三島由紀夫の『奔馬』に登場する飯沼勲のように、テロで人を殺めれば、自らも死を選択すべきである。無差別に近い殺戮を実行するというのも、日本人の美意識からすれば、そぐわないものがある。ノルウェーで起きた連続テロの実行犯と日本人は、そもそも文化土壌が違っているのではないか。1960年10月12日、日比谷公会堂で、演説中の浅沼稲次郎社会党委員長を刺殺した山口二矢は、翌月2日に練馬の少年鑑別所で縊死している。17歳の少年であったが、そこまでの覚悟ができていたのだ。それと比べると、今回の犯人は、キリスト教原理主義者といわれていることもあり、神に逆らうような自殺は、最初から考えていなかったのだろう。裁判の場で自らの主張を述べるつもりのようだ。日本人のテロリズムの祖型として、よく取り上げられるのに、明治9年の神風連の乱がある。あくまでも神慮によっての行動であり、人間の意思が介在する余地はなかった。神頼みであったために、建設よりも破壊が優先され、テロに駆り立てた純粋性に目が向けられた。それだけに、おめおめと生き残るのを、もっとも恐れたのだった。政治に暴力が付き物ではあるが、人を大勢殺めながら生きているという神経は、どうしても私には理解できない。
ノルウェーで起きた連続テロ事件は、あまりにも凄惨であるだけに、常軌を逸した狂人の犯行と決め付ける見方があるが、私はそうは思わない。橋川文三が「一般に人間のエネルギーが最高度に発揮されるのは政治的闘争においてである。つまり、カール・シュミットのいう意味で、存在そのものの抹殺を究極の目的とする政治的敵対ー戦争において、人間はまさに生死を賭した力をあらわす」(「テロリズム信仰の精神史」)とみたのは正しい。今回の犯人も、できるだけ多くの敵を抹殺するために、犯行に及んだのであり、明確な政治的主張の持主だったために、あれだけのことをしでかしたのだ。首都オスロの政府庁舎前で爆弾を破裂させたり、与党労働党の青年部集会を襲撃するにあたっても、あらかじめ入念に準備をしており、衝動的な無差別殺人ではない。平和惚けをしている日本人には理解できないだろうが、それこそが政治なのである。ここ半世紀ほどの日本人は、たまたまそうした場面に遭遇しなかっただけだ。今でもイラクやアフガニスタンでは、爆弾テロが横行している。日常的に「政治的敵対ー戦争」状態なのである。いくら私たちが道徳論を振り回しても、テロリストが歯牙にも掛けないのは、それなりの深い理由があるのだ。