ベッリーニ:歌劇「夢遊病の娘」
指揮エヴェリーノ・ピド、演出:メアリー・ジマーマン
ナタリー・デセイ(アミーナ)、ファン・ディエゴ・フローレス(エルヴィーノ)、ミケーレ・ペルトゥージ)ジェニファー・ブラック(リーザ)
2009年3月21日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2012年7月WOWOW放送録画
見るのも聴くのも初めてで、もっと深刻な夢遊病の話かと思っていたら、筋自体はばかばかしいコメディであった。
これは主役の男女二人の圧倒的なベルカントを味わうためのしかけで、細かいところはどうでもいいのだろう。演出も最近よくある、当該オペラ上演の劇場、そのリハーサルという設定になっている。あまりその時代の装置、衣装でそれらしくやるよりは、その作品を現代の劇場で鑑賞するのなら作品のポイントを割り切って強調し、エッセンスを味わうというのも納得できないことはない。
リヒャルト・シュトラウスの作品でそういうしかけがよく あるけれど、この人の作品にはもともとそういう要素があるわけで、それらとは目指すところがちがうようだ。
ただ、始まってしばらくは歌手たちもここのオペラと同じ人間模様の中にいるのかと思ったが、どうもロドルフォが出てきたところからは、何しろ伯爵だし、これはリハーサル中と考えないとおかしい。そうなると、いくつかほころびは出てくる。
それでも、デセイとフローレス(先の「連隊の娘」と同じコンビ)の歌を聴いていれば、次第に関係なくなってくる。フローレスは今回も圧倒的な迫力を見せ、またデセイは夢遊病状態とそれから醒めた状態という切り替えも含め、文句のつけようがない。この人、こんなに小柄で、狂乱の場、こういう夢遊病状態、そして恋する明るい娘、それも飛んだり跳ねたりも、と大変な人である。インテリジェンスもあるようで。
後半の夢遊病状態で歌うアリア、その演出は舞台からオーケストラ・ピットの上にせり出す1メートルちょっとくらいの板の上で平然と歌う、あれは、特に醒めた状態になるときに、こっちもはらはらする。面白い演出である。
このベッリーニとロッシーニ、ドニゼッティのベルカント作品が、オペラの人気を支えている、というのことが、このところよくわかってきた。