goo blog サービス終了のお知らせ 

ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心119~仁慈と博愛の歌:明治天皇3

2022-05-28 08:05:07 | 日本精神
 明治天皇は、和歌を好み、優れた歌を多く残しました。生涯に詠んだ御製(ぎょせい)の数は9万3千余首に及んでいます。和歌の手ほどきをしたのは、父・孝明天皇でした。孝明天皇は、歌によって尊王の志士たちと結ばれていました。
 そんな父君から、国家の独立と国民の繁栄を思う心を受け継いだ明治天皇は、君主としての思いを歌に表しています。
 明治天皇に、次の歌があります。

 あしはらの 国とまさむと 思ふにも
  青人草ぞ たからなりける

  (大意:日本の国を富ませたいと思うにつけても、第一に貴い宝はわが国民である)

 この歌は、国民を「おおみたから」つまり宝と呼んで、大事に思う皇室の伝統が、良く表れています。明治天皇は、こうした伝統を体し、「民の父母」として、国民を我が子のように心にかけていました。

 照につけ くもるにつけて おもふかな
  わが民草の うえはいかにと

  (大意:照れにつけ、曇るにつけて思うのは、わが国民の生活はどうであろうかということである)

 ここには、国民一人ひとりの身の上をわがことのように思う、思いやりと慈しみの心が表されています。それが「仁」であり、仁慈とも仁愛ともいえます。
 常に国民のことを思う天皇は、国家社会のことが頭を離れませんでした。

 夏の夜も ねざめがちにぞ あかしける
  世のためおもふ こと多くして
 
 (大意:短い夏の夜も、国のため世のため思ひめぐらすことが多く、安らかに寝通すことが出来ず、夜を明かしてしまうよ)
 天皇は、また国家の建設、国難の対応においては、国民の団結の力を信じていました。

 千萬(ちよろず)の 民の力を あつめなば
  いかなる業も 成らむとぞ思ふ

 (大意:国民の力を集めたならば、いかなることも成し遂げられると思う)

 天皇は国民に期待を寄せる一方、指導的立場にある者に対しては、厳しく自覚を求めていました。

 世の中の 人のつかさと なる人の
  身の行ひよ ただしからなむ

 (大意:世の中の人の上に立つ人は、身の行いが殊に正しくありたいものだ)

 天皇自身が「公」とは何かを体現し、自ら率先垂範していました。さらに、天皇の心は、国内だけでなく、世界人類にも注がれていました。

 よもの海 みなはらからと 思ふ世に
  など波風の たちさわぐらむ

  (大意:人類はみな兄弟だと思うこの世界において、どうして戦乱の波風が立ち騒ぐことになるのであろうか)

 国のため あだなす仇は くだくとも
  いつくしむべき 事なわすれそ

 (大意:我が国のために敵は打ち砕くとも、敵に対しても慈愛をたれることを忘れてはならないぞ)

 天皇は、他国民に対して博愛の精神を及ぼそうと、わが国民に呼びかけています。さらに、日本人に、世界に通用し、世界の国から敬われるようにその精神を磨いてほしいと望んでいました。

 国といふ くにのかがみと なるばかり
  みがけますらを 大和だましひ

 (大意:世界中の国々の鏡・模範となるほどに、大和魂を磨いてほしい)

 以上見られるように、明治天皇の御製には、天皇の崇高な精神が表現されているとともに、国家国民のめざすべき姿が示されているといえましょう。
次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『細川一彦著作集(CD)』(細川一彦事務所)

************************************

日本の心118~神への誓い、民への思い:明治天皇2

2022-05-26 08:05:54 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■日本の心118~神への誓い、民への思い:明治天皇2

 明治維新において、政治の御一新に当たって、明治天皇が大方針を打ち出したものが、五箇条の御誓文です。御誓文は、その言葉のとおり、天皇が神に誓いを立て、それを国民に発表したものでした。

一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
一、官武一途(いっと)庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめむことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
一、 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」

 大意は、次の通りです。

一、広く人材を集めて会議体を設け、重要政務はすべて衆議公論によって決定せよ。
一、身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国策を遂行せよ。
一、朝臣武家の区別なく、さらには庶民のすべてにわたって、各自の志を達成できるようにはからい、人々を失意の状態に追いやらぬことが肝要である。
一、これまでのような、かたくなな習慣を打破して、普遍性のある道理に基いて進め。
一、知識を世界に求めて、天皇の大業を大いに振興せよ

 見逃してはならないのは、これに続く明治天皇の言葉です。
 「我国未曾有の変革を為(なさ)んとし、朕躬(み)を以て衆に先じ、天地神明に誓ひ、大(おおい)に斯(この)国是を定め、万民保全の道を立(たて)んとす。衆亦此(この)旨趣(ししゅ)に基き協心努力せよ」
 すなわち、「わが国に前例のない変革を行おうとするにあたり、私は自ら国民の先頭に立って、天地の神々に誓い、重大な決意をもって国政の基本条項を定め、国民生活を安定させる大道を確立しようと思う。国民もまたこの趣旨に基いて心を合わせて努力せよ」
 ここには、天皇が自ら先頭に立って国民とともに新しい国づくりをしていこうという決意が、打ち出されています。こうした決意のもとに、天皇は神に向かって五つの誓いを立て、それを国民に明らかにしたのです。率先垂範、有言実行の精神が、そこに溢れています。
 これは単なる官僚による作文ではありません。天皇が自らの思いを国民に伝えようとしたものでした。そのことを裏付けるものが、五箇条の御誓文が発表された、明治元年(1868)3月14日に出された御宸翰(ごしんかん)です。宸翰とは天皇直筆の文書です。そこに明治天皇は直筆で次のような意味のことを記しています。
 「今回の御一新にあたり、国民の中で一人でもその所を得ない者がいれば、それはすべて私の責任である。今日からは自らが身を挺し、心志を苦しめ,困難の真っ先に立ち、歴代の天皇の事績を踏まえて治績に勤める。そうしてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君である地位にそむかないものとなる。自分はそのように行う」と記されています。
 すべての国民が「所を得る」ような状態をめざし、全責任を担う。天皇の決意は、崇高です。
 また、御宸翰の文章の先の方には、次のように記されています。
 「朕いたづらに九重のうちに安居し…百年の憂ひを忘るるときは、つひに各国の陵侮(あなどり)を受け、上は烈聖を恥しめ奉り、下は億兆を苦しめんことを恐る」と。
 すなわち、「天皇である自分が宮殿で安逸に過ごし、…国家百年の憂いを忘れるならば、わが国は外国の侮りを受け、歴代天皇の事績を汚し、国民を困苦に陥らせることになってしまう」。
 明治天皇は、こうした事態に至らぬよう、国家の元首として、最高指導者として、自らを律し、国家の独立と発展、国民生活の安寧を実現するために尽力したのでした。
 五箇条の御誓文と、同日に出された御宸翰には、明治天皇の真摯誠実な精神が現れています。ここに、私たちは「公」の体現者としての天皇の姿を見ることができるのです。そして、神武天皇以来、国民を「おおみたから」と呼んで、大切にしてきたわが国の皇室の伝統が、ここに生きているのです。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心117~英明無私の指導者:明治天皇1

2022-05-24 18:28:54 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■日本の心117~英明無私の指導者:明治天皇1

 ペリーの黒船が来航した年、明治天皇は1歳でした。当時、白人諸国は、競って東洋に植民地を求めて進出し、一歩誤れば、わが国はたちまち欧米列強に征服支配されるおそれがありました。しかし、260年にわたる徳川幕藩体制は、もはや対外的な対応力を失い、国中が開国か鎖国か、朝廷か幕府かで激動していました。こうした情勢の中で、尊皇攘夷の中心となっていた父・孝明天皇が崩御し、少年・明治天皇は僅か16歳で、皇位を継ぐことになったのです。慶応3年(1867)1月のことでした。
 天皇は背が高く、色浅黒く、骨格たくましく、剛毅果断の性格で進取の気象に満ちていました。この若き天皇を中心として、時代は大きく転換してゆきました。慶応3年10月、徳川慶喜は大政奉還を行い、政権は700年ぶりに朝廷に返されました。これを受けて、明治天皇は、同年12月、王政復古の大号令を発しました。そして、翌年の明治元年(1868)3月、天皇は、五箇条の御誓文をもって、施政の大方針を示しました。
 その後のわが国の発展はめざましく、翌2年版籍奉還、4年廃藩置県、5年学制頒布、鉄道の開通、太陽暦の採用などが進められました。さらに、明治22年、明治天皇は大日本帝国憲法を発布、翌23年には帝国議会を開設し、また教育勅語を下賜しました。
 こうしてわが国は、明治天皇の下、僅か半世紀の間に、アジアで初めての近代化に成功し、文明開化、富国強兵、殖産興業、教育の普及、文化の向上など、欧米に伍した近代国家として躍進していったのです。
 明治天皇は6度にわたって地方御巡幸をしました。まだ交通手段が発達していない時代ですから、馬車や船による旅行は、身体的に大きな負担だったことでしょう。しかし、天皇は自分の目で国内各地の様子を見、また国民に接し、直接世情を知りたいという強い希望をもっていたのです。御巡幸の旅は、2ヶ月の長期に及ぶこともありました。今日も各地に明治天皇が訪問したという記念碑が建てられています。
 その一方、天皇は避暑避寒などは殆どしなかったそうです。記録に残っているのは、わずかに東京・小金井に遠乗りして桜を賞でたとか、また多摩の丘陵の兎狩り、清流での鮎漁ぐらいと伝えられます。我が身をいとうことなく、常に国家国民のために尽くす指導者としての天皇の姿がうかがわれます。
 明治時代の最大の危機は、日清・日露戦争でした。これらは、新興日本の国運を賭けた戦いでした。明治天皇は、その間、常に国民の先頭に立ち、国利民福のためひたすら尽力しました。そして出征兵士と苦労を共にするという考えから、炎暑の最中でも冬の軍服を着用しておられたという逸話があります。とりわけ日露戦争の際は、天皇は非常な心労を続け、それがもとで健康を害し、明治45年7月30日、61歳で崩御したのです。その御代は、ひたすらに「公」のために尽くし、「私」を省みない天皇の生涯でした。
 幕末から明治の時代は、欧米列強から独立を守るため、わが国が急速に変革を成し遂げねばならなかった時代でした。この変革に成功したのは、明治天皇を中心に、国民が君民一体となって懸命の努力をした結果でした。危機と転換の時代に、わが国が類まれな英明無私の君主をもったことは、大きな幸いだったのです。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心116~新語「日本精神」を活用:芳賀矢一

2022-05-22 07:59:03 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■日本の心116~新語「日本精神」を活用:芳賀矢一

 明治20年代に登場した「日本主義」は、その後、発展を続けます。そして、日本主義の思潮の中から、「日本精神」という言葉が登場します。明治になって、古来の「大和魂」「大和心」を、近代的に「国民精神」などと呼んでいたのに代わって、「日本精神」という新しい言葉が使われるようになったのです。
 「日本精神」という言葉を使った最初期の人物に、芳賀矢一がいます。芳賀は、明治後期の代表的な国文学者です。ドイツに留学して文献学の理論と方法を学び、国文学を近代的学問として樹立し、また国語政策にも尽力した人物です。
 芳賀は、明治40年(1907)に、『国民性十論』を著しました。これは留学経験を生かした文化史的な観点から、従来になく詳しい国民性論を展開したものでした。
 芳賀は、日本の国民性の特質として、次の10項目を挙げました。
 (1)忠君愛国、(2)祖先を崇び家名を重んず、(3)現世的実際的、(4)草木を愛し自然を喜ぶ、(5)楽天洒落、(6)淡白瀟洒、(7)繊麗繊巧、(8)清浄潔白、(9)礼節作法、(10)温和寛恕がそれです。
 そして、これらの項目の説明をしています。
 たとえば、(1)の「忠君愛国」では、日本国民の皇室に対する考えは、古今東西全く類例がないとして、皇室に対する忠義と愛国心を強調します。武家で養成された武士道精神が、明治以後は皇室に向かって捧げられることになったと述べています。(2)の「祖先を崇び家名を重んず」では、この性向は、もともと日本は神祇政治・宗族政治の国で、村の氏神、家の先祖、家名を重んじる伝統があるからだとします。このような具合に、各項目を展開し、最後の(10)「温和寛恕」については、当時、欧米に現れた「黄禍説」に関して、日本人は古来侵略的でなく異人種に寛容であると言い、また神話・童話などにも残酷な話は非常に少ないと述べています。
 芳賀『国民性十論』は、三宅雪嶺の『真善美日本人』(明治24年発行)以来の総合的な日本人論として、大きな反響を呼びました。本書が出た当時は、日露戦争(明治38年)、日英同盟、排日運動などが起こった時期でした。日本が国際社会に大きく登場したところで、日本人とは何かということが改めて自問される時だったのです。それゆえに本書は大きな注目をもって読まれたのです。
 芳賀は、明治45年(1912)には『日本人』を発表しました。その内容は、後の大正・昭和の日本論の骨格が、ほぼ出されていると考えられるものです。
 たとえば、第1章「すめらみこと」では、「すめらみこと」としての天皇を「現神(あきつかみ)」とする日本の国体を、国民性の政治的な土台と考えています。第2章「家」では、日本を「家族国家」と考え、その単位集団である家における家長に対する「孝」の念と、天皇に対する「忠」の心が、全く同じものだとします。第6章「同情」では、犠牲的精神が日本人の美質で、義侠とも呼ばれ、忠臣蔵はその象徴であるとします。第9章「国家」では、皇室に対する忠誠心が古代から変わらず、君と国とは一つであるとしています。そして結語では、教育勅語を引用しています。 
 芳賀が活躍していた明治45年頃から、「日本精神」という言葉が用いられ始めます。日本の「国民精神」という意味で、「日本精神」という新語が登場したのは、自然な展開でした。
 大正6年(1917)に芳賀は、ロンドンの日本協会で、「日本精神」を演目とする講演を行いました。その中で、芳賀は、武士道について触れ、次のように述べています。
 「勇猛にしてしかも謙遜、天皇と皇祖皇宗の神々の他には何物をも恐れない日本武人の本質は、遠い神代の昔から子々孫々に伝わったもので、鎌倉時代に始めて現れたものではない。もしそういう祖先の先例がなかったならば、武士道の発達は不可能であったに違いない。そうして後世の領主に対するあの熱烈な忠節は存在し得なかったと思う。たまたま後世の叙事詩や戯曲だけを読んだだけで、古代文学について何の知識も持たない人が、武士道の起源を中世の精神であるかの如く誤り伝えたのである」
 こうした芳賀の武士道の見方は、新奇なものではありません。幕末から明治を生きた剣豪・山岡鉄舟は、武士道を日本古来の日本人の道と説いていたからです。芳賀の見方は、鉄舟と根本において一致しています。彼らはともに、武士道に現れた日本精神を深く観察していたのです。
 芳賀は、明治20年代以降の日本主義を受け継ぎ、日本精神について、初めて本格的に、国際的な視野で総合的な考察を行いました。芳賀あたりから「日本精神」という用語が使用され、大正10年代には積極的に使われるようになっていきます。「日本精神」という言葉は、「世界の中の日本」を自覚した日本主義の思潮の中から、登場したのです。

参考資料
・三宅雪嶺・芳賀矢一著『日本人論』(冨山房百科文庫)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心115~「君死にたまふことなかれ」は反戦歌?

2022-05-20 07:57:36 | 日本精神
 ~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


■日本の心115~「君死にたまふことなかれ」は反戦歌?

 日露戦争といえば、学校では「日本によるアジア侵略」「帝国主義戦争」などと教えられます。しかし、当時の日本国民のほとんどは、ロシアとの戦いを避けられない運命と感じ、開戦となるや一丸となって、大国ロシアと戦いました。そして、奇跡的な勝利を得、日本は国家の主権と民族の独立を、かろうじて保つことができました。
 教科書では、内村鑑三や幸徳秋水の非戦論、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」が強調され、日本はロシアと戦わないほうが良かったかのように書かれています。しかし、そのような考えを持っていたのは、ごく一部の人間だけでした。私たちの先祖は、この一戦に命をかけて戦ったのです。それによって、子孫の私たちが、今日、居られるのです。
 与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」についても、単純に反戦の詩と見るのは無理があります。それは詩の全体を自分で読んでみるとわかります。
 晶子は堺の商家出身でした。当時の商家においては、戸主という家督相続者を守ることと、家を存続を絶対視していました。そうした思いが、「君死にたまふことなかれ」の熱唱にも結実しています。

 ……
 堺の街のあきびとの
 旧家をほこるあるじにて
 親の名を継ぐ君なれば、
 君死にたまふことなかれ、
 ……
 君は知るべきやあきびとの
 家のおきてに無かりけり
 ……
 (『明星』 1904年9月号)

 君とは、晶子の弟・鳳(おおとり)籌三郎(ちゅうざぶろう)のことです。弟は、晶子の実家である駿河屋の家督を相続し、三代目宗七という「旧家をほこるあるじ」となったのです。晶子は、反戦どうこうではなく、駿河屋の断絶をおそれ、弟に家の存続のために生きて帰れ、と身内としての真情を歌ったと理解すべきでしょう。
 事実、晶子は、大町桂月が晶子を「乱臣なり賊子なり」と罵ったのに対し、「あれは歌に候。この国に生れ候私は、私等は、この国を愛(め)で候こと誰にか劣り候べき」「無事で帰れ、気を付けよ、万歳」というほどの意味であったと反論しています。
 大東亜戦争において、晶子は、海軍大尉となって出征する四男・与謝野昱(いく)のために「水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ」と詠んで我が子を激励し、また一方では、「戦ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く」と詠んで遠方洋上の子を思う母として泣いているのです。
 ここには、国を思い、家を思い、子を思う、一人の日本女性がいます。反戦主義者という晶子像は、戦後に作られた虚像にすぎないといえるでしょう。そうした虚像を教科書に掲載し、晶子の半面を伏せ、一面だけを誇張するのは、バランスのとれた教育とはいえないでしょう。採り上げるなら、戦地に送った息子のことを詠んだ歌なども載せ、一国民としてまた母親として、国を思いまた子を思った晶子の心を考えさせる内容にすべきだと思います。

参考資料
・平子恭子編著『与謝野晶子』(河出書房新社)
・『教科書が教えない歴史①』~『好戦でも反戦でもなかった 与謝野晶子』(扶桑社)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心114~昨日の敵は今日の友:乃木の仁愛

2022-05-18 08:09:04 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■日本の心114~昨日の敵は今日の友:乃木の仁愛

 日露戦争最大の激戦は、旅順攻略戦でした。戦いは半年以上にわたり、日本側の戦死者は1万5千4百人余、負傷者は4万4千人余にのぼりました。苦戦の末、司令官・乃木希典大将は、参謀に児玉源太郎中将を得て活路を開き、ついに二〇三高地を陥落せしめました。ロシアは旅順艦隊も全滅して戦意を失い、関東軍司令官ステッセルは、降伏の軍使を派遣してきました。明治38年(1905)1月2日、両国代表が降伏文書に調印。この世界史に残る戦いは終結しました。
 1月5日、日露の司令官による会見が行われました。会見は、ステッセルの求めによるものでした。既に降伏文書の調印は済んでおり、敗者ステッセルが勝者乃木に会う義務はありませんでした。しかし、彼は騎士道に基づいて礼儀を表そうとしたのです。これが後に、小学校唱歌に歌われた「水師営の会見」です。佐佐木信綱作詞による歌詞が、会見の模様を一編の叙事詩のように、見事に描いています。

一、旅順(りょじゅん)開城(かいじょう) 約成(やくな)りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ水師営
ニ、庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木 弾丸あとも いちじるし 
くずれ残れる 民屋(みんおく)に 今ぞ相(あい)見る 二将軍
三、乃木大将は おごそかに 御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の 大(おお)みことのり 伝(つと)うれば 彼(かれ)かしこみて 謝しまつる
四、昨日(きのう)の敵は 今日の友 語ることばも うちとけて 我はたたえつ かの防備 かれは称えつ わが武勇
五、かたち正して 言い出でぬ 『此の方面の戦闘に 二子(にし)を 失い給(たま)いつる 閣下の心如何にぞ』と
六、『二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門(ぶもん)の面目(めんぼく)』と 大将答(こたえ)力あり
七、両将昼食(ひるげ)共にして なおもつきせぬ物語 『我に愛する良馬(りょうば)あり 今日の記念に献ずべし』
八、『厚意謝するに余りあり 軍のおきてに従いて 他日我が手に受領せば ながくいたわり養わん』
九、『さらば』と握手ねんごろに 別れて行(ゆ)くや右左(みぎひだり) 砲音(つつおと)絶えし砲台(ほうだい)に ひらめき立てり 日の御旗(みはた)

 「昨日の敵は今日の友」という一節は、特に有名です。この会見の前、アメリカ人の映画技師が、会見の様子を活動写真に収めたいと要望しました。乃木は、副官を通じて丁寧に断りましたが、なお各国特派員が撮影の許可を求めました。そこで、「敵将にとって後々まで恥が残るような写真を撮らせることは、日本の武士道が許さない。しかし、会見後、我々が既に友人となって同列に並んだ所を、一枚だけ許そう」と答えました。乃木はステッセル以下に帯剣を許し、肩を並べて写真に収まりました。勝者が敗者の立場を思いやり、互いに栄誉を称えあったのです。外国人記者たちは、この配慮に感動し、彼らの発した電文と写真は、世界各国に配信されました。これによって、乃木は、日本武士道の精神を世界に知らしめたのです。
 ステッセルの帰国後、ニコライ2世は敗戦の責任を追及し、銃殺刑を言い渡しました。これを知った乃木は、助命嘆願の手紙を出しました。そのかいあって、ステッセルは罪を軽減され、死刑を免れて、シベリア流刑となりました。世界史上、敵将の助命を嘆願した将軍は、乃木以外にはいません。
 明治天皇の御製に、次の歌があります。

 国のため あだなす仇は くだくとも
  いつくしむべき 事なわすれそ

 大意は、国の仇である敵を打ち砕くとも、その人々に対して仁愛の心を以て接することを忘れてはならないぞ、ということと思われます。乃木は、こうした仁愛の心を誰よりもよく実践した日本人だったのでした。 
 乃木は、明治天皇が崩御するや、殉死をしました。主君に殉ずるという武士道の流儀を固守したがゆえです。その一方、乃木は、自決のときまで、ステッセルの家族に生活費を送り続けていました。そんな乃木の葬儀の後、ロシアから匿名で、「モスクワの一僧侶より」とだけ記された香が届きました。それは、ステッセルが贈ったものだといわれています。
 敵同士の間にも真の理解と友情が生まれる、それが日本の武士道であり、日本の心の精華をそこに見ることができるでしょう。

参考資料
・戸川幸夫著『人間乃木希典』(学陽書房)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心113~ロシアから日本を守った英雄:東郷平八郎

2022-05-16 14:09:06 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■日本の心113~ロシアから日本を守った英雄:東郷平八郎

 アジア・アフリカが、欧米の植民地として支配されていた19世紀、わが国は明治維新を成し遂げました。そして、国家の独立を守り、半世紀足らずのうちに近代国家を形成しました。その間、日露戦争という国の存亡をかけた戦いがありました。
 日露戦争における日本の勝利は、西洋白人種による植民地支配を打ち破るという世界史的意義を持つ出来事でした。その日露戦争の勝利を決定的にしたのが、日本海海戦です。この海戦で活躍したのが、海軍大将・東郷平八郎でした。東郷は、近代日本を代表する英雄として、各国で深く尊敬されています。しかし、わが国では、戦後、教科書から消されてきた人物です。
 明治38年(1905)、大国ロシアは、日本海軍に対抗するため、その海軍の全力をあげて、東洋に回航させました。その進路によっては、戦いは全く変わってきます。東郷は、ロシア艦隊は、対馬海峡に現われると確信していました。そして、5月27日、38隻からなるバルチック艦隊は、東郷の予感通り、対馬海峡に現われました。いよいよ戦いが始まろうとする時、東郷連合艦隊司令長官は、「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗信号を、旗艦三笠に掲げました。東郷は、ロシア艦隊を取り逃がしてはなりません。なぜならば、取り逃がした艦船によって東京等を砲撃されたならば、日本には防ぎようがなく、敗戦は必至だからです。完勝する以外に、日本の明日はないのです。
 東郷は、「丁字戦法」という捨て身の戦法を採り、ロシア艦隊を驚嘆・狼狽(ろうばい)させました。世にいう「トーゴー・ターン」です。折りから風は強く、波の高い日本海でした。この気象条件は日本に幸いしました。 日本は砲力で劣っていましたが、相手の船体に沈没させるほどの穴を開けなくとも、波による浸水で被害をもたらすことができたからです。
 砲弾が飛び交い、波しぶきが寄せる中、東郷は、艦橋に立って微動だにせず、指揮を執り続けました。そして、日本海軍は、ロシア艦隊19隻を打ち沈め、5隻を捕獲し、司令長官を捕虜としました。しかも、わが方は1隻も失うことがありませんでした。これほどパーフェクトな海戦は、世界の海戦史上、あとにもさきにもありません。実に奇跡的な大勝利でした。
 このニュースは瞬く間に世界に伝わりました。東郷は「世界の英雄」と賞賛されました。そして、被抑圧民族に、独立への勇気と希望を与えました。トルコやフィンランドなど、多くの国の教科書に彼の英雄振りが記載されているほどです。
 もしこの日本海海戦で日本が敗れていたら、どうだったでしょうか。制海権を握られた日本は、日露戦争に敗れ、ロシアの過大な要求を飲まされたことでしょう。明治維新を経てわずか30数年にして、日本は植民地と化していたかもしれません。男は強制労働、女は暴行を受け、逆らうものは死。ロシアが支配する国では、それが当然でした。日本の資源や労働成果は、とことんロシア人に吸い尽くされたことでしょう。
 日本海海戦は、運命の岐路でした。この岐路に立って、日本と日本人の運命を救った東郷平八郎のことを、日本人は忘れていて良いのでしょうか。
 戦後教育を受けてきた者にとって、軍人というと、それだけで恐ろしい、悪人であるかのように思う人が少なくないでしょう。だが、東郷という日本人は、誠実な、私利私欲のない人でした。戦争終了後、彼の息子を文部大臣にしようという声が出ました。彼の名声をもってすれば、どんなわがままも通ったことでしょう。しかし、東郷は、「人間には器がある、器で生きてこそ幸せだ」と言ってその申し出を固辞し、息子を湘南の図書館長にしたといいます。
 東郷は、また「天佑神助(てんゆうしんじょ)というものは必ずある」と心より信じた人でした。日本海海戦において、東郷は天の恵み、神の助けを信じました。だが、それは人間が真心の限りを尽くすことによってのみ得られるというのが、彼の不動の信念でした。そこに、世界史の奇跡といわれる勝利も得られたのでしょう。そして、彼だけでなく、当時の日本人は、国家国民の一大事に、一致団結して向かったからでしょう。
時は移り、わが国は第2次世界大戦では米国に敗れました。この時の太平洋艦隊司令長官が、チェスター・W・ニミッツです。ニミッツ提督は、日露戦争の英雄・東郷平八郎を師と仰いでいました。そして、大戦後、東郷元帥に敬意を表して、日米親善に尽くしました。
 日露戦争の直後、当時、士官候補生だったニミッツは、米国軍艦にて日本を訪れ、明治天皇の賜宴に出席し、東郷と言葉を交わしました。ニミッツは次のように言っています。
 「私は海軍士官候補生のとき、私の前を通った偉大な提督東郷の姿を見て全身が震えるほど興奮をおぼえました。そして、いつの日かあのような偉大な提督になりたいと思ったのです。
 東郷は私の師です。あのマリアナ海戦の時、私は対馬で待ちうけていた東郷のことを思いながら、小沢(治三郎中将)の艦隊を待ちうけていました。そして私は勝ったのです。東郷が編み出した戦法で、日本の艦隊を破ったのです」と。
 戦後、ニミッツは、日露戦争で東郷が乗艦した戦艦・三笠が、荒れ放題になっていることを聞き、深く心を痛めました。三笠は、日本の運命を救った船として永久に記念すべく、大正15年以来、横須賀に保存されていました。ところが第2次大戦後、東郷までが「軍国日本」の「悪しき象徴」とされてしまいました。そして、彼の乗艦三笠は見るも無惨な扱いを受けたのです。大砲、鑑橋、煙突、マスト等は取り除かれ、丸裸になってしまいました。艦内では米兵相手の営業が行われ、東郷のいた司令長官室は「キャバレー・トーゴー」に変わり果てるという有り様。敗れた日本人は魂を失い、勝った米国人はおごりに陥っていました。
 ニミッツは、嘆き悲しみました。彼は米国海軍に働きかけて資金をつくり、これを三笠の復元費として日本側に寄贈しました。また、日本国内にも反省が起こり、昭和35年、ようやく三笠は復元されました。その際、ニミッツは彼の写真とともに次の言葉を送ってきました。

 「貴国の最も偉大なる海軍軍人東郷元帥の旗艦、有名な三笠を復元するために協力された愛国的日本人のすべての方へ、最善の好意をもってこれを贈ります。
 東郷元帥の大崇拝者たる弟子 米国海軍元帥 C・W・ニミッツ」

 大戦の際、東郷元帥をまつる東郷神社は、戦災で焼失しました。ニミッツは、東郷神社が再建されることを聞くと、自著『太平洋海戦史』の日本語版の印税を、米国海軍の名において寄付したい、と申し出ました。昭和39年、再建が成った時、ニミッツは、自分の写真とともに、祝賀のメッセージを寄せて、喜びを表しました。

 「日本の皆様、私は最も偉大な海軍軍人である東郷平八郎元帥の霊に敬意を捧げます」

 ニミッツの死後、昭和51年、アメリカでは、英雄ニミッツの功績を記念して「ニミッツ・センター」(テキサス州立公園)の設立が計画されました。その時、センターのハーバード理事長は、「ニミッツ元帥は東郷元帥を生涯心の師として崇拝してきました。東郷なくしてニミッツを語ることはできないと信じますので、本センターは是非、東郷元帥の顕彰も併せ行いたいと思います。また東郷のような偉大な人物を育てた日本の文化資料も展示し、日本の姿も知らせたいと思います」と協力を要請してきました。日本側は喜んでこれに応じました。そして、資料のほか、「平和庭園」と名付けた日本庭園を贈りました。こうしてニミッツ・センターは、日米両国を代表する英雄を記念するとともに、日米親善を深める施設ともなったのです。
 敗戦とその後の占領政策によって魂を失い、経済成長に血道をあげたすえ、底無し不況と環境生命破壊に陥り、いまや物心両面で危地にある、私たち日本人。
 「座して滅亡を待つか、起ちて活路を開くか」ーー東郷元帥と、彼をめぐる「物語」は、私たちに明日への活力を与えてくれるものだと思います。

参考資料:
・岡田幹彦著『東郷平八郎~近代日本をおこした明治の気概』(展転社)
・名越ニ荒之助著『世界に生きる日本の心』(展転社)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心112~日露戦争は負けた方がよかった?

2022-05-14 17:58:23 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


■日本の心112~日露戦争は負けた方がよかった?

 中学や高校の歴史の教科書を読むと、「日露戦争は間違った戦争であり、戦わないほうが良かった」というような気がしてきます。そこでは、幸徳秋水や与謝野晶子の「非戦論」「反戦歌」が強調されているからです。
 確かに平和への願いは貴いものです。しかし、当時の国際情勢において、ロシアとの決戦は避けようのない課題でした。もし日本が日露戦争で敗れていたら、日本は、そして私たち日本人はどうなっていたか、と考えてみる必要があるでしょう。
 当時のロシアは大国でした。陸軍力は世界一であり、コサック騎兵を中心とする軍隊は、無敵と謳われたナポレオンをも敗退させたほどに強力でした。海軍力もまた、東洋を支配するバルチック艦隊を有していました。近代国家の仲間入りをしたばかりの日本など、敵ではないと見られていました。
 そもそも西洋諸国が、アジア・アフリカ・ラテンアメリカを侵略支配して以来、有色人種は白人の奴隷にされ、人権無視の扱いをされていました。白人に反抗して勝てるなどとは誰も思わない、そんな時代でした。なかでもロシアは、日本にとって、恐るべき存在でした。
 明治維新の志士たちは、イギリスがアヘン戦争で大国・清を破り、蹂躙(じゅうりん)していることを知って、このままでは日本も欧米の植民地にされる、と強い危機意識をもちました。なかでも北から迫ってくるロシアは、日本の独立を脅かす最大の脅威だったのです。
 維新の英雄・西郷隆盛は、征韓論に敗れて鹿児島に帰ったのち、かつて彼を訪ねた庄内藩家老・菅実秀に、こう語りました。「ロシアはいずれ満州、朝鮮半島を経て、日本に迫ってくる。これこそ第二の元寇であり、日本にとっては生死の問題となる」と。その「第二の元寇」こそが、日露戦争でした。
 日露戦争は、奇跡的な勝利でした。日本海海戦の勝利が、日本の運命を開きました。
逆にもし日本海海戦で、連合艦隊が敗れていたら、日本は海軍力を失い、丸裸同然となりました。ロシアの艦隊は、日本海・太平洋を自由に航海できることになります。東洋一の艦隊が東京湾沖に停泊し、帝都・東京に艦砲射撃を行うと恫喝する。わが国は、極めて不利な条件で停戦せざるを得なかったでしょう。
 その結果、どうなっていたか。名越ニ荒之助・元高千穂商科大学教授は、日露戦争敗戦の場合について、次のように推理しています。
 「日本はロシアとの間に屈辱的な講和を結ばされ、朝鮮はロシアの支配するところとなったことは必定である。日本が勝ったことにより、南樺太を割譲したのだから、負けていたら、北海道はロシアに割譲することを余儀なくされていたであろう。
 ロシアはその勢いをかって日本国内各地に租借地を作り、三国干渉の相手国であった仏、独も租借地を作り、阿片戦争に敗れた清国のような末路をたどっていたかも知れない。
 あるいはまた李王朝末期に朝鮮の国内が親日派、親露派、親清派に分裂して収拾がつかなくなったように、日本の国内政治も、親露派、親英米派、親独仏派に分かれて、独立国の機能も果たせなくなる状況さえ予想される。やがてはこれら西欧各国の利害をめぐって、日本を舞台に争奪戦が行なわれたかもしれないのである」
 ロシア帝国そして革命後のソ連に支配された国々の運命は、惨めでした。第2次大戦後、「解放」という名の下に共産化された国々、ポーランドやチェコスロバキアなどが、力で支配され、資源をほしいままに奪われました。日本がもし日露戦争に敗れていたら、これらの国のようになっていたかもしれません。 
 敗戦による過酷な運命を回避できたのは、明治の日本人は、日本精神で団結していたからです。天皇も将兵も国民も海外居留民も、心一つに国難に立ち向かいました。アメリカに終戦の仲介を求めた金子堅太郎、英米で資金調達に務めた高橋是清、ロシアとの交渉に骨折った小村寿太郎など、外交での働きも素晴らしいものです。当時の日本の指導層は武士道を根っこに持っており、戊辰戦争での実戦の経験のある世代もおり、政治と軍事を総合的に進めることにたけていたのだろうと思います。
 また、当時のわが国は世界的にも高い科学技術の水準に達していました。日本海海戦で使用された下瀬火薬は、大きな威力を発揮しました。砲弾が炸裂すると、命中した場所は3000度になり、直ぐにバルチック艦隊は戦闘不能となりました。
 また、陸戦では、わが国の馬は西洋種よりも劣るところを、騎兵に機関銃を持たせ、敵のコサック騎兵と遭遇したら、馬から下りて機関銃で掃射するという新しい戦法を取りました。また、無線電信。マルコーニの大西洋横断交信実験から5年しかたっていないのに、国産無線機を艦船に搭載していました。
 政治・外交・軍事・科学技術・教育等、まったくどこをとっても、当時の日本人はすばらしい働きをしました。それは、明治維新以来、近代国家の建設に国民が一心に努力し、未曾有の国難に際しては、日本精神で団結して立ち向かった結果だと思います。
 とりわけ明治天皇という歴史に輝く英明・仁慈の君主がこの時代に国の中心にあり、国民が天皇を中心に結束したからだと思います。これは明治維新において、天皇を中心とした国柄を改めて制度的に確立したことに多くを負っていると私は思っています。
 また、それを成文法として制定した明治憲法や、規範道徳として定着させた軍人勅諭・教育勅語等の総合力が、日露戦争において、最善の形で発揮されたのだと思います。
 日露戦争は辛うじて勝ったのですが、それは運などではなく、日本国民が一丸となって戦った結果です。我々はそのような先祖がいたことに誇りを持つべきです。日露戦争の再評価は、明治維新の再評価、わが国の国柄や文化の再評価につながるものであり、逆に日露戦争の忘却は、日本固有の国柄や文化の忘却につながると思います。
 私たちは、明治の先祖・先人に感謝するとともに、彼らが持っていた日本精神を取り戻し、誇りと勇気と希望を持って、今日の危機に立ち向かわねばならないと思うのです。
 日露戦争後のわが国のあゆみについては、いろいろ検討すべき点があります。成功体験のパターン化、過剰適応、官僚制度の硬直化、帝国憲法の欠陥、指導層の世代交代等々です。
 特に精神面について思うことは、東アジアの安定が得られた後に、次の国家目標を打ち立てることができなかったこと、経済成長の中で政財界に腐敗が起こり、また欧米の模倣に流れたことが、大きな反省点だと思います。
 ともあれ、日露戦争戦勝の世界史的な意義は、まことに大きいものであって、あくまでその誇りを胸に抱いての検討でなければならないのです。

参考資料
・名越ニ荒之助著『戦後教科書の避けてきたもの』(日本工業新聞社)
・司馬遼太郎著『坂の上の雲』(文春文庫)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心111~日露戦争は帝国主義的侵略だった?

2022-05-12 08:11:06 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■日本の心111~日露戦争は帝国主義的侵略だった?

 日露戦争は、日本による「帝国主義的侵略戦争」だった、というのが試験のための決まり文句のようですが、果たしてその見方は正しいのでしょうか。
 21世紀における現在から20世紀を振り返ってみると、20世紀とは、数世紀にわたる白人の支配から、有色人種が自由と独立を勝ち取った世紀でした。日露戦争での日本の勝利は、夜明けの到来を告げる鶏鳴でした。そこで有色人種が白人を初めて打ち負かしたことは、抑圧された人々に希望の火を灯したのです。
 新興国日本にとって日清・日露戦争は国運を賭けた戦いでした。わが国は、東アジアの安定のために、まず日清戦争で大国シナと矛を交えました。千年以上もの間、文明の源と仰いできたシナに勝つことができたのです。その結果、日本とシナの地位は逆転しました。かつては遣隋使・遣唐使を送っていた日本に、シナから日本に留学生が来るようにもなりました。日本文明のほうが、シナ文明に影響を与える関係になったのです。
 日清戦争の勝利は、強国ロシアとの戦いを余儀なくするものでした。幕末以来、北から迫ってくるロシアは、日本の独立を脅かす最大の脅威でした。
 日本がロシアに勝つと、世界は驚嘆しました。中国の国父・孫文は、有名な「大アジア主義」という講演で、次のように語りました。「どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのです。(中略)ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります」
 インドの初代首相ジャワ八ルラル・ネルーは、自伝に次のように記しています。「日本の戦捷(せんしょう)は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。(略)五月の末に近い頃、私たちはロンドンに着いた。途中、ドーヴァーからの汽車の中で対馬沖で日本の大勝利の記事を読み耽りながら、私はとても上機嫌であった」
 こうした感激と興奮は、アメリカの黒人たちにも広がりました。「日露戦争当時、黒人新聞各紙は、西洋帝国主義の重圧に苦しむ日本人を『アジアの黒人』と呼び、白人に挑む東郷艦隊を声援したり、一部の黒人社会では驚くことに、日本ブームが起きて、日本の茶器や着物も流行。さらには、黒人野球チームの中から、『ジャップ』を自称するチームも出ていたという」
 当時、「ジャップ」という言葉は、侮蔑語ではありませんでした。
 ロシアに侵略・支配されてきた国々でも同様です。フィンランドの大統領パーシキピは、次のように記しています。「私の学生時代、日本がロシアの艦隊を攻撃したという最初のニュースが到着した時、友人が私の部屋に飛ぴ込んできた。彼はすばらしいニュースを持ってきたのだ。彼は身ぶり手ぶりをもってロシア艦隊がどのように攻撃されたかを熱狂的に話して聞かせた。フィンランド国民は満足し、また胸をときめかして、戦のなりゆきを追い、そして多くのことを期待した」
 ポーランドでは、日露戦争で活躍した乃木希典や東郷平八郎は、英雄でした。初代国連大使・加瀬俊一氏は、ポーランドのある教会に立ち寄った時のことを伝えています。「傍らに、小さい男の子が来てね。それで私は、『君の名前はなんていうの』って聞くと、『ノギ』って言うの。『えっ。ノギ?』。すると神父さんが言うんです。『ノギ』というのは乃木大将のノギですよ。ノギとかトーゴーとかこの辺はたくさんいましてね。ノギ集まれ、トーゴー集まれっていったらこの教会からはみだしますよ」
 日露戦争における日本の勝利は、有色人種や被抑圧民族を奮い立たせ、独立への情熱を駆り立てました。15世紀以来の西洋白人種の優位を、初めて有色人種が打ち砕いたのです。西洋近代文明の世界支配体制は崩れ始めました。日露戦争は、世界史を西から東へと動かす、歴史的な出来事だったのです。

参考資料
・名越ニ荒之助著『世界に生きる日本の心』(展転社)
・レジナルド・カーニー著『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本人観 1900~1945』(五月書房)
・加瀬俊一著『大東亜会議とバンドン会議』(『祖国と青年』平成6年9月号 日本青年協議会)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

日本の心110~東洋の理想と日本の目覚め:岡倉天心2

2022-05-10 08:51:39 | 日本精神
~~~~~~~~~ 細川一彦著作集(CD)のご案内 ~~~~~~~~~~

 拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
 ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
 新たな掲示や一部修正を多く行いました。
 そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD-Rを作り
 ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
 ます。単行本にすると約30冊分になります。
 1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
 (5月27日まで)です。
 申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
 fhoso@m8.dion.ne.jp

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■日本の心110~東洋の理想と日本の目覚め:岡倉天心2

●日本の目覚め

 東洋の理想 を胸にした天心は、明治37年(1904)2月10日、アメリカに渡りました。日露戦争の宣戦詔勅が出された日でした。以後、ボストン博物館に勤務し、美術研究に専心しました。
 この年、天心は『日本の覚醒』をニューヨークで出版しました。本書は、西洋の衝撃を受けた日本がどのように自己に覚醒し、新しい国家をつくったかを、英文で叙述したものです。
 天心は書いています。
 「魔法の杖の一触れをもって、突如として日本人を数世紀の眠りから覚ましたものは西洋人であった、というのが外国人一般の印象のようである。しかしながら日本の目覚めの真因は日本自体のうちにあった。1853年、ペリー提督がわが沿岸に到着したときは、すでに日本人の国民意識は覚醒し始めていたのである。ペリーの来訪は、その覚醒した意識が広汎な国家革新運動に飛躍するきっかけとなったにすぎない」
 すなわち、明治維新はヨーロッパ文明の影響のみによって起こされたものではない。徳川幕府の支配体制が長く続く中で、日本を革新する思想が徐々に用意されていた。そしてその革新の声は西洋の帝国主義の侵略を契機として高まり、ついに維新の変革に導いたのだーー天心はこうして、日本の近代化には日本人の主体性が働いていたことを明らかにしました。
 『日本の覚醒』を出版したもう一つの意図は、当時西洋に高まっていた「黄禍論」を論破することでした。本書で天心は、禍(わざわい)のもとは東洋民族にあるのではなくて、むしろ西洋民族にあると鋭く反論したのでした。「もしも西欧諸国の良心の不安が黄禍の幻影を呼び起こしたとするならば、苦悩するアジア民族が白禍の現実に号泣するのは当然のことではないか」「踏みにじられた東洋人の目から見れば、ヨーロッパの栄光はひとえにアジアの屈辱なのである」と。
 当時、日本はロシアと戦っていました。天心はその戦いは日本人が好戦的だからではなく、やむをえず戦っているものである、と主張します。そして、本来、日本人は平和的な民族であることを強調します。
 「日本の対外政策の歴史を検証するくらいの人間ならただちにわかることは、日本が終始一貫して平和維持を希求し、万やむを得ず戦争に訴えるときはまったく自衛のためにほかならぬという事実であろう。そもそも外国を攻略しないということは、わが国文明の本性そのものからきているのである」と。
 天心が最も訴えようとしたのは、東洋精神が世界平和の実現に寄与できることです。本書の末尾に天心は記します。
 「いったい戦争というものはいつなくなるのであろうか。……西洋が見せるこの奇妙な組み合わせーー病院と魚雷、宣教師と帝国主義、膨大なる軍備と平和の確保――これらはいったい何を意味するのか。こんな自家撞着は古来の東洋文明にはなかった。日本の王政復古の理想はこんなものではなかった。日本の革新の目標はこんなものではない。われらを幾重にも包んでいた東洋の夜は明けた。だが、世界はまだ人類の黎明下(れいめいか)にある。西欧はわれらに戦争を教えてくれた。それなら、いったいいつ、彼らは平和の恵みを学ぶのであろうか」 
 日本は日露戦争でロシアに勝利しました。すると、欧米諸国の間には、日本人が好戦的な民族であるという見方が広がりました。天心は、この誤解と警戒心を解くために、再びペンを取りました。それが、明治39年(1906)刊の『茶の本』です。その中で天心は、日本人が茶や花を愛玩する美風を持つ平和愛好の民族であることを、世界に伝えようとしました。本書に天心はこう記しています。「もしもわが国が文明国となるために、身の毛のよだつ戦争の栄光に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。われわれの技芸と理想にふさわしい尊敬がはらわれる時まで喜んで待とう」と。
 私たちは今なお戦争の絶えない世界にあります。天心が願った世界平和への寄与のため、この21世紀に、日本人として、また東洋人として、たゆみない努力を続けたいものです。

参考資料
・岡倉天心著『東洋の理想』『日本の覚醒』(筑摩書房版『近代日本思想大系 岡倉天心』所収)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************