2021.4.1放送
「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。キリスト教会のカレンダーでは、今週はイエス・キリストが十字架につけられたことを覚える受難週で、今度の日曜日はイエス・キリストが、死からよみがえられたことを記念するイースターを迎えます。そこで今週は、ご一緒に聖書から「死」と「復活」ということについて考えていきましょう。
イエス・キリストは十字架につけられ、葬られ、三日目に復活された。これは、聖書が教える素晴らしい知らせ、福音です。もしイエス・キリストが、十字架で死んですべてが終わりであるなら、イエス・キリストのことばにはなんの説得力もありません。しかしもしイエス・キリストが言われた通り、「わたしを信じる者は死んでも生きる」というなら、そこには死を乗り越える希望というものが生まれてきます。
私たちは、このいのち、永遠に続くとは誰も考えていません。いつかは必ず過ぎ去ります。ですからどんなに華やかな人生であってもいつかは朽ちていくわけですね。しかしもし聖書が約束しているように、このいのちを超えたいのちがあり、永遠の天の御国があるとするなら、希望を見つめて生きていくことができると思いませんか?
私は小さい頃、銅山で有名だった足尾町に住んでいました。私は牧師の家庭に育ち、教会の中に住んでいました。教会の隣には大きな墓地がありました。そこには、町の名士の方の立派なお墓が建っていました。そしてその墓には、その方の辞世の句が刻まれていたのです。こんな句です。
「行く先の 知れぬ旅路や 衣替え」
「行く先」っというのは、自分が死んだ先という意味です。自分が死んだ先はどうなるんだろう、死んだ先の旅路はどうなっているんだろうという句です。これはとても正直な思いがあらわされている句だと思うんですね。
しかし、その立派なお墓の斜め後ろに、あるクリスチャンの墓が建っていました。そこには文語訳聖書で、ヨハネの福音書11章25節のイエス様のことば「我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。」と側面に刻まれ、正面には、「我らの国籍は天にあり」(ピリピ人への手紙 3章20節 )と刻まれていました。
天にまでつながり、死を乗り越えるいのちがあるからこそ、そこに大きな希望が生まれていくのです。
(PBA制作「世の光」2021.4.1放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。