♪ラジオ放送・文字版「世の光」

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PBA『世の光』を文字で 

■十戒 -自由への励まし81 姦淫してはならない / 大嶋重徳

2018年11月22日 | Weblog
2018/10/18放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。十戒第七戒には「姦淫してはならない。」(出エジプト記20章14節 新改訳2017)とあります。

 では神様はなぜ姦淫の罪を禁じられたのでしょうか。そしてこの罪を犯すことはどのような結果を私たちの生活にもたらすことになるのでしょうか。

 驚くべきことは第七戒は第六戒の「殺してはならない」に続いて、第八戒の「盗んではならない」よりも先に語られているという事実です。誰もが当然のごとく悪とされる「盗んではならない」よりも先んじて語られるほど、キリスト教信仰では「姦淫してはならない。」は重要視されているのです。

 この重要性の理由は、姦淫は神様に対する裏切り行為となるからです。神様はご自身のかたちに似せて人を造られ、男と女として神様のかたちを表しています。夫婦とされた男女の愛は三位一体の神の前に似せられて、神の愛を基盤にして神の愛を地上に表現するためのものなのです。

 また旧約聖書のマラキ書では、神様は若い時の妻との結婚の際に愛の証人と立っておられると記されています。若い時の妻を裏切る者に対して、幾ら神礼拝を捧げ、祈りを神様になしたとしても神様はその礼拝を受け取ることはしない、と明らかにされています。ここでは神様を礼拝することと自分の夫や妻を愛する事が密接に繋がっているのです。つまり、人生の伴侶を裏切ったり泣かせたりする者は神を愛することとはなっていないのです。礼拝を捧げ、神様を愛しますと言ったとしても、家に帰り、自分の妻を、自分の夫を大切にしないのであれば、その礼拝は口先だけのこととなるのです。このように姦淫の罪を犯すということは神の備えられた礼拝をも汚すこととなり、愛し合う者として造られた神の創造を裏切る行為を行う罪となるのです。

 聖書のいたるところで神とイスラエルの関係や神様と教会の関係が男女の愛で表現されているのは単なる比喩でも喩えでもありません。黙示録には世界の最後、私たちはキリストの花嫁となると書かれています。文字どおり私たちは神との関係において純潔を保ち、神を待ち望むのです。神様と私たちの関係は、自らの夫婦の関係の誠実さにおいて根本的な意味を持っています。その意味でも私たちは今日も妻を愛し夫を愛し神を愛する者とさせられたいのです

    ( PBA制作「世の光」2018.10.18放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


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