作家との遭遇 沢木耕太郎 著 新潮社(2018年11月)
著者の本としてはめずらしい作家論集で、先の全エッセイ「銀河を渡る」と似た体裁で続いたものである。
この中には著者の言及対象になっているのを知っているものもあるが、私と同世代にしては貸本屋によくおかれていた剣豪小説をむさぼり読んでいたことから出てきた、おやっと思うものもある。
作家論といっても、文芸評論というよりは、著者がスポーツ選手について取材しその人物像を描いていく、という行為、スタイルに近い。それで読む方もかなり落ち着いて読むことができるのかもしれない。
このなかで、檀一雄、山本周五郎についてはこれまでもかなりの言及があることを知っているが、意外な人選もあり、物書きとしてはくせがあるというか面白い人たちも多い。田辺聖子、色川武大、吉行淳之介、瀬戸内寂聴など、、、
一方、小林秀雄はなんと本流の対象に見えるが、うまく本質をついていると言えるだろう。そのほか、ここで作家たちの一面を知り、これからのひまな時間、読んでみようと思ったものがいくつかある。
そして意外なことに最後にあるのは、アルベール・カミュである。これは大学の経済学部に在籍していた著者が卒論として選んで提出してしまったものである。タフなルポライターとはいえ、こういう強引さが青年期からあったというのは意外であった。
さてそのカミュであるけれど、実は私も高校時代から「異邦人」、「ペスト」ときて、なにかこれは他と違うものがあると感じ、哲学論の領域である「シーシュポスの神話」、「反抗的人間」に挑戦したが、引用されている詩、哲学書など、とても歯が立たないまま、そこは勝手に想像で読み進まざるをえなかった。結果として何人かの人たちがカミュについて言及していることを眺めると、要点の受け取り方としてはまちがってはいなかったように思われた。それは今回の著者の著述でも確認できたことである。
しかし著者は、同じ世代でこの若い時期に、翻訳されているもの全部を何度も読み通したと思われ、その姿勢、体力には驚かされた。
ここにとりあげられたものには、文庫化されたときの解説として書かれたものががいくつかあるけれど、その際は作家の作品をほぼ全部読んで書いているらしく、これも著者からすれば当然とはいえ、そういうものかと感心した。
著者の本としてはめずらしい作家論集で、先の全エッセイ「銀河を渡る」と似た体裁で続いたものである。
この中には著者の言及対象になっているのを知っているものもあるが、私と同世代にしては貸本屋によくおかれていた剣豪小説をむさぼり読んでいたことから出てきた、おやっと思うものもある。
作家論といっても、文芸評論というよりは、著者がスポーツ選手について取材しその人物像を描いていく、という行為、スタイルに近い。それで読む方もかなり落ち着いて読むことができるのかもしれない。
このなかで、檀一雄、山本周五郎についてはこれまでもかなりの言及があることを知っているが、意外な人選もあり、物書きとしてはくせがあるというか面白い人たちも多い。田辺聖子、色川武大、吉行淳之介、瀬戸内寂聴など、、、
一方、小林秀雄はなんと本流の対象に見えるが、うまく本質をついていると言えるだろう。そのほか、ここで作家たちの一面を知り、これからのひまな時間、読んでみようと思ったものがいくつかある。
そして意外なことに最後にあるのは、アルベール・カミュである。これは大学の経済学部に在籍していた著者が卒論として選んで提出してしまったものである。タフなルポライターとはいえ、こういう強引さが青年期からあったというのは意外であった。
さてそのカミュであるけれど、実は私も高校時代から「異邦人」、「ペスト」ときて、なにかこれは他と違うものがあると感じ、哲学論の領域である「シーシュポスの神話」、「反抗的人間」に挑戦したが、引用されている詩、哲学書など、とても歯が立たないまま、そこは勝手に想像で読み進まざるをえなかった。結果として何人かの人たちがカミュについて言及していることを眺めると、要点の受け取り方としてはまちがってはいなかったように思われた。それは今回の著者の著述でも確認できたことである。
しかし著者は、同じ世代でこの若い時期に、翻訳されているもの全部を何度も読み通したと思われ、その姿勢、体力には驚かされた。
ここにとりあげられたものには、文庫化されたときの解説として書かれたものががいくつかあるけれど、その際は作家の作品をほぼ全部読んで書いているらしく、これも著者からすれば当然とはいえ、そういうものかと感心した。