メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

嵐が丘「映画」

2022-04-22 09:28:21 | 本と雑誌
嵐が丘
(Wuthering Hights、1939米、103分、モノクロ)
監督:ウィリアム・ワイラー、原作:エミリー・ブロンテ、音楽:アルフレッド・ニューマン
マール・オベロン(キャサリン)、ローレンス・オリヴィエ(ヒースクリフ)、デヴィッド・ニ―ヴン(エドガー)、ジェラルディン・フィッツジェラルド(イザベラ)、フローラ・ロブスン(エレン)
 
前にこの「嵐が丘」の原作について書いたように、私にとってこれは謎が多くわかりにくい物語である。そしてそれは見ていないかもしれないがこの映画が話題にされた時の部分的なイメージによるものもおそらく多い。
今回しっかり見てみて、これは初めてだとわかった。ずいぶん古い映画でモノクロ、そしてイメージしたとおり話は最初の世代で終わっていて、キャサリンにもイザベラにも子供はいない状態で終わってしまう。
 
これは当時の映画、2時間以内では難しかったのだろう。それでも一つの世代だからからか、男と女の驚くべき愛憎というか、ドラマが集約され、ワイラーの解釈とはいえ、少しは理解と、そうかもしれないというものが、残った。
 
相手に対する愛といっても、普通の好き嫌いというレベルでは満足せず、お互い相手を貶める、傷つける、そこまでいって、その結果、その後、そうなったことに対し、相手により思いをよせる、またそうなるようにしむけてしまう、そういう関係、世界なのだろうか。
 
作者としては、それは心の領域から魂の領域への飛躍というものなのだろうか。
ヒースクリフがオリヴィエというのはびっくりしたが、まだ若いころで不思議はない。ただ、もう少し怖いところを秘めていれば、とも感じた。
 
オベロンのイザベラ、こういう配役でいいのだろう。あまり演技巧者でも合わないし。
さて、原作全体を映画化するとどうなるのだろう。
 
ここで思い出したのは先にアップした「月と六ペンス」(サマセット・モーム)で、画家ゴーギャンをイメージさせる主人公がいう「女は自分を傷つけた男なら許せる。だが、自分のために犠牲を払った男は決して許せない」。
「嵐が丘」では女と男を逆転させても、どちらでもと暗示しているのだろうか。


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