ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

南朝忠臣、赤松氏範の墓

2006年10月12日 05時07分28秒 | Weblog
鎧武者のたのみ

 小学生時代に、「お話を聞く会」がありました。木造校舎の二階の講堂で聞きましたが、その話はこんな内容だったと思います。

 山の麓の小さな村の一軒の家。雨の夜、はやく布団にもぐりこんで寝ていると、庭の方から、雨音に混じってガシャガシャという金物のすれあう音が聞こえてきます。そっと戸を開けてのぞいてみると、鎧武者が槍を杖がわりにして立っているのではありませんか。おそろしくなって戸を閉め、布団にもぐりこんでふるえていますと、しばらくたつと音もなくなり、姿も消えてしまいました。そんなことがよく起こりました。ある日、勇気を出してその武者に話しかけてみると、こんなことを話すのです。
「我はこの山の上で戦いに敗れて死んだ者だ。一族の者みんな死んでしまって、誰も供養をしてくれない・・・」さっそく、この話を村人に話し供養をすることにしました。それからは鎧武者は現れなかった、ということでした。

 40年ほども前のことですから、あとから勝手に無意識に作り替えてしまっているかもしれません。しかし、妙によく覚えているのです。

 さて、この話は清水寺で自刃した南朝の忠臣、赤松氏範(うじのり)とその一族郎党の話だったと思うのです。少なくとも私は今日までそう信じこんできました。山とは御嶽山で、麓の村とは平木のことです。鎧武者は御嶽山清水寺で自刃した赤松方の武士でしょう。
 墓は清水寺山頂の駐車場のそばにあります。自動車登山道がなかった頃は、寺から尾根にそって北の方に細い道を歩かねばなりませんでした。
 実は、私は小学生の頃、一度この墓に行ったことがあります。以前、このブログで清水寺の大塔のことを書きましたが、寺に泊まったその日、小坊主さんの案内で背丈以上もある笹が生い茂った道をかき分けながらその墓まで行ったのです。尾根の先のところ、周囲は木々に囲まれた墓地がありました。中央に大きな墓が、そして、その傍らには一族郎党のものと思われる小さな墓が並んでいました。中央の墓は真ん中あたりに大きな割れ目があったように思います。これが、赤松氏範の墓だったのです。

 赤松氏範は14世紀南北朝時代の人で、播磨の豪族、赤松円心の子です。赤松円心は、はじめ南朝方についていましたが、のちに北朝の足利方につきます。兄弟4人のうち、氏範一人が南朝について忠義を尽くしました。
 足利義満が三代将軍となり、南朝の勢力はおとろえはじめました。氏範は1386年、最後の戦いに挑むべく、京の幕府を襲いましたが、幕府勢に押し返され、播磨の清水寺に立てこもりました。これを攻めたのは山名の軍勢でした。さらに山名勢が去ってからは細川勢が攻めました。
 氏範はよく戦いましたが、何せ味方は少数、幕府軍は大軍とあって、兵糧もなくなり、遂に覚悟を決めて、寺の北東の峯に一族郎党を集め、自刃をして果てたのです。これが、清水坂の合戦とよばれる戦いです。

 赤松氏範。小学5年の頃から夢中になって読んだ少年少女向けの「太平記」。楠木正成や新田義貞といった南朝の忠臣の縦横無尽の活躍に心を躍らせていました。その南朝一筋に忠義を尽くした武将、赤松氏範が最後に戦ったのが清水寺だったということを知り、何か言いようのない興奮を覚えたことを憶えています。
 写真は『加東郡の文化財』(加東郡教委編、昭44年刊)に掲載されている氏範の墓(碑)の写真です。私が小学生時代に見た姿に一番近い時期のものです。



  

 

 

 
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