赤いハンカチ

行く秋や手をひろげたる栗の毬

▼自衛隊賛歌

2023年08月15日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

以下、これまた20年ほど前の記事だが、自分で言うのもなんだが正論だ。

 

Bさん、「国を守る」ということは必ずしも戦闘するということではないでしょう。国益に準ずるということでしょうね。時の国際関係や政治的環境ということもある。身を守るための銃は所持しているものの、当初決められた額面通り、道路工事や学校づくりに励んでいるのですから、たいしたものだと思いますよ。

国際ボランティアみたいなもんでしょう。私はイラク派遣直前に北海道で訓練している自衛隊の様子を写すドキュメント番組を見たが、彼らが、どれほど深く憲法その他を学習し、訓練に励んでいたか。目からうろこが落ちました。彼らこそ日本国憲法の番人であるとすら思ったほどでした。感動しました。一人の若い隊長が、インタビューに答えて「私は一人の部下も失わず、必ず無事にイラクから帰ってきます。そのために厳しい訓練に明け暮れているのです」と決意のほどを語ってくれていた。

このように銃を持っていても、決して相手を傷つけない、自分も傷つかないという、悩ましい任務を与えられているのがわが国の自衛隊である。かような兵というものが、かつて、あったでしょうか。それを徹底的に血肉化して派遣されているのです。

他の国の兵隊のことはしりませんが、わが国の自衛隊はそうなのです。憲法9条のもとにあるのです。一人の国民として、彼らの存在が誇らしいほどです。銃を持った兵であるにもかかわらず、決して人を傷つけてはならないというのが、彼らに与えられた至上命令なのですから。それだけでも、十分に哲学的ではありませんか。すくなくてものうのうと、クラーのある部屋でワンカップなどをなめている拙者などよりは、何十倍も立派です。

彼らにしても好き好んで妻子と別れ、いまだ煙がくすぶっている遠いイラクに行っているわけではないでしょう。国民の代表として、好かれ悪しかれの議論はあるが、定められた国益を果たすために任務を遂行しているのです。

いわば国益といい、軍備といい、実に相対的なものであり流動的です。その実質は、その場その時の国際情勢に応じて、考えればよい。ただし国内的な権力機構のある部分を、ある程度、武装させておかなければならないでしょう。海上保安庁が丸腰では、領海を侵犯してくる船舶に示しが聞きません。警官から銃を取り上げては、やはり警官に身の危険が及ぶでしょう。その警官を100名ほど整列させれば、たちどこりに軍隊に毛の生えた程度にはなるのです。実に相対的ではございませんか。

憲法9条はどこまでの軍備はよくて、どこからは、だめだと言っているのですか。それがはっきりしていないからら、議論もたえないのですが、ああだ、こうだ言っているうちはまだ平和だからとも言えましょう。

だがそんな調子で、軍備らしきものを一掃できますか。してよろしいのですか。条文には全面撤廃だと、そのように書かれているからと申して完全に非武装にした暁に、さて現実的平和が守れるのですか。それをお聞きしているのですよ。

どう考えても、原理的非武装は無理でしょう。ですから私は、できるだけ拡大しない方向で今の自衛隊のままでよし。憲法も変える必要はない。イラクのように非戦闘が約束できるなら、海外派遣もやむなしと、そのようにのんきの構えているところです。どうしても現実と条文を一致させておきたいと言うなら現実を選ぶでしょう。条文を現実に合わせるというのがリアリストです。憲法にそう書いてあるからといって、歴史の現実を逆立ちさせるわけにもいきませんし、国内から完全に武装撤去することも、実際的には無理だと思いますよ。

それから自衛隊の諸君は、君たちが考えているよりは、はるかに平和主義者ですよ。平和に徹する彼らの姿が、左翼の私の目には、多少立派に見えるだけなのかも知れませんがね。いずれにしても原理主義や教条主義の目で、政治を一面的に解釈するのは国民を間違った道に誘い込むだけです。現実的ではござりません。

話は少々変わるが、一むかし前のこと、「反原発運動」というものがありました。昔といっても、そう遠い昔のことではありません。政党が主導をとって始まったというよりは、草の根運動から燎原の火のように広がったのです。活動家は政党を超えて、手をつなぎ運動にまい進できた市民運動の象徴的存在でした。私は運動にはまったく参加しておりませんでしたが、友人が原発銀座と呼ばれている敦賀地方で運動しちょりました。彼に案内されて憎っくき原子力発電所というものを見学に行ったことを覚えています。

ところが、この反原発運動が、ある頃を境に急に下火になった。時も同じ頃、電気事業会の有名な(今でもそのキャッチフレーズは使われています)TVコマーシャルが流れるようになったのだと覚えているのです。そうです・・・現在みなさんが使っている電力の3分の1は、原子力です・・・というあれです。

否応なく世の中というものは進んでいく、ノーと言うだけなら、単なる願望にすぎません。口先だけならイエスともノーとでも、何とでもいえるのです。そうした言葉のむなしさというものを、この原発の問題から、つくづく考えるようになりました。少なくても、私は、そうでした。アメリカさんの高圧的な態度を批判する口舌というものは、もう昔からありました。戦前からありましたよ。「鬼畜米英」など、その最たるもので、今や同じ事を左翼の人たちが、がなっているのですから、笑います。

考えてもごらんなさい。なぜ、一億郎党が、外国語と言えば、英語を勉強しているのですか。日本の、すべての中学生が英語を勉強しておりますよ。戦後60年ずっと、そうだったのです。この件について、誰か、お国に文句を言ってきたようなためしがありますか?聞いたこともありません。勉強せい、勉強せいと、英米文化こそを、子どもたちの背中を押して注入してきたのではないですか。否応なく世の中は進むと、つくづく私が思うのは上記のようなことを痛切に感じるからです。

 

<2005.09 記>

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