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赤いハンカチ

子供は微笑することが上手である・・そして又すべての人間の美しさは子供の微笑に胚胎している・・・小林秀雄

▼映画「渾身」を観る

2013年01月24日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

2013.01.24 大和市

映画館で映画を観るのは、今年度初ということになる。 「渾身」は、隠岐の島に現在でも残されている古典相撲が丹念に描かれている。年一度、神社の前で執り行なわれる奉納相撲のようなものは、いまでも全国各地にありそうだが、隠岐の場合は、その規模がまるで違うのだ。若者たちの多くが人生をかけて番付の高位を狙って修練を重ねる。また全島の老若男女が、この相撲に熱中している。礼節に基づく、数多くのしきたりや規則が保守されてきたのだ。日本文化とは、かくも勇ましく、つつましやかなものだったかが心底に響いてくる。

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▼忘れえぬ人<女優 オードリー・ヘプバーン>

2012年09月04日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

昨夜、テレビで「ローマの休日」が放映されていたので、しみじみと観た。これまで何回となく観てきた劇映画だが、なにか、もう観ることもないかもしれないという変な気持ちが沸いてきて、家人をおしのけ、テレビの前に陣取って、これまで以上に、没頭して観てしまった。わたしが物心ついた当時から、この映画は、よく話題になっていたし、年がら年中、東京ならば、場末の映画館で上映されていたし、またテレビでも馬鹿みたいに何度となく繰り返し放映されていた。そして観るたびに、改めて感心してしまうのは、それがまた当映画のねらい目だったのかもしれないが、オードリーさんの独特な美しさである。

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▼ヴォーカル大好き<麦と兵隊>

2012年08月31日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

以下、フクスマ県人会掲示板より

さて、泥炭氏が問うてきた、魯迅以降の現代中国文学というものは、わたすのばあいも、さっぱり知らぬ存ぜぬです。中国にもジャーナリズム(雑誌、新聞、出版)が存在するかぎり、小説や詩歌の需要はあるわけで、まるでないわけではないのでしょうが、日本語に、翻訳する人がいないのでしょうね。翻訳されない限り、わたしには、他言語文学は、無知蒙昧のままですし、そればかりか、わが国の現代文学(とくに小説)もまた、わたしはほとんど読みませんから、さっぱりです。海外のものでは、先日、「人の子 イエス」という本をめずらしく読了しました。この本には大いに感銘を受けました。その他、最近読むだものといえば、塩野七生さんの「ローマ人の物語」の中の何冊か。あとは小林秀雄や志賀直哉やプーシキン、ドストエフスキーなどの古い本ばかりです。おっと、そうだ。先日、阿川弘之の「山本五十六」(新潮文庫)を読みました。阿川によれば、連合艦隊司令長官たる五十六は、日米開戦を忌避したがっていたとのこと。かねてより海軍は、英国米国よりだった。おかしくなったのは、それまでの日英同盟を無視して、日独伊三国同盟を締結したあたりからだったとのこと。陸軍の野蛮さ、比して海軍の品位等々とうとう。なるほどと、思った次第です。

さて、「暁に祈る」という戦中に流行した名歌の歌詞に、「ああ傷ついた、この馬と、飲まず喰わずの日も三日」などというくだりがある。

http://www.youtube.com/watch?v=gindpIWQ1f0

これは大陸に進展した兵隊たちにとっては実際のことだろうと思われる。陸軍の現実である。おそらく海軍には、地に這うような、こうした直面はなかったように思われるのである。

陸軍の兵隊といえば行軍行軍だけだった。ザックを背負って、行けども行けども、なんのために歩いているのかせ、分からなかった。行った先で、たまたま出合った敵軍と鉄砲を打ち合って、なんぼものという次第だったのではなかったか。これが陸軍の一兵卒らに与えられた現実だったと、思うのである。

比してどうだ。海軍とは文字通り、海で戦う戦士たちである。もとより選抜されている。機械工、情報工作員、泳ぎが得意、その他いろいろ。何かそれらしい取り柄がなければ、海軍には入れなかった。じっさい、国防費の大半が、大戦艦を作りさえすれば、この大戦に勝利するとばかりに、大威張りだったのが、海軍の先見の明の暗さである。昭和17年ぐらいの国家予算の割り当てを見ろ。海軍が七割がとっている。陸軍は、相変わらずの人海戦術に明け暮れる。トーホグの農家の次男坊以下は、徴兵で集められ、一堂、菊のご紋の鉄砲もたせて、輸送船で大陸に送られ、次の日からは、歩け歩けの戦争だ。砂漠地帯を、おにぎり一つ持たせたままで、行軍行軍に明け暮れさせる。行けども行けども、なにもなし。

予科練?あれも海軍だ。特攻隊?ゼロ戦?

これら、いずれも海軍のしわざではないのか。

この際、言うが、わたすはわたすは、陸軍の田舎じみた愚直さが好きなのである。

<麦と兵隊>
http://www.youtube.com/watch?v=xjCFsNpCKXU

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▼パラリンピック開幕 白地に赤く がんばれ日本

2012年08月30日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

yahooニュースより

ロンドン・パラリンピックの開会式で入場する旗手の
木村敬一選手(左)=ロンドンの五輪スタジアムで
2012年8月29日午後9時50分、木葉健二撮影

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▼忘れえぬ人<プーシキン>

2012年07月23日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法


少年時代のプーシキン

 数日前にプーシキンの「オネーギン」を読み返した。手元には、金子幸彦訳のもの(中央公論社「世界の文学」プーシキン)と池田健太郎訳(岩波文庫「オネーギン」)との二種があって、最初は、どちらを読もうかと迷ったが、金子訳は、何度か読んでいるので、このたびは池田訳のほうを読んでみた。

 このさい、そもそも「オネーギン」は、とかプーシキンは・・・などと知ったかぶって解説してもつまらない。「オネーギン」を読み終えて、わたしが思ったのは、ちょうど二百年前の今頃、ロシアの首都近くに新しく作られた皇帝直属の学習院に当の詩人が入学したばかりであったはずだという隔世の感のようなものである。

1799年 誕生
1811年 リツェイ(学習院)入学
1831年 結婚
1833年 「オネーギン」完成 出版
1837年 決闘により死去

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▼小僧の神様

2012年07月02日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 今日もまた「網走まで」を読んだ。四百字詰原稿用紙で二十枚足らずの短い散文だが、志賀直哉の処女作と言われている、この作品を、わたしが最初に読んだのは、おそらく中学生のときか高校生のときの国語の教科書に掲載されていたものであったような気がする。もしくは当時、二軒あった町の書店に学校の帰りにでも立ち寄って、文庫本でも買って読んだのか、はっきりと覚えていない。以来、半世紀近くが経つが、「小僧の神様」や「清兵衛と瓢箪」などの志賀直哉の代表作ともあわせて「網走まで」もまた何度となく読んできたのだが読むたびに、いろいろなことについて感銘が広がっていく。

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▼朝の詩 Ⅱ

2012年06月04日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

2012.06.03 産経新聞

昨日、弟あてに手紙を書いた。無事、投函した。

書くまでが難儀した。

直筆は当然だが、便箋を二つ買ってきた。縦書き用のものと横書き用のものと。

縦書きしなければ、自分が許せないとまで、思い込んでいて、縦書き用の便箋を使ってみたのだが、何度書いても、うまくはいかなかった。文章になっていないのである。

断念した。自分は、もう、生涯正規正当なる日本語は書けないだろうと。

そこで、横書き便箋を取り出した。横書きならば、なんとかうまくいくのである。

一枚だけ、書いて終わりにし、投函した。

寂しい気持ちと、横書きでもいい、ともかく、万年筆を使って、直筆の手紙を書こうと思った。

昨日の弟への横書き手紙は、ささやかな、わたしの詩心の第一報である。

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▼ヴォーカル大好き<中島みゆき>

2012年05月14日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 中島みゆきさんの映画を見てきた。もっと直截に言えば、今日は中島みゆきさんのコンサートを聴いてきた。「歌旅」と題された映画を観てきたのである。中島さんは、わたしに数歳年下のはず。わたしが彼女の歌をしったのは、30年以上も昔のことだ。彼女を語る誰しもが異口同音に言うように、わたしもまた、その歌詞の詩心に驚愕した。彼女の登場は、日本語の新しい発見だった。彼女の歌は、日本の詩であった。コンサートの最後に中島さんが、観客に感謝の意を込めて、一言だけと断って、次のように言い置いた。

同じ時代に生まれてきてくれて ありがとう

間髪を入れず、わたしはスクリーンに向かってつぶやいた。

同じ国に生まれてきてくれて ありがとう

映画館を出ても興奮冷めやらず、多摩川の堤を登戸から溝の口まで歩いて頭を冷やした。

2012.05.14 川崎市

  

 

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▼忘れえぬ人<女優 高峰秀子>

2012年05月07日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 つい先ほど、TVで映画「浮雲」(1955年 成瀬巳喜男監督)が放映されていて、今は見終わったばかりである。主演している高峰秀子さんについては、昨日まで個人的にはあまり好きなタイプの女優とは思えなかったのだが、「浮雲」を観て、その思いが改められた。それまでは、私が観た範囲で言えば、どの映画でも高峰さんは、暗い表情しかしないのだし滅多に笑顔を見せない女優であった。いつも、みけんにしわを寄せて、いやな顔ばかりしている印象が強かった。「浮雲」でも、それはそうなのである。だが、なんといっても、この映画での高峰さんは美しかった。成瀬監督の手腕の賜物といえるだろうし、「浮雲」こそ、女優高峰秀子の最高傑作ではないかと思った。

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▼ヴォーカル大好き<「プラハの春」以後のマルタ・クビショバの歌声>

2012年04月09日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 午前中、なにげなくテレビを見ていたら、あまりよくは知らない土地の知らない歌手の知らない歌が流れていた。東欧のチェコのことであるらしい。「プラハの春」のことは、多少は知っているけれど、その後のチェコの苦難は、ほとんど馬の耳に念仏だった。当時、わたしはちょうど二十歳の時で、日本の共産党の手下になったばかりで、わが青春を謳歌していた。

 番組を見終わり、チェコの人々には、このような歴史があったのかと、われながら忸怩たる思いとともに感銘を深めた。チェコにはチェコの言語があったのだ。親から引き継いだ言語を、他言語から、守ることは普遍的な意味があると思っている。それは日本人の私にもあり、チェコ人の彼女にもあった。マルタ・クビショバは、1942年生まれのチェコにおける一人のポップス歌手だった。現在は70歳になるだろうか。わたしより、たった6、7歳年上なだけだ。やはり、同時代の人なのである。そのことが痛切に感じられてならない。

HEY JUDE(1969年 マルタ 27歳当時)
http://www.youtube.com/watch?v=g9QLFJKqaMw

Rekni Kde Ty Kytky Jsou(2009年 マルタ 67歳当時)
http://www.youtube.com/watch?v=Pho3nE-n8ug

 

 

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▼ヴォーカル大好き<民族独立行動隊の歌>

2012年04月02日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

民族独立行動隊の歌
http://www.youtube.com/watch?v=jXv6y_Hl544

以下、「教育について語ろう21」掲示板より

●投稿者:データン
ふんで、ところで、ネットであれこれ調べている内に、意外な記事に出くわしました。古いことをよく知っている古腹さまなら、ご存じかもしれないと思い質問します。かつて日本共産党もナショナリズムを称揚して居たことがあるそうですね。以下の歌ごご覧ください。どすて、かようにまでもナショナリズムを称揚する立派な歌曲が、共産党員たちの唱歌となっていたのでしょうか。

当時は、党員たちは、口を開けば、この歌を歌っていたとのことだすね。すくなからず、当時は、すなわち1960年代当時のわたすの青春時代には、大切な愛唱歌の一つだったのだった。あせ あせ・・・。この歌のどこが悪のだっつーの。ったく。もっ、今や、誰もも歌わなくなってしまったのだった。

1.民族の自由を守れ
  決起せよ南部(祖国)の労働者
  栄えある革命の伝統を守れ
   血潮には 正義の血潮もて 叩き出せ
   民族の敵 国を売る 犬どもを
   進め 進め 団結固く
   民族独立行動隊 前へ前へ 進め
2.民族独立勝ち取れ
  ふるさと南部工業地帯
  再び焼け土の原と化すな
暴力(ちから)には 団結の実力(ちから)もて 叩き出せ
   民族の敵 国を売る 犬どもを
   進め 進め 団結固く
   民族独立行動隊 前へ前へ 進め

ふんで、古腹さまにお聞きするのだすが、現在の日本共産党における、この歌の扱いやナショナリズムの位置づけはどうなっているのでしょうか? 

それから、古腹様、古腹様。わたすの大好きな、もうひとつの歌曲をご紹介する次第だす。以下だす、以下だす。これら歌も、やはりナショナリズムの謳歌しているとは言えないでしょうか。これらの歌こそ、なによりわたすの大好きな歌だったのであった。これら歌こそ、わたすの戦中さなかの幼少時代に刻印された音楽美学と思想における、第一に特筆すべき名曲の数々であったのだった。

暁に祈る
http://www.youtube.com/watch?v=bjFIeLr7_IQ

 

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▼閏年の二月二十八日

2012年02月28日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 さきほどのニュースでは、明日は東京地方にも雪が降るそうである。今年の冬はひときわ寒くて、散歩するのもままならず、骨身にしみた。おかげで、またぞろ、お腹が出てきてしまった。体重増加を目にするのが怖くて風呂場の入り口においてある、体重計も、電気洗濯機の奥のほうの見えないところに、しまいこんでしまったほどだ。十日ほどまえに、かなり暖かくはなってきたような気がしたのだが、ここにきて、また寒さがぶり返してきてしまった今日この頃である。

 滅多に散歩することもないので、必然、写真も撮っていない。写真については、少々興味が薄れてきたようだ。もっと良い写真を撮りたい気持ちはやまやまなのだが、なんといっても機材の問題がある。良い写真を撮るには高価なレンズが必要だ。金が乏しく、買うことを断念するしかないならば、写真についても、これ以上望むべきものもないという自分を抑制させてくる深層心理が働いているようだ。

 それに、わたしの場合、年末から志賀直哉の本を夢中になって読んでいる。初老者にとって読書は体の毒だとは重々分かっているのだが、久しぶりの読書熱に襲われてしまい、閉じこもり風の日々が続いていたのだ。さらに、あろうことか自分も創作してみたいなどという無謀な願望さえ、湧いてきてしまった。

 志賀直哉の作品には、どういう訳なのか、わたしのような素人にも創作意欲を掻き立ててやまない、いわゆるアマチュアリズムの良質がよく示されている。あるところでは、直哉の文体が、まるで、隣のあんちゃんが、書き記した手紙かなにかのような素朴さがあり、これが読者の誰でもが共感できる著者の心根の誠実さが透けて見えてくるのである。もちろん、作家たるもの計算上のことであるのは、言うまでもないのだが、それがまた読む者に道徳のなんたるかの道筋を立て、教え導いてくれているかのように感じられてしまうのだ。良き書物というものが一般的に持つ、こうした作用こそ、志賀直哉という書き手がまれに見る実直にして正直このうえない人物だとして尊敬に値してくるのである。このことは、わたしばかりが感じたところではないようで、昭和の初期の昔から日本近代文学史上の、ひとつの伝説となっている。

 上手な小説を書くだけの作家なら、明治以降現在に至るも、ごろごろ居たはずだ。爾後、志賀直哉が「小説の神様」と言われている所以の一つは、その文章を持って読者をある道徳的な高みへと誘ってやまない独特な親近性にある。近代の作家の中で、彼ほど、理屈を嫌い、大言壮語を嫌い、装飾を嫌った男はいない。そして感傷を嫌った。そうした手法の中でなお、彼の小説は、いずれもそうだが、幸福に向かって昂揚する精神が横溢しているのである。

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▼小僧の神様 Ⅶ

2012年02月21日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

昨日のこと、散歩途上の書店に入って、なにか面白い本はないかと物色した結果、大江健三郎さんの近著があったので、購入したのである。本の名は、「美しいアナベル・リイ」(新潮文庫 平成11年11月刊行 初版)とあって、まずはその書名の女々しさに、笑ったのだが、その本屋には、こんなものしかないとあきらめ、とりあえずは暇つぶしのためとも思って買い求め、喫茶店に入り込み、しばらくは辛抱して読んでみたのだが、十頁も行かないところで、読みきれず読むことを断念した次第である。

私がいけないのか。それとも大江文学というものが、読んでも読まなくても、どうでもよいようなものなのか。謎は深まる一方である。

文藝というならば、わたしは相変わらず志賀直哉に関する本ばかりを読んですごしている。この幸福な私的な現象は年末から続いていて飽きも来ないのである。志賀直哉に比してみれば、大江健三郎というノーベル賞作家なる男性は実のところ、ただの老人は、私が覚えている限り青年期より閉じこもり系生活を良しとした一種の変態だとしか思えないのである。

文庫本の帯には次のようにある。

大江健三郎版「ロリータ」だ!

これが笑いのもとである。思うに、くだらない。

小説家も、ようするに職人としての良心しか、わたしは認めない。

知識?教養?笑わせないで欲しい。そのまえに生活があるはずだ。たまには、息子の光さんを伴って、夏は川にて水遊び、冬は雪山に上って、雪だるまでも、作ってみればよい。

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▼円本(えんぼん)を買ふ

2012年02月13日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

2012.02.12 神保町
<昭和三年 改造社 現代日本文学全集 第24編 志賀直哉 定価一円>奥付


 夢殿の救世観音を見ていると、その作者というような事
まったく浮かんでこない。それは、作者というものから、
それぞれ完全に遊離した存在となっているようで、それは
また格別な事である。文藝の上で、もし私にそんな仕事で
も出来ることがあったら、私はもちろん、それに自分の名
などを冠せようとは思わないだろう。

             昭和三年二月    直哉

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▼小僧の神様 Ⅱ

2012年01月16日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法


大正7年 35歳の頃・・・集英社文庫「清兵衛と瓢箪 小僧の神様」口絵より

先日、志賀直哉作「小僧の神様」が突然、読みたくなったという話をしたが、さらに続けて他の志賀作品を読み出したら止まらなくなってしまった。唯一の長編「暗夜行路」をさきほど読み上げたところである。志賀直哉のばあい、生涯を通じて寡作だったから全作品といっても文庫本にして5,6冊というところだ。ジャーナリズムを毛嫌いしていたようにも見えないが、闇雲に多作することは、己の文学の価値観に反することではあったようだ。書かなければと、自らに強制するような軽薄な理由が、ほとんど見当たらなかったのである。書くことよりもなによりも、なんやかんやと妻子や友人らと、日々を満たして暮らしていくことのほうが、よほど立派なことだと、わきまえていたらしい。いずれにしても売文という思想的罪悪から、これほど遠かった作家というものを、私は見たことがない。「和解」を読んでいるときは、涙が止まらなかった。本を読んで泣けたのは、久しぶりのことだった。

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