メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ワルキューレ (バイロイト 2010)

2010-09-01 22:39:32 | 音楽

ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」
2010年8月21日 バイロイト祝祭劇場
指揮:クリスティアン・ティーレマン、演出:タンクレート・ドルスト、美術:フランク・フィリップ・シュレースマン
(ジークムント)ヨハン・ボータ、(ジークリンデ)エディット・ハラー、(フンディング)ヨン・クワンチュル、(ウォータン)アルベルト・ドーメン、(ブリュンヒルデ)リンダ・ワトソン、(フリッカ)藤村実穂子
  
NHK BS2で録画して見た。確かハイビジョンでは世界初のバイロイト生中継だったはず。なぜ「ワルキューレ」なのか、というのはわからないが、ニーベルングの指輪のなかでも最も面白い、またワーグナー全作品の中でも最も見どころ、聴きどころがある作品だから、この選択は納得がいく。それにこれを見れば指輪全体の見通しがきく。
  
バイロイトの映像作品というのは実はそんなになんども見たわけではなくて、指輪も1970年代パトリス・シェローの演出、ブーレーズの指揮のものは見たことはあったが、記憶では比較的暗い照明ではなかったか。そしてこれも写真や文章でしか想像できないが1960年代のウィーラント・ワーグナーの象徴主義ともいうべき演出も細かいものを排していたと想像する。また昔のメモを見ると、実演では唯一1974年10月12日(土)に来日していたミュンヘン・オペラでウォルフガング・サヴァリッシュ指揮、ギュンター・レンネルト演出の「ワルキューレ」を見ている。ただもったいないことにレンネルトの演出はほとんど覚えていない。残っているプログラムの写真を見ると、今回よりはシンプルで暗い舞台だったようである。まあとにかく、このときのミュンヘン・オペラではカルロス・クライバー指揮、オットー・シェンク演出のリヒャルト・シュトラウス「薔薇の騎士」ばかりに夢中になっていて、記憶もそっちがほとんどだ。
 
今回、幕開きの前に明るいところで舞台が示されたが、縦横比があまりないこともあるのか、昔のテレビのような小じんまりしているには驚いた。随分昔から続いているものだからやむを得ないのではあるけれど。
 
さて、演出、演奏であるけれども、まず問題は第1幕、ジークムントが逃げ込むフンディングとジークリンデ夫婦の家、これがなんとも野暮ったい家で、田舎とはいえ力を持っているフンディングのものとは思えないし、ジークリンデとジークムントがお互いの素性を次第に解きほぐし結ばれるというこの美しい音楽にはそぐわない。
「冬の嵐が過ぎ去って」、正面のドアがあき、さっと風が入ってきて、「それは春(レンツ)」というところ、これがこの装置では台なしだ。
婚礼の日に不思議な老人(ウォータン)が現れ、予言してトネリコの幹に突き刺した剣(ノートゥング)もおもちゃのようで、これではこれから「ジークフリート」、「神々の黄昏」へと長く中心となる道具としてふさわしくない。
もっともジークフリートは己の力を試し、見せるためにノートゥングを引き抜いて見せるのだが、この剣ではワーグナーがこれにこめたもう一つの意味、すなわち男性の象徴しか感じ取れない。
 
第2幕はそれほど違和感はないが、第3幕のブリュンヒルデが横たわるこれまた安っぽい傾斜したすのこ状のもの、彼女と父ウォータンとの長大なやり取り、ウォータンのこれまた長い「さらば愛する娘よ」、このワーグナーの中でも最も素晴らしい音楽の背景としてはいかがなものか。ローゲの火が近くにくるとあっという間に燃えてしまいそうだ。
 
歌手は目をつむって聴けばまずまずといったところだが、どうしてこんなにメタボな歌手ばかりなんだろうか。まともなのはウォータンくらい。ジークリンデとジークムントはやはりリリックな雰囲気にマッチしてほしいし、ブリュンヒルデはこれから指輪の終幕までの長丁場、これでは息切れになりそうである。
 
フンディングは韓国人、フリッカは日本人、1970年ころ、年末のNHK FM放送でバイロイトの多くの演目が放送され、カール・ベーム指揮の指輪を聴いていたころからすれば、隔世の感である。
ちなみのこのころの放送解説は柴田南雄(作曲家)で、ライト・モチーフを流しながらの詳細な解説はとても有難かった。
 
ティーレマンの指揮は多少早めのテンポ、その可否はあの劇場スペースで聴かないとなんともいえないが、全体としてはわかりやすい。ただ確かめようはないけれど、楽器特に管楽器はここでも作曲当時のものに最近はなっているのだろうか。ワーグナーくらいの天才の作品であれば、楽器も演奏もより高度なものでこそその潜在的な価値が出てくるのではと思うのだが。
 
演出は上記のように美術も含め、何をしたいのかわからないところが多い。余計な動きがある上に、これでいいんだろうかとうのが、ジークムントが倒れる場面。これまでの脚本解説などからは、ジークムントの剣(ノートゥング)をウォータンの槍が打ち砕いたために、フンディンクに刺されて死ぬ、ということだったと思うけれど、ここではウォータンが槍で刺したように見える。そしてノートゥングは砕かれている。あの刺す動作では砕けないだろう。
実質的には「ウォータン、殺したのはお前だ」ということだが、それは見る者にはわかるわけで、舞台上の演技でやってはおしまいだ。

とはいえ、長時間見ていて損をしたかというとそうでもなくて、それはこの作品の力である。


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