goo blog サービス終了のお知らせ 

メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

兵士の物語 (アダム・クーパー、ウィル・ケンプ)

2011-02-10 11:36:35 | 舞台

兵士の物語 (バレエ)
作曲:イ―ゴリ・ストラヴィンスキー、原作:アファナシェフ、脚本:シャルル=フェルディナン・ラミュ
演出・振付:ウイル・タケット、指揮:ティム・マーレー
アダム・クーパー(兵士)、ウイル・ケンプ(語り手)、マシュー・ハート(悪魔)、ゼナイダ・ヤノフスキー(王女)
英ロイヤル・オペラ・ハウス版 2009年9月13日・15日 新国立劇場 中劇場 WOWOWによる録画放送
 
今まで耳でしか味わったことがないこの作品、こうして見ることが出来たのは幸運である。
あらゆる疑問に答える、つまり現世の栄華を得ることにつながる書物と引き換えに、ヴァイオリンつまり魂を悪魔に売ってしまった兵士、それを取り返して一度は王女を助けるが、また最後は悪魔に滅ぼされる。その間、語り手は兵士に付き添い、また観客もそこに加わっているような演出。
 
音楽は全編常に演奏されているというものではなくて、劇音楽といった感じである。
 
気が付けば当たり前なのだが、こうして舞台では、4人が踊り、台詞をしゃべるのである。ウイル・ケンプは映画にも出ているようだが、なんとアダム・クーパーも台詞が多い。この作品がほとんど最初とか。そういえば映画「リトル・ダンサー」で最後にちょっと出た時も、声はほとんど出さなかったのではないか。
 
アダム・クーパーの兵士、長身で見ていてほれぼれする、そうだからこそ彼が堕ちていく過程も説得力がある。おそらく作曲された1918年という第一次世界大戦後の時代を反映した兵士の運命なのだろうが、やはり舞台だから兵士が貧相だと、この時代の悲劇をいう一方的なものになってしまう。
 
ウイル・ケンプも達者である。ただしもちろん、初演時のフランス語ではなく英語である。
 
こうしてヴィジュアルなイメージを一度獲得するといい。
今、1962年録音のLPレコードをかけながらこれを書いている。
指揮はイーゴリ・マルケヴィッチ、語り手はなんと初演(1918年、指揮:エルネスト・アンセルメ)の時と同じ ジャン・コクトー、兵士はピーター・ユスティノフという豪華メンバーである。
コクトーは次の年に亡くなっているから、貴重なもの。そしてレコード・ジャケットの絵はコクトーによって描かれている。
 
もう一つ持っている録音は、1981年ピエール・ブーレーズの指揮、兵士はあのパトリス・シェロー(バイロイトで衝撃的な演出をした)、やはり誰か大物を起用するものらしい。
 
ただし、初演もマルケヴィッチ盤録音のきっかけとなった上演も、おそらく声と舞踊は別の人によったのではないか。その意味でも、こうい飛び切りの人たちがいる現代はいい。


ロメオとジュリエット(英国ロイヤル・バレエ)

2010-12-30 22:55:55 | 舞台

バレエ「ロメオとジュリエット」(プロコフィエフ作曲)
英国ロイヤル・バレエ団 日本公演 (2010年6月29日、東京文化会館)
11月19日(金)NHK教育TV「芸術劇場」の放送録画
ジュリエット:吉田都 ロメオ:スティーヴン・マクレー
振付:ケネス・マクミラン
ボリス・グルージン指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
 
バレエに限らず今年観たり聴いたりしたものの中で、文句なしのベストである。
実はバレエというもの自体をじっくり見たことがない。
この間、「プロフェッショナル・仕事の流儀」(NHKTV)で吉田都がロイヤル・バレエのプリンシパルとしての最終公演にかかるところを見、彼女によるバレエ・レッスン再放送の後半数回を見るというめぐりあわせになり、このところバレエについて幾分知識がついてきた。
それにこのレッスンで「ロメオとジュリエット」は取り上げられる回数が多く、吉田都がもっとも好きで力が入っているとのことで、いくつかの視点も記憶していた。
 
それにしてもこの話、舞台、映画、ミュージカル「ウエストサイドストーリー」などいくつもの形態があるけれども、このバレエが一番ではないだろうか。これを見ると、セリフも歌もいらない。音楽と踊りで、少女ジュリエットのときめき、両家の確執、街の喧騒、そして二人の情熱の高まりと悲嘆、ジュリエットの決意が、劇的な感興とともに雄弁に語られている。
 
この曲をオーケストラ・コンサートで組曲形式で聴いてもそんなに感じるところはないかもしれないが、こうして聴くとプロコフィエフという作曲家は大変な人である。 
 
そして、吉田都。少女から親の押し付けに対するためらいと拒否、ロメオとの出会いとときめき、その迷いと燃え上がり、どれも自然な感情の裏付けがある、そしてイマジネーションがある素晴らしい演技だ。レッスンで言っていることをきいていて、常套的な言い方だが、日本人でこれほど自発性と想像力にもとづいた感情が感じられる人は珍しいと思った。
 
特に第3幕は群衆が出てこない室内劇、ラブシーン、そして仮死状態になっているジュリエットとロメオのパド・ドゥーも驚くべきもので、吉田都が何にもしてないはずはないけれども、死んでいる状態のジュリエットの体がなんとも見事。
 
最後のカーテンコール、これが彼女の最後の公演とあって舞台の上で延々と祝福が続く。こんなに盛大なものは見たことがない。彼女とバレエ団のこれまでを反映したものだろう。

 

吉田都がやっているうちに自分でたてた目標の高さに感銘をうける。
 
とにかくバレエというものの、力、奥深さを初めて知った公演だった。
 


カステルッチの「神曲」

2010-08-14 17:10:04 | 舞台

ダンテ「神曲」 演出・舞台美術・照明・衣装:ロメオ・カステルッチ、音楽:スコット・ギボンズ
「地獄篇」「煉獄篇」 2008年7月アビニヨン演劇祭 アビニヨン法王庁広場
「天国篇」 2008年11月 チェザーナ(伊)サン・スピリット教会
2010年3月12日NHK教育TV「芸術劇場」で放送されたもの(2時間15分)
 
「神曲」ということで気楽には見られないだろうと録画したまま放っておいたのだが、見てみたら予想とは違って、一気にひきこまれるものであった。もっともフルに収録されているのは「天国篇」だけで、「煉獄篇」はダイジェスト、「天国篇」は演劇ではなくインスタレーションで、その模様が数分紹介されるだけである。
それでもカステルッチの「神曲」がなんであるかをうかがうのには充分だ。
 
カステルッチ(1960~)の神曲はほとんどセリフがないもので、登場する多くの役者が様式化された動きを繰り返したり、また一人が法王庁の壁をよじ登ったり、子供を象徴的に使ったり、というもので、観客に自由に想像させることを意図しているようだ。
 
最初にカステルッチ自身が登場して名乗りをあげる。神曲は読んでいないが、原作でも冒頭でやはりダンテがやっているのと同じらしい。そして吠える犬がたくさん登場し、なんとカステルッチ自身が防護服をつけて犬に噛みつかれるという場面がしばらく続く。警察犬の訓練と同じものだが、あっと驚く。しかし人間以外のものから、ひどい仕打ちを受けるというのはこれだけで、そのあとはカステルッチがインタビューで言っているとおり、人間の多くのペアが抱きついたり(愛し合ったり?和解したり?)、後ろから優雅に寄り添って首を切ったり、高いところで十字の形をし後ろに投身したり、そいう場面で進んでいく。
 
カステルッチが語るには、ダンテが描く地獄も多くは、何か怖いものに苦しめられるというより、人間の中にあるものに苦しむ、人と人との間で苦しむことのようだ。
 
一つ一つは様式化され、同じポーズ、動きの繰り返しで演者ごとに個性はあえて出さないようになっている。ファッション・ショーの動きのよう。
確かにこうして同じ動きを、まだ続くのというくらい繰り返し見ていると、こちらでも自然になにか頭に浮かんでくる。
1時間半と少し、こうして見ていると、湧き出てくるのは人間へのいとおしさ、というと陳腐だが、ほんとうに漠然とそうしたものが定着してくる。カステルッチの罠にうまくはまったということだろうか。
 
一人一人違う群衆、その「衣装」がうまい。基本的にいくつかの単純なパターンで、違いはなく、模様もなく色だけが演者を分けるのだが、多彩な色をアースカラー調に穏やかにした、その色たちのアンサンブルがいい。
 
「煉獄篇」は一転して、家庭内の母と息子、そして父親、の何か成長過程の問題を思わせる劇で、音楽がもう一つの主人公の扱いになっている。後半の展開で、息子が突然長身になり苦悶している父親との逆転が示される。「地獄篇」の最後で燃やされたピアノが舞台におかれ、息子はピアノを習っているようだ。これも何かの象徴だろう。
 
「天国篇」は教会の穴を、観客は一人ずつくぐり、その中の暗黒に目が慣れてそのあと、という過程を体験させるというもののようだ。これは演劇の本質でもあるということらしい。そういえば金沢21世紀美術館でいくつか体験したインスタレーションにも通じるものがある。
 
やはり「地獄篇」に焦点があたるは自然で、これはながく記憶に残るだろう。


楽屋 (清水邦夫)

2009-10-11 14:51:38 | 舞台
「楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき」(作:清水邦夫)
演出:生瀬勝久
渡辺えり、小泉今日子、村岡希美、蒼井優
(2009年5月 シアタートラム、2009年10月9日NHK教育TV )
 
初めて見る劇である。演劇の世界では有名、名作らしい。清水邦夫(1936-)は名前だけ知っている。
この作品(1977)は女優4人だけ、しかも場面は楽屋だけ、見るものは集中しやすい。
劇団でプロンプターはやってもついに表舞台に立てなかった戦前からの女優A(渡辺えり)、同じ境遇の戦後の女優B(小泉今日子)が楽屋で亡霊のごとく化粧をしながらおしゃべりをしている。そこへ今の女優C(村岡希美)が出てきて、その境遇、立場の違い、なぜそうなったか、言い合いを始める。そしてそこにさらにそのあとの世代の女優D(蒼井優)が枕を持って現れ、皆に休息を勧める。
 
お互いの主張はかみ合うわけもなく、そしてこの人たちは劇団員として好きで憧れなじんだチェーホフ作品の台詞をとなえながら、このあとの生き方を探っていく。
 
見ているとしだいに、Aは戦前の左翼リアリズム、Bは戦争直後のそれ、そしてCはまさに戦後そのもの、戦後の知識人そのものでありおそらく1960年安保世代の作者といっては独断で失礼かもしれないが、そうきこえてくる。そして特定の主義をもたない新世代のDが表れると、彼女たちの対立、いやむしろ対立が成り立つ構造が崩れていく。それでも、なんとか彼女たちは生きていくのだろう、と思わせて終わるところがこの戯曲の価値、長く上演されてきた所以だろうか。
 
四人とも役をこなしてうまい。
村岡希美は初めて見るが、一番女優らしいという役の存在感は確かだ。
渡辺、小泉も舞台の演技は的確。そしてこの三人がいかにも役者が楽屋でしゃべっているという感じであるのに対し、このところいくつか舞台をやっているとはいえ、映画から出てきた蒼井優がなんとも異次元でしかもその場面の空気をつくってしまう演技を見せ、期待に応えている。
 
もともと演劇をそれほど知らないから、録画してみたのは蒼井が出ているから。
特に、各場面での第一声が素晴らしい。あの映画での「クワイエット・ルームへようこそ」というところを思い出してしまった。

恋する妊婦

2008-02-24 18:58:22 | 舞台
「恋する妊婦」(Bunkamura シアターコクーン、2月8日~28日)(2月21日)
作・演出:岩松了
出演:小泉今日子、風間杜夫、大森南朋、鈴木砂羽、荒川良々、姜暢雄、平岩紙、森本亮治、佐藤直子
 
岩松了というとTVドラマ「時効警察」の出演・脚本(時に)、三木聡や松尾スズキの映画での常連など、このところその面白さに注意が行っていたところ、この話題の芝居というので観にいった。
 
演劇はほとんど観にいくことがなく、この世界にはうとい。そのためとは言わないが、舞台となると岩松了はかなり違っていた。
喜劇ではあるけれども、登場人物がそれぞれ勝手に動いてそれは最後まで収束することなく、起承転結の期待も最後まで充たされることはない。
 
大衆演劇の一座、座長(風間)と子供が出来ている妻(小泉)、副座長(大森)とその妹(鈴木)、そして一座から離れている花形だったらしい男(姜)、よく出入りする八百屋(荒川)、見学で入ってきた学生(森本)そのほか、縦横、二重三重にいろいろな関係がありそうで、その中で、結果として不条理といえば不条理な成り行きが、笑い、ギャグを織り込みながら、続く。
見ているものは、こういうことである程度腹いっぱいになってくると、それなりの理解に達する、ということなのだろうか。
ここで思い出したのが、昨年上演され、それをテレビで見た岩松了の「シェイクスピア・ソナタ」(松本幸四郎他)で、これもシェイクスピア一座の中の話、皆が勝手な方向を向いていることは同じであった。
 
あとで岩松の談話を読むと、彼の考え方は「人間は本質的に不機嫌」ということらしい。そうなると納得はいく。
そしてこう言ってはいいかげんかもしれないが、岩松は露文出身だから、チェーホフが近いかなとも考えられる。でも考えてみれば、シェイクスピアの登場人物だって、決して快活な人はいないし、芝居の後味は必ずしもいいものではない。
 
風間杜夫は着物で座長というのにぴったりで、この人が中心にいることで一つの芝居として成り立っているといえる。
このところ映画でよく見る小泉、荒川、平岩は、舞台でもうまい。
大森南朋、鈴木砂羽の二人は、存在感があり、舞台で映える。
 
そして小泉今日子、鈴木砂羽の二人は、照明の下でびっくりするほどきれいだった。