世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

明智光秀が築城した穴太積みの石垣がその上に再建された天守閣より存在感のある福知山

2009-02-15 17:31:15 | 日本の町並み
 一乗谷は福井から延びる盲腸線の越美北線の沿線で、計画ではかつての越美南線とつながって南北を短絡する路線となるはずでした。一方、北近畿への短絡線として計画され、国鉄末期に工事が始まり、最終的に第三セクターの鉄道として開業したのが福知山と宮津を結ぶ宮福線です。今回は、宮福線の一方の起点、かの明智光秀が初代城主を勤めた城下町の福知山を紹介します。
 福知山は、京都府が兵庫県に食い込んだような形で西に張り出したところにあります。京都府というより、兵庫県のような感じもしますが、それもそのはず明治初期には、豊岡県(兵庫県の北部)の一部だったこともあります。関西から丹後地方や山陰に行く場合には、京都から山陰線を廻るより、大阪と福知山をバイパスする福知山線を経由することが多く、JR線の名称としての知名度の方が高いかもしれません。また事故の記憶も未だ癒えないネガティブな線の名称の一つになってしまったかもしれません。かつて関西から天橋立に行く時は、京都から山陰線で綾部に行き、そこから舞鶴線で西舞鶴に、さらに宮津線に入って天橋立というルートで走るディーゼルカーの準急に乗って行っていました。当時の準急は、京都発の城之崎行きで、綾部、西舞鶴そして豊岡で3度も進行方向が変わった珍しい列車でもありました。宮福線が開通してからは、京都や大阪から福知山を経由し、走る方向を変えることなく、JRの列車がそのまま3セク線を通って天橋立まで直行しています。

 戦国武将の明智光秀は、一般的には負のイメージが強いのですが、地元では福知山の基礎を築いた名将として厚い信望を集めているようです。その光秀が、それまであった横山城を大改築をして出来上がったのが福知山城で、明治の廃城を経て1985年に天守閣が復元されています。天守は復元されたものですが、支えている石垣は穴太衆による野面積みが残されています。穴太衆は、滋賀県の坂本あたりの石積みの技術集団で、安土城跡や彦根城、さらにはおひざもとの坂本に野面積みの石垣が残っています。


 城下町としての雰囲気はさほど残されていないように思いますが、町のそこここに面白い建物や、気持ちのよい町並みが残っています。駅からお城に向かう途中にある市立惇明小学校は藩校を前身とする由緒正しき学校と言うことですが、その本館校舎が昭和初期のモダンな建物で国の登録文化財になっています。丸窓に組み込まれた珊の形がしゃれています。

古い町並みは、お城の北側に残されていて、碁盤の目状の通りと、狭い間口に奥行きの深い家並みが城下町の名残を保っているようです。中でも、松村家住宅は松村組の創始者が自宅として使用していた建物で、府の指定文化財にもなっている建物です。

敷地内には和風の建物と洋風の建物とがあり、内部には入れず外から垣間見ただけですが、明治期を代表するような洋館でした。

筆者の訪問した後、松村組は民事再生法の適用を受け、松村家住宅も不動産会社の手に渡り、一時は解体の危機にあったようですが、その後も不安定な状況が続いているようです。
 
 文化財の保存と言うのは、むつかしい問題が多いように思います。あれもこれも文化財と言うことで、古いものをすべて残していたら、町中が古建築で埋め尽くされて、新しい建物を建てられませんし、行政が所有すると費用も膨大になるでしょう。かといって、すべてを壊して新しくすると、文化も破壊してしまう恐れがあります。線引きのコンセンサスは時代と共に判断が変わるのでしょうが、一度壊してしまったものは基に戻せないということも事実です。建築の、ある特定の分野では古い技術の方が優れていて、現在の技術では作れない建物も多いと聞きます。一方、IT分野では次々と新しい技術が生まれて、古い技術を淘汰しているようにも思います。筆者が研究所に入社した40年前には、大規模な情報伝送には導波管と呼ばれる細い四角の管の中に電波を閉じ込めて伝える技術がさかんに研究されていました。光ファイバも存在しましたが、通信分野ではなくファイバースコープやおもちゃの世界のもので、通信に使えるとは誰も思いもよらなかったようです。ただ、IT分野においても、実現技術や考え方の基礎になるようなところは変わらないように思えますが、えてして軽ろんざられることも多いのかもしれません。