すでに昨年のことになってしまったが、半月ほど前のことである。なにがそのように私を思わせたのかは、われながら実になぞめいているのだが、散歩している途中に突然、どうしても志賀直哉の「小僧の神様」を読みたくなった。
どうせ、こんな小さな書店には、ないに決まっているなどとたかをくくって駅前の書店に入ってみたところ、新潮文庫「小僧の神様」があったので、買い求め、さっそく近くの喫茶店にもぐりこんで、読んでみた次第である。
すでに昨年のことになってしまったが、半月ほど前のことである。なにがそのように私を思わせたのかは、われながら実になぞめいているのだが、散歩している途中に突然、どうしても志賀直哉の「小僧の神様」を読みたくなった。
どうせ、こんな小さな書店には、ないに決まっているなどとたかをくくって駅前の書店に入ってみたところ、新潮文庫「小僧の神様」があったので、買い求め、さっそく近くの喫茶店にもぐりこんで、読んでみた次第である。
半年ほど前に、路上で拾った少年像
酔いにまかせて、ついつい、大げさなタイトルを付けてしまって、我ながら面食らっているところなり。
さきほどまでは、「日本語の発見」というタイトルで文章を書き付けておこうと思った次第だが、よくよ
く考えてみるに、日本語というよりは、やはり自分にとっては「国語」なのだと得心した次第にて許せ
よカバよ、一億総テレビ豚。
まっ、いずれのバカにも拙者にも、時間はたっぷりと用意されている。
政治がいいのか、経済がいいのか、はたまた日米同盟のおかげかどうかは知らないが、
ようするに根性が、それなりに出来てきたのであろうかい。
一億総芸者根性、または、その奴隷根性たるや、
いまや成熟して国土と精神は平和そのものでは、ないかいな。
えがった、えがった、戦後民主主義。
このぬるま湯状態の合い間に合い間に、能も芸もない、我ながら、てめで作った外題に沿って、
おいおいと書いてみるつもりなりけりや。
2011.09.21 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110920-00000106-san-soci
ドナルド・キーンさんが中尊寺で講演会を開いたとの記事を読み感銘を受けた。米国生まれのキーンさんは18歳のときに、アーサーウェイリーによる英訳「源氏物語」を読み、これがキーンさんの人生を決めてしまったらしい。以後、日本のことを一日たりとも忘れたことはないと言う。それほど日本と日本文学と、日本人のことがすきなのである。残された余生を、日本のひとたちと、ともに居るために日本で暮らすことにしたとおっしゃる。わたしは、うれしくなって胸が熱くなってきた。
2011.03.02 川崎市
この一週間、すっかり引きこもったまま本ばかり読んで、まともな散歩もしないので写真も撮れない。かように読書は体の毒である。おかげで3キロも太ってしまった。それにしても、わたしの読書対象図書は、あいかわらず、女性が書いた本ばかりである。一昨日は林望訳「源氏物語」(二)を一日で読みきった。朝の十時ごろから読み始め本を閉じたのは夕方の5時すぎだった。林望氏は1949年生だから、わたしより一つ年下の男性である。本に感銘したことは、言うまでもないのだが、読書にともなう、わたしが覚えた最近の心理的特徴として、著者の才能に嫉妬するのである。だが、この嫉妬心は、決して不愉快なものではない。心地よい感銘の中に、含まれている、ある種の名状しがたい個人的な心境である。
リンボウ先生の謹訳「源氏物語」
http://www.youtube.com/watch?v=CTQSKyw7SIs
昨日は、櫻井よしこ著「何があっても大丈夫」(新潮社2005年刊)を読んでみた。櫻井さんが日本テレビのニュースキャスターを辞めるまでの半生の自伝である。いまや十五年前のことだが、「論陣を張る」と言って、テレビを辞めた時が、ちょうど50歳の節目であったらしい。これがよかったと、わたしも、わが事のように喜べる。テレビを辞めていなければ、今日の櫻井さんは、いなかっただろうし、わたしも、彼女に出会うすべは生まれなかった。出会うといっても、櫻井さんの書いたものを通してということだが。彼女の文章は不偏不党をどこまでも貫いている点で一級品なのであり徹底した民主主義者として一流なのである。
以下、拙者の決めつけだが、現代の「物書き」男の中に一流はめったにいない。ゲンダイ男の文章たるや、明けても暮れても、おセンチに、涙に暮れて、ちまちまちまちました言い訳じみて、こせこせと、真理とか心理ばかりにこだわっている思想的クズばかりのように見えてくる。もちろん昔は立派な男が仰山いた。さらに大昔には「ユリウス・カエサル」をはじめ、指折り数えてあまりある英雄がいた。彼らはみな男である。いまや男に英雄は存在しない。私も一応、男だが、男というものに失望しているのである。この歴史的事実の前に忸怩たる思いを、こねまわしているだけだ。勝手な推理かもしれないが、こうした一面的な決めつけが、どうも女性の書いた本ばかり好んで読んでいる原因なのかもしれない。言っておきたい、もう一面がある。自負するわけではないのだし、それに予防線を張っておくつもりもないのだが、拙者が女性の本ばかり求めているのは、一種の「色好み」ではないかと、指摘されれば、その通りだと、答える他には、今のところ思いもつかないことなのである。年をとるとともに、ますます、女というものが大好きになってきた。冗談ではない。政治も文学も、彼女たちに、まかせておけば間違いないと思いはじめているところである。いずれにせよ、もはや女にはかなわない・・・あせ あせ さって寝よ。
2010.11.17 産経新聞
上の曽野綾子さんの、飛行機の中で一度自分が座った椅子は、手放さないという意見は、読者諸賢には、いささか子どもっぽい説だと思われたかもしれないが、わたしは、そうは思わない。これは思想の問題でもある。自分と他者が交通するときに、最初にわきまえるべき政治的事件なのである。総じて、国民は、自我を強く持たねばならないのである。ご意見を集約してとか、徒党して団結心を旺盛にとか、いうこととは話がまったく違うのである。国家の強さとは、なにも武力や人口や面積や、情報の質量だけではないと思う。国民個々の精神的な強さ弱さも、国家の強さ弱さに反映しているに違いない。小さな国でも強い国は強い。強い国に属する国民の生活は幸いである。
飛行機 石川田吾作
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの独学をする眼の疲れ……
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
以下、2010.11.11 横浜市 こどもの国にて
最近は、とんと本が読めなくなってきた。いわゆる政権交代以降の小沢田吾作がどうしたこうした。はたまたハトポッポ兄弟がどうしたこうしたと。さらにまた自称ジャーナリストだ、コメンテーターだと法螺を吹きつつ、朝から晩まで売名行為に血道をあげている所詮がテレビ豚風情の別の田吾作一味の動向も気になってやまない日々の報道が面白くて新聞ばっかり読んでいる。だが新聞といい本といい、畢竟、文字に包括された世界は、書いた本人以外の人間には、心底から感動するには迂遠な道具といえるだろう。そこにいくと音は、耳さえ備わっていれば誰の内心にも直接ひびいてくる。音にもさまざまあるけれど言葉が透明な人の声の抑揚に乗ってかもし出されてくる歌曲を聴いていると、わたしの官能に火がついて、めろめろと流れ出す。
「わが母の教え給えし歌」
http://www.youtube.com/watch?v=OUDb6LNREDQ&feature=related
「暗い日曜日」
http://www.youtube.com/watch?v=9CyMF0Uhv08
「耳に残るは君の歌声」
http://www.youtube.com/watch?v=5MjnIcxCz8c&feature=related
「神よ わたしを憐れんでください」
http://www.youtube.com/watch?v=X_tXqQlFdcQ&feature=related