♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して66年の
「世の光」を文字で 

■人の当然を超える神の当然 / 大嶋重徳

2018年05月03日 | Weblog
2018/3/29放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
今週から二週続けてイースターの特別メッセージになります。イースターとはイエス・キリストの復活を祝う日のことです。キリスト教信仰の核心である主イエス・キリストの復活の出来事を通して私たちに与えられている希望について教えられたいと願っています。
 さてルカ福音書では十字架にかかって死なれたイエス・キリストの葬りのために集まった女性たちが出てきます。悲しみのただ中にあった彼女たちは、淡々とすればするほど悲しみがより深いことが伝わってきます。ところがその深い悲しみが一気に破られる時が来ます。見ると石が墓から脇に転がしてあった。入ってみると主イエスの身体はなかった。更に驚くべきこととして、ここにまばゆいばかりの衣を着た二人の人が現れます。この主の使いは二つのことを語ります。

 一つは、「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ福音書 24章5節、6節 新改訳三版)と語り、もう一つは、「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」と語りました。(ルカ福音書 24章6節 新改訳三版)

 一つめの、「十字架で死なれた主イエスはここにおられない、よみがえられた」にはキリスト教信仰の中心があります。イエス様の身体を誰かに盗まれたとか墓を間違えたとか、人間が想像するような可能性には一切触れられず、さも当然のことであるかのように、イエス・キリストがいる訳ないではないか、キリストはよみがえられたのだから、と答えているのです。この人間的に考えるとあり得ない驚くべき出来事が、神にとっては当然の出来事として現実に起こった所にキリスト教信仰の拠って立つ土台があるのです。

 ここで考えたいのは神の当然と人の当然についてです。私たちは人間の考える限りの理性で納得したい、把握したい、理解したい、と思います。これは人の当然です。しかしここで神の当然はその理性を軽々と飛躍するのです。そしてその飛躍を私たちに求めるのです。人間が探しても見つからない所に神はおられる。人間の当然を超越する神の当然。この神の超越こそ人の死の悲しみを超える神の奇跡となります。キリスト者には死は永遠に続く悲しみとなりません。なぜならばよみがえり再び再会できる神の力が私たちにも及ぶからです。当然悲しい人間の死のただ中で、神の復活の力の中を生かしてくださる神の当然が私たちの人生の当然にも介入して来るのです。
 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ福音書11章25節 新改訳2017)と仰せになる方を信じていきたいと思います
 
   ( PBA制作「世の光」2018.3.29放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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