世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

特攻機が飛び去り鉄道は廃線となった加世田ですが疎水沿いの古い町並みが残りました

2014-01-05 08:00:00 | 日本の町並み
 お醤油の醸造工場の旧施設よりもずっと古い町家が軒を並べて連なる町が龍野でしたが、行政上の市の名前は、近隣の町との合併により「たつの市」とひらがな表記です。全国にひらがな表記を含む市は北は青森県の「むつ市」から、南の沖縄県の「うるま市」まで30市近くありますが、今回はそれらの中から鹿児島県の南さつま市にある加世田地区を紹介します。

 加世田は、薩摩半島の南西端にあって、2005年に旧加世田市を核として隣接の町と合併をして南さつま市になりました。太平洋戦争末期には、吹き上げ浜にあった万世飛行場から、東隣の知覧と同様に、特攻隊の飛行機が出撃していった悲しい歴史を持っています。現在は、伊集院と枕崎を結ぶバス路線のターミナルがある町ですが、1984年までは同じ区間を鹿児島交通の枕崎線が走っていました。大正初期の開通で、私鉄としても比較的早くに敷設された鉄道でしたが、乗客数の減少に加えて、台風による被害が止めを刺して廃止に追い込まれたようです。ちなみに、同じ特攻機地があった知覧にも支線が延びていました。加世田は、枕崎線の拠点駅で、車両基地もあったようです。かつての加世田駅はバスターミナルとなり、南薩記念館が建てられて、枕崎線で活躍した機関車などが展示されています。

 
 加世田は、かつては薩摩藩直轄領で12世紀に作られた別府城跡を核とした武家町でした。バスターミナルから南に800mほどの城跡の西側に武家屋敷が連なっていたようで、現在もその遺構が残っています。しかし、小高い丘の上の城跡に上っても石碑が一つ建っているだけで、お城の名残は何もありません。石柱が4本残っていて、これが別府城の遺構かと思ったら、かつて城跡にあった加世田小学校の校門跡でした。小学校は川の対岸に引っ越してしまったようで、校門の石柱だけがポツンと残されてしまったようです。

 
 



 武家屋敷の遺構は、国道を横切っている疎水沿いに集中しており、石垣や植え込み、それに疎水に架かる石橋の向こうには立派な武家門が連なっています。疎水が流れていなければ、隣の知覧の武家屋敷群にも、ちょっと似た風景です。






 
 これらの武家屋敷の一つには、庭に石造りの仁王像が安置されています。かつてあったお寺の門の前にあったものが、お寺は廃仏毀釈で滅亡して、仁王像だけが残ったそうです。ただ口を開けた阿形のみで、閉じている吽形は行方不明だとか。また、別府城のめぐる戦で命を落とした兵士を弔うため島津氏により16世紀に建てられた六地蔵塔という石塔も道端にそれとなく残っています。

 武家屋敷の町並みの中に、しゃれた下見板張りの洋館も建っています。出窓があったり、アーチ状の窓があったりする建物で、一つは喫茶店として利用されているようです。もとは、お医者さんの診療所だったそうで、他の町でも、かつて診療所であった木造洋館を見かけることが多く、お医者さんは町のハイカラさんだったのでしょう。




 南さつま市の河口にあり特攻隊の出撃基地となった吹上浜は、鳥取砂丘、遠州灘砂丘と並ぶ三大砂丘の一つです。砂丘は、川が運んできた砂などが強風で吹き溜まった丘で、日本の砂丘はほとんどが海岸に面したものです。一方、アフリカなどの砂漠では、砂漠の中に砂丘が連綿と続き、日本の砂丘では珍重される風紋はどこにでも見られます。砂丘で困るのは、カメラなどが動作しなくなることです。砂は乾燥しているので、雨のように湿気で電子機器をだめにしてしまうことは無いのですが、細かな砂が風に飛ばされていて、ジャリジャリの砂がメカをだめにしてしまうようです。砂粒には、カメラの中で使われている半導体の原料となるSi(ケイ素)を多く含んでいるのですが。