明後日は憂国忌である。三島由紀夫の死とは何であったのか。いうまでもなくそれは、日本人の魂が腑抜けになったことへの苛立ちであった。日本学生新聞社編の『回想の三島由紀夫』に収められた保田與重郎の「天の時雨」を読んでいて、なおさらその思いを強くした▼保田の「三島氏は人を殺さず、自分が死ぬことに精魂をこらす精密の段取どりをつけたのである。人を殺さずして巨大機構を根底でゆり動かした」との見方は、三島の死の本質を突いているのではないだろうか。さらに、日本浪漫派の巨匠は「三島氏は壁につき当ったのではなく、好んで激突したのでもない。その人自身が壁だった。壁は玉であって、玉は玉砕するゆゑに尊しといふ、東洋五千年の文明観の精髄をその身にしてゐたと思はれる。石は破れるが、玉は砕ける。これが生命観とか霊魂観を象徴する。この考え方は、極く美的である」と批評したのである▼「玉は砕ける」から後世に語り継がれるのである。自らが死ぬことで、誰しもの心に響く言葉を残したのである。あの檄文の「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか」との悲痛な叫びは、今も日本中に響き渡っている。とくに未曽有の危機が迫っている祖国を守り抜くためにも、今こそ三島の精神を思い起こすべきなのである。
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