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赤いハンカチ

子供は微笑することが上手である・・そして又すべての人間の美しさは子供の微笑に胚胎している・・・小林秀雄

▼芸は身を助ける<8>

2010年03月01日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
<小平奈緒選手>

上の写真はgooサイトの五輪特集ギャラリーに掲載されていたものを、ちょっくら拝借してきたものである。以下は、わたしの個人的な感想に過ぎないのだが、それに見た目以上のことはなにも言えない素人判断なのだが、わたしはスポーツというスポーツの中で、スピードスケートが最も好きなのである。繰り返すが、見た目にそう写るというだけの話だ。言うまでもないことだが、どんなスポーツにも人の人たる心と体が美しく映えてくる。一種の職人技だ。中でもスピードスケートは、群を抜いている。人の体の形が、あのように伸びやかに、人間業とも思えないほどまでに見えてくるのは、この競技をおいて他には見たこともない。陸上競技における短中距離競争もまた、似たような体の美が垣間見られるが、やはり極めつけはスピードスケートだ。選手が高速でリンクのカーブを切っていくときに足を交差させていく、そのときの選手の体の動きや表情を見ていると、なんとも言えない感動を覚える。
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▼小林秀雄著「本居宣長」

2010年02月27日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
<2010.02.27 毎日新聞>
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▼正論は墓場より<8>

2010年01月29日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
<2010.01.29 朝日新聞夕刊>
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▼自画像

2010年01月06日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
<2009.12.20 自宅にて>
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▼拡大聖書

2009年12月17日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
<世界古典文学全集「聖書」1965年刊 筑摩書房>

プリンタを新調した。いわゆる複合機と呼ばれているもので、コピー機としてもスキャナーとしても使えるものである。これで細かな活字による図書などを、いちいち拡大コピーしておけば、多少は読書も容易になるのでないかと考えたのである。わたしは、もともと目は親譲りで良かった。つい最近の健康診断でも両眼とも視力は1.5であった。だが、近眼という言葉が許されるなら、わたしの視力の良さは、ようするに遠眼というべきで聞くところによれば遠眼は近眼に比べて、はやばやと老眼になる確率が高いのだという。わたしも40代も後半にさしかかったあたりからシニアレンズ(老眼鏡)が欠かせなくなってしまった。

さっそく、とある本のページを拡大して出力してみた。それが上の写真である。本のタイトルは「聖書」である。聖書には旧約と新約という、ふたつの部分があるが、とりあえずの写真作例として、旧約のほとんど最後のページを拡大してコピーにかけてみた。140%の拡大である。本そのものは菊判(B5版)で、二段組だ。活字は9ポイントではないか。新聞活字より、さらに小さい。わたしの裸眼では、ほとんど文字は茫洋として判読不能だ。シニアレンズを着用して、ようやく読めるという程度である。これをA4用紙、いっぱいに拡大して出力してみた。これなら裸眼でも読めそうだ。

なぜ、まともに読めもしない本を散歩途中の古本屋から買い求めてきたのかと言えば、安かったからは第一の理由だが、なんと言っても、この「聖書」の場合は文語体だったからである。いまや全国どこの書店にいっても「聖書」はいくらでも並んでいるが、探してもめったに見つからないのが文語体聖書である。口語体聖書がカトリックとプロテスタント両派の合同で作成されたのは、戦後まもなくのことであったらしい。以後、日本語による「聖書」というものは口語訳だけに統一された感がある。文語体聖書が出版されることは、よほどの理由がない限り皆無となった。

「聖書」を、きちんと通読することは、かなり以前からのわたしの念願だった。だが、なかなか読めなかった。読めないための言い訳だったのかも知れないが、読むなら文語体聖書に限ると、そのように心に決めていたふしもある。さて、実際に文語体聖書による図書および活字を拡大するための結構な道具を手に入れた今となっては、読めるか読めないかの結果をもたらす、残る問題といえば、自身の心意気だけとなってしまった。なにもかも不足するものがない今となっては、他に言い訳は、利かなくなってしまったのである。この先、一向に読むことができませんでしたでは、とても済まされないと自分で自分を励ましているところである。
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▼米原万理の反語法

2009年10月31日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
<「オリガ・モリソビナの反語法」集英社文庫表紙裏>

今朝は、寝床で目を覚ましたと同時に一昨日から読んでいた米原万理さんの本を、ふたたび手に取って読みはじめた。米原さんの唯一の小説と言われている「オリガ・モリソビナの反語法」である。わたしはめったに栞(しおり)は使わない。読み終えたページの下の隅を「犬の耳」にしておく。昨夜折っておいた犬の耳から推定するに残り約100頁あまりであった。二時間もあれば読了できるはずだった。だがめずらしく窓外には青空が広がっていた。カーテンが涼風に揺らいでいた。ねぐらに入ったまま読み終えるべき本ではないと悟ったのかもしれない。秋のニッポン晴れの下、著者の気持ちをどこまでも想像し胸ふくらませつつ物語の大団円を迎えたく、せめて街中に出ていこうとカメラと、この一冊をザックに放り込んで、そそくさと家を後にした。
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▼言葉で遊ぶ思想

2009年10月26日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

以下、某掲示板より

>かもめは言葉遊びが一生の仕事か。

図星だ。拙者のばやい、こと言葉に限っては遊びをせんとや生まれけむ。

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▼正論は現場から<11>

2009年09月04日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
<朝日新聞 2009.09.04>
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▼正論は現場から<9>

2009年09月02日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
散歩途中の中古CD屋さんに入ったら、数年前より、わたしがひときわ憧れているピアニストの館野さんのCDを見つけたので、躊躇することなく買い求めてきた。以来、この一枚をCDデッキに投入したまま、朝晩に聞きほれている。わたしの音楽の聞き方は、いつもこんな調子だ。この一枚に飽きがくるまで他の楽曲や演奏には見向きもしないで、時間の許す限り、聞いて聞いて聞きほれる。館野さんは、数年前に脳梗塞で倒れた際、右手が不自由になった。片手が、言うことを利かないとなれば、これはもうピアニストとしては断念せざるを得ない憂き目を見る。一時は、再起を目指して右手のリハビリに精を出してみたらしい。だが、やはり思うようにはいかなかったのである。そんなときに、息子さんが、左手だけで引けるピアノ曲の楽譜を見つけ出してきたらしい。以後、左手だけで演奏活動を再開させたのである。その最初の録音が上のものである。何事も、技巧は本質的なものではない。館野さんは、音楽と魂が混交していることを再度、自らに発見したのだと思う。以前にもまして、ピアノが、音楽が、いとおしくなったと言う。
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▼正論は墓場から

2009年08月29日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
<朝日新聞 2009.08.29>

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▼いい男発見

2009年07月05日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

昨日はネットに流されているフランコ・コレルリの動画を探し出してはモニターに映し出し、久しぶりの再会に狂喜しつつ彼の姿とその歌声に聞きほれていた。だが、わたしの「いい男」探しのひと時は、フランコ・コレルリにとどまらなかった。コレルリ以上に、いい男を発見して、むしろ夢中になったのは、こちらの方だった。1962年生まれの正真正銘のロシアの男で、いまや押しも押されもしない第一級のオペラ歌手で、チャイコフスキーの「オネーギン」が、はまり役なのだそうだ。数年前のNYタイムズにはドミトリー・ホロストフスキーは、まさに「エウゲニ・オネーギン」を歌うために生まれきたと絶賛する批評が載った。いまやロシアの国民的英雄であり、メトロポリタンやスカラ座をはじめ世界有数のオペラハウスから引く手あまたの状態だと聞く。若くして頂点に駆け上ってきたバス・バリトンの逸材だった。寡聞にして昨日までのわたしが知らなかっただけなのだ。出会いは突然やってくる。朝を迎えて、眠い目をこすりながら、さっそく都心に出向き、彼のCDを何枚か入手してきたところである。ホロストフスキーは現在、46歳になる。いよいよ油の載り切った時期に入ってきた。オペラ歌手は誰でも40歳代も後半からが勝負である。一方、フランコ・コレルリは数年前に長寿をまっとうしナポリ近くの生地で没した。コレルリがもっとも活躍したのは、1950年代から60年代である。マリアカラスと共演した「カルメン」の録音は出色だった。これは、たしかカラヤン指揮だった。わたしは出来の悪い田舎の高校生に過ぎなかった。当時はネットも動画も、CDさえも、まだない時代でレコードのジャケット写真から、美男の彼を、その声とともに、ひそかに愛していたのである。彼の歌うトスカのアリアは、月並みな言い方だがレコードの溝が擦り切れるほどまで繰り返し聞きほれた。まだ音楽のことも、世間のことも、ようするに右も左もわからないだらけの、わたしの脳天の中枢を直撃し挑発してきた。一声聞けば、感極まってイタリア語の歌詞は知らなくても自然に涙があふれてきたのである。さて、オペラ界では大昔から定説となっていることがある。テノールはもちろんイタリア男が最適で、バリトンは欧州の北東方面から輩出されるのである。なかでも最も低い音域を受け持つバスにいたっては、有名なシャリアピン以来、ロシア産になる髭面の大男と相場がきまっていた。だが、ロシアの低音男というものは、どういうわけか、その声があまりに暗すぎるのである。ロシア民謡の「トロイカ」とか「仕事の歌」などを、歌わせるにあたっては、彼らをおいて他にはいないのだが、その声は、どこまでも低く、鈍く、まるで酔いどれの、うめき声とも見まがうほどだ。影が濃すぎて聞いているこちらのほうが地獄に引きずりこまれてしまいそうだ。その点、ホロストフスキーにあっては、影の濃さは適度に抑制されている。元来が美声の持ち主なのだ。みずみずしい輝きがある。それに、なんといっても、いい男である。ロシアも捨てたものじゃない。天は二分を与えずという諺があるけれど、まれに二分を与えられて、わたしの前に突然と出現してくる男がいる。数は少ないが、ホロストフスキーは、たしかにそうした男の一人のようだ。もちろん、これは私の基準で左右される問題であり批評しているつもりは毛頭ない。ファン心理に過ぎないと言われれば二言はない。わたしはそれでよいと思っている。40年前の当時、イタリヤのテノール歌手フランコ・コレルリ以上に、いい男は探しても探してもいなかった。

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▼蜂の幸福

2009年06月17日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
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▼社会化された野良による写真集<5>

2009年06月14日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

きつねうどんを注文。出てきた丼に入った大きな油揚げを見て、
「これ、きつねの皮?」
        東京都小金井市 斉藤桃乃(5歳)


ひいおじいちゃんが亡くなって、
「だれにやられたんだろう」
        神奈川県横浜市 住田一真(3歳)


ぬかみそにナスとキュウリを漬け込んでいる祖母を見て、
「どうして、かくすの?」
        兵庫県西宮市 野村恵理(4歳)



以上、「あのね--子どものつぶやき--」(2009年6月刊 朝日文庫)より
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▼あじさいあじさいⅢ

2009年06月14日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
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▼あじさいあじさい

2009年06月14日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
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