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●漫画・・ 「忍法十番勝負」

 日本漫画史上初のリレー漫画作品、「忍法十番勝負」は1964年、秋田書店発行の月刊児童誌「冒険王」に連載されました。僕が8歳のときです。実は僕には、この「忍法十番勝負」 が日本漫画史上初のリレー漫画だという確証はないのですが、僕が漫画を読み始めた1962年暮れからこの作品まで、リレー漫画というものを見たことがないし、多分、日本史上初の試みだと思います。でも、ひょっとして1950年代や60年代初頭に別のリレー漫画作品があったのかも知れません。解りません。

 僕が中学生時の週刊少年マガジンでは、企画漫画として、19世紀末から20世紀初頭に活躍したイギリスの小説家、“サキ”のサスペンス・ミステリ趣向の強い各短編作品を、さまざまな漫画家が漫画作品として描いたり、同時期、週刊少年キングでは同じく企画漫画で、江戸川乱歩の小説をシリーズ連作として、いろいろな漫画家が漫画作品として描いたものがありました。また、同じキング誌上では、大正期から終戦時代までに活躍した、この時代の日本のミステリ作家としては非常に高名な小説家、小栗虫太郎の「人外魔境シリーズ」をさまざまな漫画家が漫画作品として描いたシリーズもありました。こういうのもシリーズ連作として、何週か連載が続いてましたから、“リレー漫画”といえばそうだと思います。こういったマガジンのサキものも、キングの江戸川乱歩や小栗虫太郎ものも、漫画作品としては一作一作完結している短編漫画です。

 「忍法十番勝負」が掲載されたのは、当時の月刊誌「冒険王」の1964年1月号から10月号までの十回連載で、十人の漫画家がリレー形式で描き繋いで行きました。この十人とも当時の超売れっ子漫画家ばかりで、この時代を代表した大人気漫画家のリレー作品です。

 一つ一つの作品は、一個の忍者漫画の、読みきり短編作品としても通用する形式ですが、連作十作品に一本通る太いストーリーの柱があって、舞台は戦国時代末期、秀吉が築いた大阪城に抜け穴がある、という情報を聞き付けた徳川家康が、配下に大阪城抜け穴を記してある絵図面を捜索して、自分のところへ持って来るように命じる。この絵図面を巡って、豊臣側に着いた忍者と徳川方の忍者が忍術合戦を繰り広げる、というテーマに沿って各漫画家が毎号、短編連作の忍者漫画を描き繋いで行ってます。

 この時代の児童漫画を代表する作家陣は、1月号・一番勝負・堀江卓、2月号・二番勝負・藤子不二雄A、3月号・三番勝負・松本零士、4月号・四番勝負・古城武司、5月号・五番勝負・桑田次郎、6月号・六番勝負・一峰大二、7月号・七番勝負・白土三平、8月号・八番勝負・小沢さとる、9月号・九番勝負・石森章太郎、10月号・十番勝負・横山光輝。一応ストーリーは十番勝負で完結する。

 ネックは、大阪城抜け穴があるのかないのか?家康はどうしてそんなに抜け穴の場所を知りたがるのか?大阪城の絵図面の取り合いで、豊臣側に着いたか雇われたかした忍者や忍者組織と、家康側に着いたか雇われたかした忍者や忍者組織が、命を懸けて絵図面を奪い合う。それを、十人の各漫画家が個々の作風と独自のタッチで、忍者同士の死闘を描いて行く。

 最終回、トリを務めたのは、忍者漫画「伊賀の影丸」の大ヒットで、この時代の少年漫画の忍者時代劇ジャンルの第一人者となった、横山光輝先生。この時代の忍者漫画では双璧の白土三平先生は何故か7月号とか中途半端な位置。

 ただ、同じ忍者漫画でも、横山光輝先生の忍者ものは内容が解りやすく、より子供向けの時代劇アクション巨編でした。もともと貸本漫画出身の白土三平先生の忍者漫画は、子供向け漫画にしては当時の「サスケ」など残酷描写が多く、物語で描かれる忍者も階級社会だったりリアルな舞台背景で描かれている。小学校低学年じゃちょっと難しい内容でしたね。小学校五、六年くらいの年齢でないと理解しにくかったんじゃないかな。

 

 「忍法十番勝負」が連載されていた当時、掲載誌の「冒険王」多分1964年8月号だと思うんだけど、何分にも50年前の話だから、ひょっとしたら記憶違いで別の号だったのかも知れないが、雑誌は「冒険王」で間違いないと思うのだけど、多分「冒険王」64年8月号だと思うので、64年7月6日に発売された「冒険王」8月号で話を進めるが、この時代、僕が街の書店で購入してた雑誌は、月刊誌は「まんが王」か「ぼくら」か「少年」で、ふだん「冒険王」を書店で購入して読むことはなく、この時代の月刊少年漫画誌「少年画報」「少年ブック」「冒険王」は近所の貸本屋で借りて来て読んでた。

 このとき、僕は珍しく「冒険王」を書店で買った。多分、「冒険王」8月号で、夏休み前の七月上旬、僕は余分に小遣いを持ってたんでしょうね。64年だと僕は八歳で、「冒険王」などの月刊誌はだいたい160円か170円だった。昭和30年代後半から40年代の物価上昇は、雑誌の値段は毎年だいたい10円づつ上がっていた。初めて僕が月刊児童漫画雑誌を購入したときは160円だった。このときは170円だったかも知れない。

 ふだんは貸本屋で借りて読む「冒険王」を書店で購入したのは、多分、付録に魅せられたのだろう。多分、付録のタイトルは「忍術セット」。「忍者セット」だったのかも知れない。薄いビニール製の黒い忍者マスクと厚紙製の手裏剣が多数着いていたのははっきりしている。忍者の黒装束の頭部の覆面は、本当は黒い布だろうが、漫画雑誌の付録はとても薄いビニール製だった。

 

 「忍術セット」の手裏剣の方は、固い厚紙を銀色にコーティングしていて、黒線で簡単な模様が入っている。厚紙に手裏剣型を嵌め込んだ形で、手裏剣はくり抜いて使う。この厚紙製手裏剣が、十方手裏剣他何種類かの形で全部で40枚着いていた。クナイ型はなく、全部丸い形の手裏剣だったと思う。紙製だから、まぁ軽いんだけど、固い厚紙製だから投げて飛ばせる重みはあったように思う。このときの「忍術セット」はビニール製マスクと手裏剣セットだけで他には何も着いてなかったと記憶してるんだが…。後は四、五冊のB6別冊ふろく。 

 でもよく考えると、そもそも付録タイトルに「忍術セット」という名前は着いてなく、付録の一つ一つ個々に付録タイトルが着いていたのかも。一番目が「忍者マスク」とかで二番目が「手裏剣セット」だったのかも。手元に厚紙手裏剣付録が着いていた、1964年の「冒険王」を持っている訳ではなく、またネットでこの当時の「冒険王」の情報をイロイロ探してみたけど、雑誌表紙画像さえ見つからなかったんで、「忍術セット」付録に関することははっきりしたことは解りません。僕の記憶もそんなにはっきりしたものでもないから、ひょっとしたら64年の「冒険王」ではなかったかも知れないし。でも忍者マスクと厚紙手裏剣の付録が着いてたのは当時の「冒険王」で間違いないと思います。ただ64年ではなく65年だったのかも知れない。済みません、はっきりしません。

 当時、僕が毎日通っていた貸本屋には、少年月刊誌四誌の例月号が置いていて、厚紙カバーを縫った本誌と、3冊から5冊のB6別冊ふろくは厚紙カバーを掛けて一つにまとめて縫い合わせ、一冊本にしてありました。3~5冊の別冊ふろくが見掛け分厚い一冊本に製本してた。で、当時の月刊児童誌にはペーパークラフトみたいな、ほとんど厚紙製で部分部分に小さな金属やプラスチック、薄いビニールシートを使った組み立てふろくが着いてました。厚紙で作られた、戦車や潜水艦やゲーム盤、銃器などなど、コスト安価な紙製で、各社アイデアを絞り出して子供が驚き喜びそうな組み立てふろくを、別冊ふろくの他に毎号一つか二つ着けてました。

 当時僕が通っていた貸本屋さんは、この組み立てふろくを、欲しいと言うお客に売っていたようですね。その貸本屋の直ぐ近くに毛糸専門店の家があり、そこの息子が組み立てふろくをまとめて買っていたみたいですね。僕はその毛糸屋の息子と面識がなかったけど、貸本屋のおばちゃんが確かそんな話をしてました。それで、「冒険王」に手裏剣セットの付録が着いた月、どういう訳か貸本屋のおじさんかおばちゃんか、どちらかが付録の手裏剣セットを僕にタダでくれました。この月、僕は「冒険王」を書店で買って既に厚紙手裏剣を40枚持ってましたが、貸本屋の店主がくれたので、僕は紙製手裏剣を80枚手に入れました。多分、八歳だった僕は、80枚もの手裏剣を手に入れて踊るように喜びました。 

 

 僕が小学生時代に住んでた家の隣が、茶碗屋というか瀬戸物屋で、高齢のご主人が病気がちでよく奥の部屋で床に臥せてたりしてた。瀬戸物屋スペースは隅の戸だけ開けて開店休業状態で、奥さんは隣に一軒分設けて、そこで手芸教室をやって自分の編んだものを売っていた。何でもない僕のごく個人的な思い出だが、当時八歳の僕はこの冒険王付録のビニール頭巾を被って、茶碗を並べた広いスペースに侵入した。茶碗売り場は開店休業状態だから電気も点けてなく暗かったから、忍者が忍び込むのに調度良かったのだ。

 僕は忍者マスクを被っていたにも拘わらず、隣の部屋の奥さんに直ぐに見つかって、声掛けられ慌てて逃げた。奥さんは気持ちの良いおばさんで、座敷に上がってお菓子でも食べて行かないかと勧められたが、見つかった以上、忍者は退散するしかなかった。まぁ、忍術セットのごく個人的な思い出だな。このとき多分、腰には同じく冒険王付録の手裏剣セット何十枚かも、袋か何かに入れて腰に提げていたと思う。

 この隣の家には小さい頃よく遊びに入ってた。瀬戸物屋夫婦には子供が居なくて僕を可愛がってくれた。僕の住んでる家と隣家の間には大人の背の高さくらいの板塀があって、塀に沿って細長く隣家の庭があった。小さい頃の僕は高いところが大好きで、よくこの板塀の上を歩いていたが、細長い庭にも侵入してた。僕はスーパーマンにも憧れていたから、子供の頃はいつでもスーパーマンに変身できるように衣服の下に水泳パンツを穿いて、首にはマント代わりの風呂敷かバスタオルを巻いていた。この格好で同じように茶碗売り場に侵入したら、直ぐに奥さんに見つかって、短パンズボンの下に水泳パンツを穿いていることを見破られ、隣家の風呂に入って行けと誘われた。これも思い出として記憶している。

 それと憶えている僕の子供時代の間抜けなエピソードは、巷の子供たちに「伊賀の影丸」が大人気だった時代、当時、町内の友達がFT 君ちに集まってて、僕は腰にビニール袋提げて、そこには自分ちの庭の柴の木の葉っぱをいっぱい入れて、FT 君ちの前まで行って、窓から見てるFT 君やMM 君が「やってみろ」と言うから、僕は腰のビニール袋から掴めるだけ葉っぱを掴んで空中にばら蒔き、葉っぱが落ちる間にサッと横の電信柱の陰に隠れて、「伊賀の影丸」が得意な「木の葉隠れの術」を披露した。窓から見ていた友達はみんなで馬鹿にして爆笑した。FT 君もMM 君も学校の成績優秀な秀才だったし、まぁ間抜けな僕の馬鹿みたいな忍術披露の思い出ですね。あれって、初めみんなと一緒に居たけど苛めっぽく仲間外れにされて、悔しいから見返してやろうと、庭の葉っぱをいっぱい千切って持って行って、「木の葉隠れ」を披露したのかなぁ?そこだけ覚えているけど、前後のことをよく憶えてない。思えば俺は白痴的な子供だったな。

   

 僕の子供時代は、漫画もTVも、一大忍者ブームで、忍者ものがたくさんありました。僕の子供時代の漫画雑誌は、忍者時代劇漫画とSFヒーロー漫画が子供漫画の双璧でした。SF 漫画はスーパーロボット、スーパーサイボーグ、超能力少年、超能力宇宙人が大活躍する、SF ヒーローアクション漫画。忍者漫画も正義の忍者が幕府転覆を謀る悪の忍者組織と闘う、忍者ヒーロー漫画。主人公の少年忍者は一つ二つ、必殺の秘術を持っていて、悪の忍者組織の忍者たちは人間離れした怪物や妖怪みたいな忍者だったりする。

 この時代は忍者ブームだったから、現代が舞台の漫画でも“忍者”アイテムを入れるとウケるので、例えば現代劇のスパイアクション漫画でも、主人公のスパイ青年が現代の忍者だったり、野球漫画でも主人公の投手が忍者の子孫で魔球を投げたり、学園漫画で主人公の中学生少年が忍者の末裔で忍術を使える、なんて漫画もありました。週刊少年キングに創刊号から連載された「忍者部隊月光」は、太平洋戦争の戦時下で米軍と戦う一部隊が、全員忍者という設定の戦争忍者漫画というのもありました。僕ら当時の子供は“忍者”に憧れてましたねぇ。
   

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※Kenの漫画読み日記 2013-03/12 「影狩り」

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