♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■神の恵みに生かされ続ける / 岩井基雄

2018年08月20日 | Weblog
2018/7/16放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいます。

 神の民イスラエルの人々は神様から与えられた律法という神のルールに従い歩んでいました。そしてその律法を軽々しく破らないためにその律法の周りに細かい規定を設け、自分たちで守る人間のルールを決めていたのです。本来は神のルールを守るためにという目的だったのでしょうが、世代を経るごとにそれは積み重なり、次第に人々を縛る重荷になっていたのです。

 ある時、イエスの弟子たちが宗教的な儀式としての手の洗いをせずに食事をしているのを見咎めたユダヤの指導者・パリサイ人たちはイエスを攻撃し始めます。自分たちが定めたルールをきちんと守らずに食事をした弟子たちを放置していると考えたからです。それに対しイエスは、彼らを偽善者と呼び、旧約聖書のイザヤ書から、「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マルコ7:6、マタイ15:8、参照イザヤ29:13)とのことばを引用した後、こう語りました。
 「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。
 新約聖書マルコの福音書7章8節

 パリサイ人たちが律法を守るために、その周りに定めたルールは本来、律法を守るためでした。しかしいつの間にか自分たちの権威を振りかざし、人々を支配し、従わせる道具になってしまっていたのです。「神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」、とキリストに非難された彼らは、本来の恵みに満ちた神のルール、すなわち神と人とを心から愛し、互いを喜び、共に神の愛の中を生かされる歩みを取り戻す必要があったのです。

 キリストが彼らに語られた「偽善者」ということばは、時に私たちの姿をも示してはいないでしょうか。自分を誇り、プライドにしがみつく高慢なあり方は容易に私たちの心にすべりこんでくるからです。

 神様の恵みと愛に溢れたルールを聖書から学び続け、砕かれた心で周りの方々を喜び、共に歩む、そんな人生を歩み続けて行きませんか? キリストはあなたのすべてを御存知で、あなたの弱さや罪を示し、そして本来のあなたの姿して神の愛と恵みに生かされる歩みへと導き続けてくださるのです神はあなたを愛し導いてくださいます。

 PBA制作「世の光」2018.7.16放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神を喜び、神に信頼する / 羽鳥頼和

2018年08月18日 | Weblog
2018/7/14放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は旧約聖書詩篇33篇からお話しします。

 詩篇は神を誉めたたえる讃美歌を集めた歌集ともいうことができます。33篇はその讃美歌の一つです。33篇のテーマは、私たちは神を喜び神に信頼する、という告白です。

 33篇21節でこのように語られています。
 「まことに 私たちの心は主を喜び 私たちは聖なる御名に拠り頼む。

 33篇は人が神を喜び神に信頼する三つの理由を語っています。

 人が神を喜び神に信頼する一つ目の理由、それは4節で、
 「まことに 主のことばは真っ直ぐで そのみわざはことごとく真実である。
 と語られています。

 「みわざ」とは神の行い、神の働きのことです。33篇は神のことばとみわざについて、まず神がすべてのものを造られた神の創造のみわざのことを語ります。神はことばによって、すべてのものをつくられたのです。そして9節で、「主が仰せられると そのようになり 主が命じられると それは立つ。」と語っています。神のことばは必ずその通りになるのです。それが人が神を喜び神に信頼する一つ目の理由です。

 二つめの理由は、11節で語られている、「主のはかられることは とこしえに立ち みこころの計画は 代々に続く。」ということです。
 これは神のご計画は完璧で変わることが無いということです。特に神の救いの計画は完璧で変わることが無い確かなものです。神は神を信じる者を必ず救ってくださるのです。これが神を喜び神に信頼する二つ目の理由です。

 三つ目の理由は、18節で語られている、「 主の目は主を恐れる者に注がれる。」ということです。神は、神を信じる者をいつでもどこにいてもしっかりと見守り、心に留めてくださっています。これが神を喜び神に信頼する三つ目の理由です。

 私たちも神を喜び神に信頼する者となりましょう。
 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2018.7.14放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■心配するな② / 関根弘興

2018年08月17日 | Weblog
2018/7/13放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

イエス・キリストがお語りになったことばを最初に紹介しましょう。
 新約聖書 マタイの福音書6章34節 

 「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。
   明日のことは明日が心配します。
   苦労はその日その日に十分あります。

               (新改訳2017)
 
 イエス・キリストは、明日のことは心配するな、とお語りになりました。でも私たちはいろいろな事に心配し、たくさんの思い煩いを抱えて悩み苦しんでしまうことがよくありますね。イエス様はそんな一人ひとりに、「空の鳥をみなさい。野のゆりを見てご覧なさい。」とお語りになったんです。身の回りにある自然の一つ一つの営みを観察して、ようく考えてご覧なさい、と言われたんですねえ。

 私の友人が海外青年協力隊の隊員としてケニアに行きました。しばらくして手紙が届いたんです。そこにはこう書かれていました。「ある日、仕事中にふと空を見上げてみました。青い空そして白い月がありました。夜空の月でさえろくに見たこともなかったのに、月がこんなに美しいとは知りませんでした。イエス様は「空の鳥を見なさい。」とも、「ゆりの花のことを考えてみなさい。」ともおっしゃいました。よく見れば、なるほど花一つとってもソロモン王の栄華よりも優っていると例えられているほどの美しさです。野の花、鳥たち、そして一羽の雀さえもこれほど良くしてくださる方が、まして私たちにどれだけの思いを懸けていてくださるのかを恩知らずにも今まで気付いていなかったような気がしました。そして本当に何も恐れることや心配することなどないのだと思いました。

 こんな手紙だったんですね。私たちは自分自身や目の前の問題を見ては心配したり悩んだりすることは多いんですが、目をあげて空の鳥や野の花を見回してみませんか? 偉大な神様がおられることを思い起こすことができます。そしてこの神様が「心配するな」とおっしゃるんですから安心でありませんか。

 今日、窓上から聞こえる鳥の声に耳を傾けてみませんか? 野の花を見てその小さな花の美しさに思いを寄せてみませんか? そして神様が私の人生も大切に育んでいること信じ一日をスタートして行きましょう。

  (PBA制作「世の光」2018.7.13放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし 67 / 大嶋重徳

2018年08月16日 | Weblog
2018/7/12放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。 十戒をはじめとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。
 十戒第六戒には「殺してはならない。」(出エジプト記20章13節 新改訳2017)とあります。殺人は人が神の場所に立つことになるということを見てきました。それと同時に殺人は神御自身の性格に真っ向から反する行為となります。創世記においていのちの木の実を指して神様は、「取って食べてならない。それを食べるとき必ず死ぬ。」という約束を人間に与えられました。しかしその約束を破ってしまったアダムとエバにエデンの園の追放という神様との交わりの断絶がありました。必ず死ぬという神の約束は、神からの交わりの追放、霊的な死というさばきで行われたのです。

 しかしその一方で、肉体のいのちは保たれました。なぜでしょうか。それは神様のご性質が人間アダムとエバの霊的いのちの回復を願っておられたからです。そして人間の肉体が死なないようにと、皮の衣を着させてくださいました。生きている間に神様といのちの交わりが再び回復することを、神様は望まれ続けられたからです。そして神様は、イエス・キリスト御自身の十字架をもっていのちがけで、人が神とのいのちある交わりの回復に生きられるようになさいました。
ここに神様の御性質である、人を生かそうとされる回復の行為があります。神様は今もすべての人と霊的な関係の回復を願っておられます。関係回復のために全力で私たちに愛を示しておられるのです。

 しかし殺人はこの肉体的ないのちを奪いとります。殺人が起こってしまうなら、そのいのちが神様との交わりの回復を妨げることとなります。神様の願ってかられる関係を再び回復することのできない破壊をもたらしてしまうのです。

 なぜ殺してはいけないのか。いのちを管理しておられる神様が、地上において神のなそうとされている霊的ないのちの回復の道を閉ざすこととなるからです。第六戒の違反はわが子キリストのいのちをかけてまでなそうとされた私たち人間の霊的な回復を真っ向から否定する神様の悲しみをもたらす行為であることは言うまでもありません。殺人は、人が神との交わりの回復がもうできない場所に置くことになるからです。あなたのいのちも神様殿との交わりの回復のために、神様が力を尽くそうとされています。私たちのいのちに生かされている今の内に、イエス・キリストのもとへと帰っていこうではありませんか。

    ( PBA制作「世の光」2018.7.12放送でのお話しより )

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■苦しみを聞き入れられた / 福井 誠

2018年08月15日 | Weblog
2018/7/11放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「苦しみを聞き入れられた」です。 創世記16章11節から読んでみましょう。
主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。」(新改訳2017)

 今日は創世記に描かれたハガルの人生を考えて参りましょう。ハガルに起こった出来事を知ると、本当にかわいそうだというか、人生って何なのかなあと思うところがありますねえ。ハガルは創世記の中では完全に脇役です。しかも御主人のアブラムとその妻サライの人生に振り回されたさんざんな出来事に遭遇しますねえ。今の日本では考えられませんが、当時は跡継ぎが欲しいのに子どもが生まれなかったのなら、奴隷に子どもを産ませて跡継ぎにするという考え方がありました。アブラムの妻サライは奴隷のハガルを選びました。そしてハガルはイシマエルという子どもを御主人のアブラムとサライさんのために産んだのです。

 ところがその後、ハガルは御主人の妻サライを軽く見るようになってしまったので、ハガルはいじめ抜かれて結局、子どももろともに家を追い出されてしまうのですねえ。当時働く術のない女性が一人で子どもを抱えて追い出されるというのは、もう死ぬしかないという状況でした。ご主人の妻サライを軽く見た報酬が、余りにも手厳しい。そもそも考えてみれば、アブラムとその妻サライの都合に振り回された結果ではないか。何とも不条理な、と思う所ですねえ。ただ彼女が奴隷であった以上、その立場を超えることはやはり当時は赦されなかったのです。当時の時代によっては当然の報いだったのでしょう。

 けれどもどうでしょうか、私たちにはそんなことはよくあるものですね。人間というのは本当に愚かな者で、未熟さのゆえにいろいろと失敗してしまうものです。そして失敗したあげくに取り返しのつかない結果を刈り取る。つまり、ハガルのように煮え湯を飲まされることもあるでしょうね。

 でもそんな時にこの箇所をもう一度よく読んで欲しいのです。神様はそんな愚かなハガルのこともちゃんと心に留めて、良くしてくださっていますね。人が見捨てても神様は決して見捨てられないお方です。不条理な結果を刈り取った、もう自分の人生はだめだ、と思う時にこそ神様の配慮があることを信頼して参りたいものですね。

(PBA制作「世の光」2018.7.11放送でのお話より )

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■故郷の言葉で / 板倉邦雄

2018年08月14日 | Weblog
2018/7/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「故郷(ふるさと)の言葉で」という題でお話ししましょう。
 
聖霊降臨の出来事はイエス・キリストの弟子たちや信徒たちにとって衝撃的なことでした。激しい風が吹いてきたような音と舌のよなものが炎のように分かれて現れ、弟子たちと信徒たちの上にとどまったからです。使徒の働き二章の続きです。

 さてこの出来事は過越しの祭りから50日目の収穫祭の時でしたので人出は大勢でした。聖霊降臨の物音を聞いた巡礼者たちが集まってきたのです。信仰深い人たちはあっけに取られてしまいました。更に、「驚き怪しんだ」と聖書に書いてあります。それは弟子たちが、自分たちが生まれたふるさとの国語で話していたからです。互いに顔を見合わせながら言いました。「今話しているこの人たちはみなガリラヤ人ではないか。しかも多くは漁師たちではないか。それなのに私たちがそれぞれ生まれ故郷の国語を彼らから聞かされるとは一体どうしたことなんだ。」 巡礼者の中にはメソポタミア地方、カッパドキアの小アジア地方、エジプト、それにリビアの地方から来ていたユダヤ人たちでした。ローマからの巡礼者といった具合に当時の全世界から集まっていたのです。それがどうでしょう、それぞれの生まれ故郷のことばで神様の話を聞くことができたのです。ですから聖霊降臨の出来事はバブルの塔で混乱した言語が再び一つにされていく時だったのではないでしょうか。ことばが分からなければ心の交流はできません。聖霊は様々な異なる言語や文化を越えて、私たちの心に一致を与えてくださるのではないでしょうか。

 同じことばを語りながらお互いを理解することが困難な時代になってきました。理性を持って互いに話し合うことができなくなりつつあります。顔中、口だらけの怪物が自分の主張だけををオームのように繰り返すだけになってきました。天の神様からの聖霊を注いでいただき、お互いが理解できるふるさとのことばで話したいものです。

   (PBA制作「世の光」2018.7.10放送でのお話より )

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■愚かな者をも憐れまれる主 / 岩井基雄

2018年08月13日 | Weblog
2018/7/9放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 第二週の月曜日は旧約聖書に登場するヨセフの人生について学んでいます。

 私たちは様々な失敗をしますねえ。聖書は人間の弱さを隠しません。通常であれば歴史から消されかねない王様の罪や過ちをも隠さないです。弟ヨセフを妬みエジプトに売り飛ばすことを提案したユダも失敗の多い人でした。

 ユダの長男と次男が次々と亡くなる中、本来ならば三男に嫁がせるべき長男の嫁タマルを三男の死を恐れて嫁がせません。更にはユダ自身が、遊女のなりをしていた嫁タマルと知らずに関係を持ってしまうのです。ほど無くタマルの妊娠が分ると、ユダはタマルに死を宣告します。しかしタマルはその子が舅ユダによることを明らかにします。ユダは自分の罪を認め、神様の前に出るのです。

 この後ユダが、大飢饉が続く中、穀物を求めて末の弟ベニヤミンと一緒にイスラエルからエジプトに下る直前、父ヤコブに、いのちを懸けて末の弟の責任を負うことを誓います。ヨセフを売り、父を騙したユダでした。父の悲しみをも知る中、ヨセフの実の弟ベニヤミンを守るとの約束はユダの心の変化、悔い改めをも表していたでしょう。エジプトの大臣ヨセフと共に豊かな食事をし、穀物を買い戻る途中、兄たちは大臣の銀の杯を盗んだと疑われます。それはヨセフの策略でした。ユダたちは自分たちの潔白を示すために、その杯を持っていた者の死と兄弟全員が奴隷となることを宣言します。しかし、銀の杯はベニヤミンの袋から発見されてしまったのです。全員でエジプトに引き返した後、ユダは兄(たち)の代表としてヨセフの前に出ます。ユダはヨセフに、父ヤコブの悲しみの深さを伝え、ベニヤミンを連れ戻さないと父は死ぬと語ります。そしてベニヤミンを助けるべくこう語るのです。
 「どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。
            旧約聖書 創世記44章33節

 失敗を重ねたユダでした。しかし兄弟の罪を代表して受け、自分を犠牲にする砕かれたユダの姿がここにあります。主はこのユダの子孫の中にダビデ王を、そして救い主キリストをも誕生させるのです。

  PBA制作「世の光」2018.7.9放送でのお話しより)

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■大きな祭壇 / 羽鳥頼和

2018年08月11日 | Weblog
2018/7/7放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は旧約聖書ヨシュア記22章からイスラエルに起こった分裂の危機とそれがどのように解決されたのかをお話しします。

 イスラエルは神が与えると約束してくださったカナンの地を手に入れることができました。カナンの地での戦いが終わり、約束の地を支配することができると、一緒に戦っていたルベン族、ガド族そしてマナセ族の半分は自分の相続地であるヨルダン川の東側に戻ることになりました。イスラエルが約束の地を手に入れる戦いを始める時、この3部族はヨルダン川の東側を自分たちの相続地として既に手に入れていました。そんな彼らに、神は西側の土地を手に入れるために他のイスラエルの部族たちと一緒に戦うように命じられました。彼らは神の命令に従って戦いました。約束の地を手に入れることができた時、指導者ヨシュアは3部族が神の命令に忠実であったことを誉めました。そしてこれからも神に忠実であるようにと命じて、彼らをヨルダン川の向こう側へ送り出したのでした。

 東側に渡った部族はヨルダン川のほとりに大きな祭壇を築きます。ところがその祭壇を見た西側の人々は、彼らが神の戒めに反して神を礼拝する所を勝手に作ったと思ったのです。彼らはヨルダン川の東側の人々を裁くために戦いの準備をしました。しかしその前にまず祭司を中心とした調査団が東側に派遣されました。調査団は彼らが神の戒めに逆らって自分たちで礼拝する所を決めてしまったのではないかと問い正しました。

 この話し合いの中で、彼らの間にあった誤解は解かれました。東側の人々はその祭壇のことを「これは私たちの間での主が神であることの証だ」と言いました。東側の人々は自分たちだけのことを「私たち」と言ったのではなく、東西の人々すなわちイスラエル全部族のことを「私たち」と言ったのです。

 こうしてイスラエルは住むべき土地が与えられ、民族としての一致・絆が与えられました。どんなに離れていても神を信じる者たちには神による一致・絆が与えられます。

 明日は日曜日です。神を礼拝するために、お近くのキリスト教会にいらしてください。
 (PBA制作「世の光」 2018.7.7放送でのお話より )
 
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■心配するな① / 関根弘興

2018年08月10日 | Weblog
2018/7/6放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

イエス・キリストは人々に、
 「明日のことまで心配しなくてよいのです。
   明日のことは明日が心配します。
   苦労はその日その日に十分あります。

         (マタイの福音書6章34節 新改訳2017)とお語りになりました。
 私たちはいろいろと心配しながら過ごしていることが多いですね。でもイエス様はそうした心配に対して、どのように対処したらよいのかを教えてくださったのでしょう。

 まず誤解しないでいただきたいのは、イエス様は心配は一切してはいけないということを言ってるわけではありません。心配とは心を配ると書きますよねえ。いろいろなことに心を配る事、配慮することは、毎日の生活に必要なことです。

 例えば、家族の健康を心配して体に良い食事を用意するとか、体調が悪ければ心配して健康診断を受けたり診察してもらう。これはいい事ですよねえ。例えば山登り、登山をするときには前もって地図でルートを確認して天候を調べて万全の準備をして登る必要がありますよね。

 もし、いやイエス様は明日のことは心配するなと言われたのだから何の準備も必要ない、と考えならそれは無謀なだけなんです。またイエス様が、衣食住のことは心配するな、と言われたから働かなくても良いんだと考えるのはこれは無責任なわけですね。イエス様は私たちに、無思慮そして無責任、無分別になることや将来の計画を立てずにその日暮らしの生活をすることを勧めておられる訳ではありません。

 ではイエス様が、心配してはいけません、と言われるときの心配とはどのようなものなのでしょうか。それは私たちはいろんな恐れや不安を持ちますね。でもそうした恐れや不安で心を縛られて喜びや自由や希望、そういうものが失われてしまうような心配もあります。そういう心配は、そうですね思い患いと言い換えても良いかもしませんね。

 聖書の中にはこう書かれています。第一ペテロの手紙5章7節 
 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
  神があなたがたのことを心配してくださるからです。


 聖書はあなたのことを心配してくださり、心を配ってくださる神様がいてくださるんですよ、と教えているんですねえ。だからこの方に人生を委ね、お任せするという態度をまず備えていくこと、それが心配に対する最初の備えなんですね。

  (PBA制作「世の光」2018.7.6放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし 66 / 大嶋重徳

2018年08月09日 | Weblog
2018/7/5放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。 十戒をはじめとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。
 十戒第六戒には「殺してはならない。」(出エジプト記20章13節 新改訳2017)とあります。本当に人を殺してはならないのか、という問いを持つとき、神様を抜きにして考えることはできません。

 戦争が肯定される意見が世の中にあります。死刑制度もまたそうでしょう。奪わないといけない命があると声高に叫ぶ人たちがいます。しかし私たち人間はそれぞれ自分で自分のいのちを所有しているのでありません。私たちのいのちは、私を造り、私を神様との交わりの中に常に置いておられる神様が所有されているのです。

 いのちの管理者が神様であることを思うときに、生殺与奪(せいさつよだつ)は神様のなさることであり、殺すということは神様と等しい位置に立つことを意味することとなります。まさに殺人は人間を神様の立っておられるポジションに立たせることとなります。殺人は何より人のいのちの所有者である神様に対して神を神とすることのない十戒第一戒の違反であり、神様のものであるいのちを神様から盗む第八戒の違反でもあるのです。

 人が人を殺すことのできる理由を得るために人が神様のようになってきた歴史があることを忘れてはいけません。神の名を語り戦場の兵士たちを励ましてきたこともキリスト教会にはあります。ゴッド・ブレス・ユー(「神の祝福があなたにありますように」)と戦意を駆り立て、神様の名の権威のもとにいのちを奪うことを正当化してきた人間の歴史です。日本では神国日本のもとに戦争したことがほんの七十数年前にありました。そしてそれはアジアを解放するための正義の戦争だとされたのです。今も世界中で、あらゆる宗教の神の名のもとに青年たちがそのいのちを奪われていく現実があります。正義の名前を用いながら殺されていくいのちがあるのです。しかしこの世界で殺されて良いいのちなど一つもないのです。

 私たちは今朝も共に祈りたいと思います。殺されそうになっているいのちがあるならば、この瞬間も神様の守りの中にあるようにと。人間が神様の立場に立って愚かな判断をすることが無いようにと。平和な世界が訪れ、神様によって与えられたそれぞれの良いものが生かされて生かし合って、いのちが尊ばれていく社会になっていくようにと祈りたいと思うのです。

 第六戒を学んでいく中で、私たちに必要な姿勢は祈りです。あなたもぜひ祈ってください。あなたの平和のためにも私も祈っています。

    ( PBA制作「世の光」2018.7.5放送でのお話しより )

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