2018/4/6放送
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
イエス・キリストは何の罪も犯した訳でもないのに十字架につけられました。イエス・キリストが十字架につけられた時、その両脇には犯罪人たちも十字架につけられていました。その犯罪人の一人は苦しみの中で「イエスよ、おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」(ルカ福音書23章39節 新改訳2017) とわめき散らしました。
「聖書はすごく良いことが書かれているんだけど、でもイエス・キリストが復活したという話は信じられない!」 このようにおっしゃる方は時々いますね。それではイエス・キリストは復活されたということは、なぜそんなに重要なことなんでしょう。それはイエスをが復活されたという事実によって私たちに三つのことが保証されているということなんです。
一つは、復活の事実はイエス様の語られたことばの確かさを保証するということなんですね。人の真実さや誠実さはその人のことばと行動を調べればよく分ります。イエス・キリストは何度も、「わたしを信じる者は決して滅びことが無い。」と言われました。そしてイエス様は「わたしは殺されるが三日目によみがえる。」とも語っておられました。ですからもし復活が無いなら、「なあんだ、イエスは生前立派なことを語ったけど、何一つ実現していないではないか!」で終わってしまうわけですね。ですからイエス様が復活された事実によって、イエス様の語られた約束のことば全てが確かであるという事の保証となっているんです。
二番目は、復活の事実は朽ちることのないいのちを保証するということです。イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11章25節 新改訳2017)と語られました。イエス・キリストは死を打ち破るいのち、死を超えていく復活のいのちがあるのだと言われたんですねえ。
私は牧師をしているので時々臨終に立ち会うことがあります。この世の別れは辛いものです。悲しみをもたらします。しかし死は全ての終わりではないという事を復活の事実を通して知ることができるんです。
そして三番目、復活の事実はイエス・キリストが今も生きているということを保証するということです。聖書の黙示録という所には、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節 新改訳2017)とキリストのことばが語られています。復活されたイエス・キリストは今も生きておられて、私たち一人ひとりの心の扉をノックしてくださっているというんですねえ。死を打ち破られた生けるまことのキリストは、今もここにいてくださいます。ですからもし復活を否定してしまうなら、聖書自体が語る約束は単なるたわごとになってしまうんです。信仰はむなしいものになってしまうんです。(1コリント 15章14節、19節参照)
ですから復活は信仰の中心ですし、復活を信じる信仰こそ聖書が求める信仰なんです。
(PBA制作「世の光」2018.4.6放送でのお話しより)
***
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
イエス・キリストは何の罪も犯した訳でもないのに十字架につけられました。イエス・キリストが十字架につけられた時、その両脇には犯罪人たちも十字架につけられていました。その犯罪人の一人は苦しみの中で「イエスよ、おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」(ルカ福音書23章39節 新改訳2017) とわめき散らしました。
「聖書はすごく良いことが書かれているんだけど、でもイエス・キリストが復活したという話は信じられない!」 このようにおっしゃる方は時々いますね。それではイエス・キリストは復活されたということは、なぜそんなに重要なことなんでしょう。それはイエスをが復活されたという事実によって私たちに三つのことが保証されているということなんです。
一つは、復活の事実はイエス様の語られたことばの確かさを保証するということなんですね。人の真実さや誠実さはその人のことばと行動を調べればよく分ります。イエス・キリストは何度も、「わたしを信じる者は決して滅びことが無い。」と言われました。そしてイエス様は「わたしは殺されるが三日目によみがえる。」とも語っておられました。ですからもし復活が無いなら、「なあんだ、イエスは生前立派なことを語ったけど、何一つ実現していないではないか!」で終わってしまうわけですね。ですからイエス様が復活された事実によって、イエス様の語られた約束のことば全てが確かであるという事の保証となっているんです。
二番目は、復活の事実は朽ちることのないいのちを保証するということです。イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11章25節 新改訳2017)と語られました。イエス・キリストは死を打ち破るいのち、死を超えていく復活のいのちがあるのだと言われたんですねえ。
私は牧師をしているので時々臨終に立ち会うことがあります。この世の別れは辛いものです。悲しみをもたらします。しかし死は全ての終わりではないという事を復活の事実を通して知ることができるんです。
そして三番目、復活の事実はイエス・キリストが今も生きているということを保証するということです。聖書の黙示録という所には、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節 新改訳2017)とキリストのことばが語られています。復活されたイエス・キリストは今も生きておられて、私たち一人ひとりの心の扉をノックしてくださっているというんですねえ。死を打ち破られた生けるまことのキリストは、今もここにいてくださいます。ですからもし復活を否定してしまうなら、聖書自体が語る約束は単なるたわごとになってしまうんです。信仰はむなしいものになってしまうんです。(1コリント 15章14節、19節参照)
ですから復活は信仰の中心ですし、復活を信じる信仰こそ聖書が求める信仰なんです。
(PBA制作「世の光」2018.4.6放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。