才能という問題を考えてみた。その際、才能とはなんぞやという前提は抜きだ。その前提は人間とはなんぞや、または言葉とはなんぞや、という問いに同じくわたしの手に余る。
一昨日、ひさしぶりの旧友に出っくわし、しばしビールを飲みながら話に及んだのだが、そのとき彼が「マルクスは天才だった」と言った文句が忘れられない。もちろん若いころよりマルクスファンを自認してはばからなかったわたしも同意した。間違いなく「資本論」をなして科学的社会主義の創始者であったカール・マルクスは天才だった。そしてわたしは付け加えた。だが、天才マルクスが苦労に苦労して書き上げた「資本論」も真理というよりは、よほど一つの仮説に過ぎなかったと。
ここから問題をはじめても良い。だが、もっと一般的に、また今日的に、それはつらい話だが、たとえば私に属する才能のありようという、語り方もあるに違いない。
わたしが心から誰でもよいから教えてもらいたいのは、現代社会を構成している感のある労働と才能の関係だ。または職業と才能ということでもよい。人生と才能と言い換えてもよい。天才マルクスも、人間の個人に宿る「才能」という問題だけはほとんど語っていないのである。ここにマルクス主義の大きな陥穽が潜んでいるような気がしている。黙殺したまま、社会的労働とやらに、還元し語りつくした気になっている。それは、あまりにも、個人にとって、つらい話ではないか。資本主義下における労働はクズ同然の行為であり、同じ行為でも社会主義下であれば、労働こそ最大最高の善行として美化される。
そういうわけに行くだろうか。大昔でも役所はあったし、企業らしきものもあっただろう。集団労働というものはあったはずだ。だが、マルクスをはじめ現代人の言うような「労働」は皆無だったと、わたしは、そう思っている。
マルクスは疎外という概念をつかっていたが、疎外どころの話ではない。労働は人間から才能を奪ってしまう、とわたしはそう思っている。武士も農民も、個人の才覚を持って世に出、人生を透徹するのが道だった。もちろん苦労は大変なものだった。現代は苦労することはない。どこかの集団に就職してしまえさえすれば角のたつ才能など開花させる必要がない。それがいやならアルバイトにフリーター、あなたのことを派遣させていただきます、という調子である。ま、こうしたことも、才能うんぬんの話ではない。まずは食うための仕儀一般である。食うことと才能は、ぜんぜん別のものになってきた。それでよいのかという話をしているのだ。
不思議なことである。現代ではスポーツ選手ぐらいしか、ただしく当人の才能を問われることはない。これいかに。その代わりといってはなんだが、知りもしない人間が、特定者にあてはめるべき評価の方法と基準についてばかり口やかましい。無責任きわまりなしだ。なんということだろう。
2007-04-11 19:30:43 記
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