本』を発刊します。『日本人』が「国粋保存主義」を唱えたのに対し、陸が標榜したのが「国民主義」です。その後、39年(1906)年に病で新聞の経営権を譲るまで、彼は同紙の社主・主筆として言論一筋に生きました。
 陸の新聞『日本』は、政権を争う機関でも私利を求める商品でもなく、主義のみによって立つ非党派、非営利の言論新聞をめざしました。同紙の創刊の辞において、陸は、国外に向かっての「国民精神の発揚」と、国内に向かっての「国民団結の強化」を、その目的として掲げます。そして、それによって、人類への「博愛」を持ちつつ「国民精神を回復発揚」しようという意思を表明しています。この「国民精神」とは日本の国民精神のことですから、後に使われる日本精神という言葉に置き換えて、理解することが可能です。
 さて、陸は、自身の国民主義を「ナショナリチー」を主張する思想を指す、といいます。そして、「一国の独立進歩は国民固有の元気性格に基き、外国文明の事物は国民の理想感情を以て之を同化する」主義と定義しています。その目的は「国民的特性即ち歴史上より縁起する所のその能力及び勢力の保存及び発達」です。それは閉鎖的・排外的なものではなく、単に外国の文化をうのみにせず、主体的な姿勢をもとうじゃないか、ということです。
 こうした陸の国民主義は、志賀重昂・三宅雪嶺・杉浦重剛らの雑誌『日本人』が説く国粋保存主義と同じ主旨のものでした。陸は「吾輩は国粋旨義に対して固より同感なれども。最初よりの慣用に従ひて、其の同一の旨義を国民旨義と称し来れり」(『日本』明治22年5月)と言っています。そして彼自身、『日本人』と『日本』の立場を総称して「国民論派」と呼んでいます。
 陸は『近時政論考』で次のように書いています。国民論派は西洋の主義・思想をそのまま信奉するものではない。例えば「代議政すなわち立憲政は他の論派にありては最終の目的なれども、国民論派にありては一の方法たるに過ぎず。しからばその目的はいかん。いわく、『国民全体の力をもって内部の富強進歩を計り、もって世界の文明に力を致さんこと』これその最終の目的なり」と主張します。また「国民論派は単に抽象的原則を神聖にしてこれを崇拝するものにあらず」と言います。国民論派は、自由主義と平等主義を共に必要なものだと認める、しかし「あえてその天賦の権利たりまたは泰西(たいせい=西洋)の風儀たるがゆえをもってするにはあらざるなり」とその姿勢を明らかにします。また、国民論派は個人主義にも国家主義にも偏るものではないと述べます。「個人主義を取るものは個人は国家のために存すと主張す。国家主義を取るものは個人は国家のために存すと主張す。二者ともに旧時の迷想を争そうに過ぎず。国民論派は個人と国家を並立してはじめて国家の統一および発育を得るものとなせり」と。 
 こうした国民論派は、鹿鳴館に象徴されるような欧化風潮に反対して起こったものです。「しかれども」と陸は書いています。「この論派はただに欧化風潮を停止することをもって満足するものにあらず。なお進んで日本の社交上および政事上に構成的論旨を有するものなり、されば国民論派は一時の反動的論派にあらずして、将来永遠に大目的を有するところの新論派と言うべし」と。この大目的とは、「国民全体の力をもって内部の富強進歩を計り、もって世界の文明に力を致さんこと」にほかなりません。
 陸の国民主義は、国粋保存主義と同じく、日本主義の先駆形態です。それは日本が自らの個性を保ち伸ばすことによって、世界人類に貢献しようという、主体的で国際性豊かな思想だったのです。

参考資料
・『日本の名著 37 陸羯南・三宅雪嶺』(中央公論新社)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心102~世界の中の日本:明治の日本主義者

2022-04-23 07:53:01 | 日本精神
 日本人は江戸時代までは、主にシナとの対比によって、自己認識をしました。せいぜい「東洋の中の日本」という自覚でした。しかし、明治維新によって西洋文明を採り入れ、欧化を進めた段階で、初めて「世界の中の日本」という自覚をもつようになりました。これは21世紀に続く世界史の舞台に登場した日本人の自己認識です。ここに出現したのが、日本主義(Nipponism)であり、日本精神論(Study of Japanese Spirit)です。
 維新後、文明開化によって、日本の近代化が推進されました。明治20年代の初めには、近代国家としての基礎づくりができました。この段階に至り、維新以来の20年を振り返って、反省と評価が行われるようになりました。そして、それまでの西洋・欧米への傾斜から、日本への回帰をめざす思潮が現れてきます。それは日本人が、「世界の中の日本」を自覚する動きでした。
 この時、現れた思潮が、国粋主義と国民主義(Nationalism)であり、それが、さらに発展して日本主義となります。また、日本主義の中から、日本精神という言葉が現われます。
 「国粋」とは、nationality の訳語です。今日では、国民性・民族性等と訳します。 
 「国粋主義」は、政教社の雑誌『日本人』が、「国粋保存」を唱道したのに始まります。政教社は、明治21年(1888)、当時の代表的な言論人、志賀重昂・三宅雪嶺・杉浦重剛らを中心に作られたグループです。彼らは、「国粋」の「保存」、つまり日本国民固有の特性を維持・発揚することを主張しました。そして、鹿鳴館外交に象徴される欧化主義、欧米追随路線に反対し、内政外交ともに日本自らの立場をとることを主張しました。
 雑誌『日本人』に呼応して、陸羯南(くが・かつなん)は、明治22年に、新聞『日本』を発行し、「国民主義」を唱えました。「国民主義」とは、日本が維新後、一旦失った国民精神を回復し、また発揚しようとする思想です。外に対しては国民の独立を、内においては国民の統一を求めます。これは、後進国の近代化の課題を明らかにしたものでもありました。 
 「国粋主義」と「国民主義」は、名前は異なりますが、実体は同じです。人脈的にも密接な関係にあります。陸羯南は、両者をまとめて「国民論派」と称しました。彼らの代表的な著作は、新聞『日本』によった陸羯南の『近時政論考』(明治23年)、雑誌『日本人』の同人である、三宅雪嶺の『真善美日本人』(明治24年)や志賀重昂の『日本風景論』(明治27年)などです。これらの著作は、当時のわが国で、大きな影響を及ぼし、近代日本人の自覚を高めました。その後、明治40年(1907)には、雑誌『日本人』が新聞『日本』を吸収し、『日本及日本人』に改名されました。
 日清戦争(明治37~38年)の前後からは、欧化への批判・抵抗の段階から一歩進んだ「日本主義」が、高山樗牛(ちょぎゅう)・井上哲治郎らによって提唱されました。
ここでは、国粋主義・国民主義を含めた総称として、日本主義と呼ぶことにします。
 明治20~40年代の日本主義は、昭和戦前期の超国家主義(Ultra-nationalism)のような独善的・排外的な偏狭さはなく、国際的・世界的な視野をもっていました。陸・志賀・三宅らは、政府の欧化主義には反対するが、西洋の科学技術を排斥せず、これを採り入れました。彼らが批判したのは、西洋崇拝・欧米追従のような行き過ぎに対してでした。民族や文化の独自性を主張しながらも、それを国際社会の中でいかにして実現するかを、彼らは考えました。そのために、日本人の主体的な自覚を高めようとしました。そして、日本がその固有性を保持・発展させることによって、世界人類に寄与しようとしたのです。
 そこには、江戸時代末期、「東洋道徳、西洋芸術」を唱えた佐久間象山や、「大義を四海に布(し)くのみ」とうたった横井小楠に連なる、日本人としての主体的な態度が受け継がれています。
 明治の日本主義者にとっては、ナショナリズムとインターナショナリズム、あるいは伝統的な精神文化とデモクラシーの総合が理想であり、また目標でもありました。この理想・目標は、21世紀を生きる私たちにとっても、共通のものです。明治の日本主義を振り返ることは、今日の私たちに多くのヒントを与えてくれるでしょう。
 
参考資料
・宮川透著『日本精神史への序論』(紀伊国屋書店)
・松本三之助著『明治思想史』(新曜社)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心101~私利を超え、公益を追求した渋沢栄一

2022-04-21 07:53:17 | 日本精神
 生涯に関与した事業は実に千を数え、さらに千あまりの社会事業・文化事業に貢献した巨人。それが渋沢栄一です。渋沢は、日本資本主義の草創期に、その基盤づくりを強力に推し進めました。日本最初の銀行を設立し、近代的な金融制度を実現したことをはじめ、紡績、保険、製紙、鉄道、郵船等々、彼が創設・経営した事業は、枚挙にいとまがありません。もし明治の日本に、渋沢というたぐい希な人物が出なかったら、日本の近代化は、これほどの成功をみなかったでしょう。
 渋沢栄一は、天保11年(1840)現在の埼玉県深谷市に、豪農の長男として生まれました。彼は7歳から儒学を学びました。そこで出会った『論語』が、彼の人生の規範となりました。
 元治元年(1864)、24歳の渋沢はその非凡な能力を見出され、一橋慶喜の家臣に取り立てられました。農民から武士になった渋沢は、一橋家の立て直しを成し遂げます。また慶喜が将軍となると、ブレーンとして将軍を支えました。慶応3年(1867)には慶喜の弟・昭武について、パリの万国博覧会に派遣されました。そしてヨーロッパ諸国で約1年間、近代資本主義の実態を徹底的に見聞しました。
 滞欧中に明治維新が起こり、帰国を余儀なくされた渋沢は、維新の元勲たちに請われて、新政府の大蔵省に任官しました。当時、新政府は深刻な財政危機にありました。渋沢はこれを解決するため、欧州仕込みの新知識に基づく、大胆・斬新な財政改革を提言しました。しかし、その提言は用いられず、明治6年(1873)、渋沢は約3年半いた政府を去ることを決意しました。
 このとき辞職をとめようとした友人に対し、渋沢は次のように答えました。
 「元より金を溜める為に辞官はしない。一体実業家が今日の如く卑劣で、全く社会の尊敬を受けぬと云ふのが抑々(そもそも)間違って居る。欧米では決して官商の懸隔が斯(かく)の如きではない。日本を早く官商同等の地位に進めなくては、到底実業の進歩する見込みがない。日本の商人が今日の如く社会の軽蔑を受けるのは、一つは封建の余弊でもあらうが、一つはまた商人の仕打ちが、甚だ宜しくないからである。予不肖ながらこの此風矯正のために一身を捧げたい。
 宋の趙普は論語の半部を以て天子を輔(たす)け半部を以て身を修めといって居るが、予は論語の半部を以て身を修め、半部を以て実業界を救ひたい覚悟で居る。どうか先を永く見てゐて呉れ。……
 その時、論語と云ふことを固く云ったのを今も能(よ)く記憶して居る。予が行往坐臥、事業を経営するも、事を処するも、是非論語に拠(よ)ろうと堅く決心を起こしたのは、此時の事である」と、渋沢は記しています。
 こうして、渋沢の新たな挑戦が始まりました。その後、約60年間、民間にあって彼が成し遂げた偉業は、前代未聞・空前絶後のものでした。
 彼の超人的な活動を支えた思想を一言でいうと、「論語と算盤(そろばん)」です。『論語』は東洋の伝統的な道徳を説くものです。これと「算盤」つまり経済的な利益とは一見、無縁です。しかし、渋沢は『論語』にある経世済民の考え方を、近代的な経営に生かし、道徳と経済は常に一体であると唱えました。
 渋沢は「利益を棄てたる道徳は真正の道徳でなく、又完全な富、正当な殖益には必ず道徳が伴はなければならぬ筈のものである」としました。資本は利潤の追求を目的とします。しかし、渋沢は、私的な利益は「公益」の追求の結果でなければならないと考えました。
 「勿論(もちろん)、当該会社の利益を謀(はか)らねばならぬが、同時に之によって国家の利益即ち公益をも謀らねばならぬ」「社会に利益を与へ、国家を富強するは、やがて個人的にも利益を来す」「私利私欲の観念を超越し、国家社会に尽くす誠意を以て得たる利は、是れ真の利と謂ふを得べく」と渋沢は、説いています。
 渋沢は、自分の言葉を文字通りに実行しました。第一国立銀行(現在はみずほグループ)、東洋紡、東京海上火災、王子製紙、日本鉄道会社、日本郵船会社等、彼が創設・経営・支援した企業は、彼の公共精神によって起こされたものです。渋沢はまた、今日の商工会議所をつくり、企業家が協力して社会に貢献する仕組みをつくりました。そして、渋沢は、事業によって得た利益を社会に還元しました。帝国劇場・日仏会館・一橋大学・日本女子大など、渋沢の寄与は幅広く、文化・教育にも及んでいます。また、浮浪者の施設である東京養育院の院長も50余年務め、そこに私財を投じています。
 こうした彼の姿勢は、彼が渋沢の名をもつ財閥や企業グループをつくらなかったことにも、よく表れています。
 渋沢が実践した、私を超えて公に尽くす奉仕の精神は、日本人の精神の特徴です。それゆえ、私たちは、伝統的な日本精神を近代社会に応用した見事な実例を、渋沢栄一に見ることができるのです。

参考資料
・ 童門冬ニ著『渋沢栄一』(学陽書房)
・渋沢栄一原著/竹内均編・解説『孔子 人間、どこまで大きくなれるか』(三笠書房)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心100~竜馬・海舟・西郷に憧れた男:中江兆民

2022-04-19 07:57:16 | 日本精神
 中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を紹介した自由民権論者として有名です。「東洋のルソー」とも呼ばれます。しかし、兆民の本質は、日本の国柄に基く社会改革を追及したところにあります。
 兆民は土佐(高知県)の出身で、少年時代に同郷の坂本竜馬と出会い、竜馬を生涯、尊敬していました。少年兆民は、竜馬に「中江のニイさん、煙草を買うてきてオーセ」と言われると、喜んで使い走りに行ったそうです。また、兆民が日本の政治家の中で、もっとも敬服し親交したのが、勝海舟でした。兆民は海舟から西郷隆盛の話を聞き、西郷を絶世の英雄と信じました。西郷が征韓論で帰郷したときには、西郷を上京させ、西郷・海舟の連立政権を樹立しようと努めたりしました。兆民とは、まさに維新の英雄たちの息吹を、自由民権運動に伝えた人物だったのです。
 兆民は、明治4年(1871)に岩倉遣欧使節団の一員として洋行し、フランスで知ったルソーの思想を翻訳・紹介します。彼が漢文(一種の中国語)に訳した『民約論』は、わが国だけでなく、シナでも読まれました。兆民が「東洋のルソー」と呼ばれる所以です。そこで、兆民と言えば、ルソーと同様の共和主義を唱えた思想家と思っている人が多いようです。確かに兆民はルソーの「人民主権論」の主旨を、わが国に生かそうとしました。しかし、彼は、ルソーに大いに学びつつも、その思想を批判しました。兆民は、ルソーの思想が直観的感情的な特色を持つが、思考には論理性に乏しく、往々にして奇を好む誇張癖があると指摘しています。またその人物については、人間的に後世のそしりをまぬがれがたい薄情、無責任の性質があったと厳しく批評しています。
 ルソーの思想が暴力革命・君主制否定・共和主義であるのに対し、兆民の思想は議会主義・法治主義・君民共治です。兆民は、君主の存在する国であっても「公義公道」の行われる国は「共和国」であり、形は民主大統領制の国であっても、「公義公道」の行われない国は真の「共和国」ではないとの旨を説きました。つまり、政治を「私」する専制政治がよくないのであり、君主の有無にかかわらず、「公論」が反映される政治をよしと考えたのです。兆民は、外国思想の模倣に走る戦後の進歩的文化人とは、違ったのです。
 兆民は洋学者である以上に、優れた漢学者でした。兆民は、フランス民権論は、孟子の民本主義の思想と通じると理解していました。彼はルソー等の思想は、欧米の専有物ではない。東洋にも孟子のような思想があると考えました。そして東洋的な革命思想を、近代的な理論とするために、フランス民権論が大いに有用だと、主体的に考えていたのです。そして兆民が目指したのは、民権論の知識をもった、東洋的な志士仁人(活動家であり人格者)だったのです。
 明治8年、兆民は、東京外国語学校の校長に任ぜられました。現在の東京外国語大学です。ところが、兆民はわずか3ヶ月で、この職をやめてしまいます。その理由は、兆民が「徳育の根本」に「孔孟の教え」を用いようとして、文部省と衝突したためです。ルソーの紹介者が、伝統的な儒教道徳を学生に教えようとしたのは、意外に思われるでしょう。しかし、兆民には、当時の功利主義的な洋風教育を推し進めようとする政府の方針は、皮相なものと写っていたのです。
 こうした兆民に、維新の英雄、竜馬・海舟・西郷の人格的な影響を見ることができるでしょう。彼らを追慕してやまなかった兆民は、指導者は人格的に優れた人物でなければならないと信じていました。そして年少の友、頭山満(とおやま・みつる)に、大人長者の風姿を見出し、大きな期待を寄せていました。そして、玄洋社の頭山らが支援するアジア諸民族の独立運動を、兆民は積極的に支援しました。
 一方、兆民の門弟に無政府主義者の幸徳秋水が出ますが、兆民は秋水には批判的でした。思想や発想に大きな隔たりがあることは明らかです。兆民を日本の左翼の先駆のように見るのは、無理があります。
 先に書いたように中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を評価しつつも、彼の急進思想には反対でした。そして、日本の国柄に基づいた社会改革を追求したのです。日本にルソー流は合わない、と。
 兆民は『東洋自由新聞』(明治14年、1881創刊)に掲載した『君民共治の説』において、当時のフランス第三共和国よりも、国王の君臨するイギリスの方が、より健全な「共和国」であると論じています。兆民は、「共和という字面に恍惚」として、フランス革命のような革命をめざす考えを退けます。兆民はフランスでは、革命後、ナポレオンという独裁者が出現し、さらに王政復古、七月王政、第二共和制などと、二転三転していることを、しっかり見すえていました。フランス革命を手放しで美化せず、その矛盾と限界を理解していました。そして兆民は、ルソー流の暴力革命・君主制否定・共和主義を採らず、議会主義・法治主義・君民共治を良しとします。日本は、イギリス流の君主政体でありながら、実質的な人民主権の国に向かうべきだと主張したのです。
 確かに兆民は、政府対人民という関係においては、徹底して民権的であり急進的でした。「民権是れ至理なり。自由平等是れ大義なり」という言葉は、彼の民権思想をよく表しています。兆民の藩閥政府批判は鋭く、改革への情熱にあふれています。しかし、兆民は、天皇と藩閥政府との間には、明確な区別を設けています。兆民の目指す政体は、天皇を中心とする立憲君主政体でした。 
 兆民は、『三酔人経綸問答』(明治20年、1887)で南海先生の言葉として、次のように述べています。民権には「回復の民権」もあれば、「恩賜の民権」もある。前者はイギリスやフランスのように、君主と闘って取り戻した民権であり、後者はわが国のように、君主(天皇)が国民に賜った民権です。兆民は、「恩賜の民権」は「善く護持し、善く珍重し、道徳の元気と学術の滋液とをもってこれを養う」なら、「回復の民権」に匹敵するようになるだろうと説きました。そして、「立憲制度を設け、上は天皇の尊栄を張り、下は万民の福祉を増し、上下両議院をおき、上院議員は貴族が継承するものとし、下院議員は選挙で選ぶ」という政治体制が目標だと語りました。
 兆民の主張は、わが国の国柄を守り、皇室制度の下で、デモクラシーあるいは議会主義の拡充を図るものでした。兆民は、日本においては、天皇を中心とする伝統を尊重してこそ、民権は健全なる発展を期待しうると考えていたのです。
 兆民は、天皇に関し、政府対議会の政治的対立に介入せず、高い精神的な権威をもって、国民の統合を保つ地位にあることを切望していました。たとえば国会開設前に出した『平民のめざまし』(明治20年)で、兆民は次のように書いています。
 「天子様は尊きが上にも尊くして外に較べ物の有る訳のものでは無い。畢竟天子様は政府方でも無く、国会や我々人民方でも無く、一国衆民の頭上に在って、別に御位を占させ給うて、神様も同様なり。別して我日本の天子様は、神武天皇以来皇統連綿として絶えることなく……内閣が如何にしばしば更迭するも、天子様は常に一天万乗の君にて、国会の未だ開けざる今日と既に開けたる二十三年後と少も変る訳の物では無いと心得べし」
 天皇と国民が争うことなく、互いに理解し合い、最後には天皇が民権主体の国家を実現するように導いていくことを、兆民は期待していたのです。ルソー流の暴力革命による君主制否定・共和主義との違いは明白です。 
 自由民権運動といえば、国民の権利を追及し、共和制を目指す思想だと理解している人が多いようです。また、共和主義や社会主義までいかない未成熟の思想というイメージを持っている人も、少なくありません。そういう人には、兆民の実像は意外に思われるでしょう。しかし、実際の自由民権運動は、天皇を中心と仰ぎながら、国権と民権を共に拡充して、立憲議会政治をめざす運動でした。それは、幕末の尊皇攘夷思想を受け継ぎ、天皇と国民が一体となった「君民一体」の政治を理想としていたのです。
 そして、中江兆民とは、竜馬・海舟・西郷の息吹を受け、維新の理想目標を受け継いだ、明治の志士だったのです。

参考資料
・『日本の名著 36 中江兆民』(中央公論社)
・葦津珍彦著『明治維新と東洋の解放』(皇學館大学出版部)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************