メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ワーグナー「ローエングリン」(ミラノ・スカラ座)

2013-01-14 21:48:31 | 音楽一般

ワーグナー:歌劇「ローエングリン」

指揮:ダニエル・バレンボイム、演出:クラウス・グート

ヨナス・カウフマン(ローエングリン)、アンネッテ・ダッシュ(エルザ)、ルネ・パーペ(ドイツ国王ハインリッヒ)、トマス・トマソン(テルラムント)、エヴェリン・ヘルリツィウス(オルトルート)

2012年12月7日 ミラノ・スカラ座  2012年12月NHK BS-Pre 放送録画

 

これを見て、これまで居心地が悪かったこの作品が、ようやく少しわかった、つまりワーグナーはなぜこのようなバランスの悪い変わった作品を作ったかということがある程度理解できた。

 

これは「鶴のおんがえし」のように、素性をどうしても知りたがったために去っていってしまう妻また夫、という類の話ではあるけれども、これまではテルラムント/オルトルート夫婦の権謀術数にかかり、利用されるエルザの弱さゆえの悲劇という印象が強かった。それがこの演出でみると、エルザが騙され引っかかったという面はそれほどではなくて、むしろエルザそのものがそういう要素を持っており、彼女中心のエゴが描かれているといえる。

 

エルザが王子である弟と森に行き、弟は行方不明になり、彼女の罪が疑われるという背景があり、それもあって彼女は精神を病んでいるらしい。彼女を救うべくあらわれたローエングリンへの思い、要求は偏執的なところがあるし、ローエングリンとのやりとりはかなりエロティックである。

 

一方、ローエングリンもこの演出では、時々ひきつけを起こすようであり、人間ばなれした聖杯の騎士という性格が強調されている。

 

おそらくワーグナーは、現実的社会的な実績、それをもっともらしく理解させる氏・素性、その他その人を囲む様々な周囲の事情、そういうことから物事を判断するのか、それとももっと抽象的な直感的な正しさ、聖性を第一とするのか、それを判じ物のように、観客に突き付けているといえる。今回の演出はそれに集中したものといえるだろう。

このワーグナーの謎かけ、考えようによってはナチスにとって、もっとも利用したいものだったかもしれない。実際どうだったかは知らないが。

 

2011年バイロイトの公演では、精神病院の中で演じられるというしかけで、そっちに注意を奪われたが、今回はエルザとローエングリンのやりとりを集中してみることができた。

 

エルザのアンネッテ・ダッシュはまさにそのバイロイトでもエルザを演じ、今回はピンチヒッターだったらしいが、話の中心となったエルザを見事に演じている。カウフマンのローエングリン、メトロポリタンの「ワルキューレ」でなんとも2枚目のジークムントでびっくりさせられたが、今回は聖杯の騎士がよく似合う。ルネ・パーペはもちろん立派な国王。

テルラムントとオルトルートはまずまず。

 

そしてダニエル・バレンボイムが指揮するスカラのオーケストラは、ワーグナーをやらせたら今最高だろう。意外な組み合わせであっても、結果は聴く者にとって幸せなものである。

だからなおさら、ワルキューレのあとやむを得ず降板したレヴァイン(メトロポリタン)が復帰して、バレンボイムと比較して楽しみたいものである。

 

終わって、カーテンコールが始まり、合唱の人たちが並んだところでバレンボイムの手が一閃、「イタリアの兄弟たち」(イタリア国歌)が歌われた。今シーズンの杮落しだからかもしれないが、贅沢!

 

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