メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

私の個人主義(夏目漱石)

2007-06-07 22:26:55 | 本と雑誌

「私の個人主義」(夏目漱石)(講談社文芸文庫「漱石人生論集」所収、出久根達郎
編)

数年前に読んで、また読みたくなった。もっと前、おそらく国語の試験問題か何かで部分的には読んだのであろう、タイトルは知っていたが、全集以外で読めるのがありがたい。
1914年、学習院大学における講演で、そのとき漱石48歳、死の2年前である。

言っていることは個人主義に関する二つのことで、
一つは何事においても学校であれ師であれ確かなものを得て自分のものにすることは出来ずそれは自分で書いたりやったりして失敗し検証しながら会得するしかないという「自己本位」、
二つめは個人は自由である一方で義務を負うそして他人の自由も認めなければならないしたがって国家主義は行き過ぎてはならない、というものである。

二つめについては、漱石の後も特にイギリスを念頭においてこういうことを書く人はいたから、今となってはそれほど珍しくはない。
その一方で、この一つめの方を個人の問題として重く受け止めるということは、人間ある程度歳を経ないと理解できないのかもしれない。事実自分のこととして考えれば、今は理解できるが、若い頃はどうだったか。
 
漱石でさえ、英文学を専攻していても、文学とはなんぞやなどということはわからず、留学しても何もわからず、この無力感、孤独感のなかで、他人はどうあれ、文学とはどんなものであるかという概念を根本的に自力で作り上げるより外に、自分を救う道はないと悟ったのである。
 
それはまた行動としては、自分で文章を書き、それを読み、そしてまた書きということの繰り返し、実践であろう。文章家でない私だって同様だ。

何であれ漱石の文章を読んだときに、書き流しただけのものではない、そして受けをねらったものではない、何か既成のものを借りてきたのではない、という思いがするのも、この「自己本位」があるからだろう。それは彼の生きる決意、覚悟、責任でもあるのだ。
 
この文章の前に「イズムの功過」(1910年)という文章が採録されており、そのはじまりは、「大抵のイズムとか主義とかいうものは無数の事実を几帳面な男が束にして頭の抽出(ひきだし)へ入れ易い様に拵えてくれたものである。、、、、実生活上の行為を直接に支配するために作られたる指南車というよりは、吾人の知識欲を充たすための統一函である。文章ではなく字引である。」とある。
 
イズムとして特に意識されているのが「自然主義」であるのは時代であろうが、今でも一般論として充分通じる。
だから「私の個人主義」においても「主義」という言葉の使い方については断っている。


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