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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■謙遜 / 関根弘興

2016年04月04日 | Weblog
2016/4/4放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 
 今日も新約聖書の中のパウロが記したエペソ人への手紙の中のことばを紹介しましょう。エペソ人への手紙4章2節(、3節)
 「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
 
 パウロはここで最初に「謙遜」ということばをあげていますね。実はギリシャの世界では「謙遜」ということは決して美徳を表すことばではなかったようです。「謙遜」と訳されるこのことばは原文では「低いもの」ということばと「思い」ということばが組み合わされて作られたことばだそうです。「低いもの」とはギリシャの世界では軽蔑された卑しい身分を表しました。そこで、「卑しいことを考える思い。奴隷根性」という意味合いで謙遜ということばが使われていたそうです。
 しかし聖書は、人の歩み方の最初に「謙遜」をあげたんですねえ。つまり教会は、当時の世界では全く魅力的でないことばである「謙遜」ということばをクリスチャンの振舞いの筆頭にあげたんです。

 いったいそれはどういうことなのでしょう。イエス・キリストはこう言われました。
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ 5章3節)
 こう語られたんですねえ。これは、自分の力ではどうにもならず神様に助けや救いを呼び求める以外に生きる術(すべ)が無いという、そんな心を持っている人、そんな人こそ本当に幸いなのですよ、という意味なんです。つまり私は自分では自分を救うことなどできません、ただ神様に助けを求めなければ救いを受けることなどできません、というそんな心の貧しさという謙遜をいつも持っていなさいということなんですね。

 謙遜とは自己否定することではありません。自分を必要以上に低く見積もったりまた高く見積もったりすることでもありません。謙遜とは自分自身に正直になり、あなたがあなた以上でもあなた以下でもない、あなた自身を認め受け入れていくことなんです。ですから、ありのままの自分を見つめるときにそこに欠点や弱さを見るでしょう。しかし謙遜は自分の弱さや欠点を認めながら、私を助けてくださる神様を見上げて歩んで行こうという思いを育んでくれるのです。

 自分の弱さを認めない人は神様を信じようとも見上げようともしません。しかし私たちは謙遜な心をもって神様に自由に祈りながら神様の恵みの中に生かされていくんです。

 (PBA制作「世の光」2016.4.4送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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