バイトで働いている子どもを待っている
いまだ帰らず
深夜は時間を空間に分解し
感受性を時空のかなたに覆いこむ
私も昨日らい息子のことについて長々と書いたが、梅坂さんも私の息子と同じ年頃の子どもさんがいるように聞いた覚えがある。常にお子さんのことを気になされている心優しい父親の万感の思いがつたわってくる。つくづく思うに、家族というものは、良いものだとか、面倒なものだとか、物差しを当てた上での白黒はつけがたいのではないだろうか。親子の関係には、悲しい宿命のようなものがあるらしい。街で写真を撮りながら感じるのだが、とくに母と幼い子どものツーショットには、どうしても哀愁と言うか、ある種もの悲しい感覚がかぶさってくることを、いかんともしがたいのである。親子の関係にまつわる感情は、夫婦がそうであるように、決して単純なものではない。いわく言いがたい歯がゆい気持ちに襲われることもある。これを安易に公言してしまうと、やれ自慢していると言われ、やれ卑下しすぎだといわれ、どっちにせよ誤解されてしまう場合が多いのである。社交辞令風に言うなら、次のようになるだろう。「えっ、私の息子なんて、お宅様に比べれば馬鹿なものですよ。はっはっはっは」「なんのとりえもありませんよ。家でぶらぶらしていますよ。ニッチもさっちもいきませんよ。はっはっはっはっ」等々である。こうした言葉の特徴は、モノの贈答の際の礼儀に同じようにひどく日本的なものにも感じるが、外国のことを知らない以上、なんとも言えないのである。やはり梅坂さんのように「詩」にでも書いてみるのが真意が伝わる最もよい方法なのかもしれない。我が子のことを、何の疑問もなくへらへらと自慢できるような親も、反対に本気で自分の子どもが成り立ち行かない馬鹿な息子だと思っているような親も、滅多にいないのである。いくつになっても、我が子は我が子であり、とーちゃんはとーちゃんである。この強い絆からもたらされた宿命には、誰も逆らえない。決して自由になれない。子どもとの関係が幸とでるのか不幸とでるのかは、二人はもちろんその他の人間も、誰も知らないのである。子どものことは考えれば考えるほど、不思議な気持ちに満たされて、言葉を失うばかりである。