木の削り方には特徴が出るようです...。昨今は削り過ぎ等の失敗を恐れ、また上手にやろう
として、少しづつ削っていくのだそうですが、解体され修復を待つ部材を見た棟梁。この削
り方、心に全く迷いない。何故?どうして?と考えた時、師匠の言葉が分かった気がした...と。
創建当時の職人(TVでは“工人”と)の気持ちになって...。これだけの大事業に関わる職人たち、
適当に誤魔化して...こんな方は皆無だろう。上手くやってやろう...。だったら少しづつ削って
行くはず。この迷いのない削り方、大切な方を無くした等、祈る他ない心境であったのだろう...。
上手にやろう。後世に名の残る仕事をしよう。これだって良い仕事をするに十分な動機。しかし
ながらそれらを越える“不朽”の仕事は、その創建当時における人々がもはや祈る他ない理不尽な
出来事の中でもなお、逞しく生きようとしていた証が垣間見れるものなのかもしれません。
歴史を振り返ったり、まだ見ぬ(現在は生まれてもいない。これから生まれ・生きてく人々)
そんな誰かを想ったり。ここにあるもの“畏れ”であり、この対極にあるのが傲慢さかと思います。
そしてその傲慢さから発せられる副作用が昨今周囲で多々見受けられます...。
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