兵士の物語 (バレエ)
作曲:イ―ゴリ・ストラヴィンスキー、原作:アファナシェフ、脚本:シャルル=フェルディナン・ラミュ
演出・振付:ウイル・タケット、指揮:ティム・マーレー
アダム・クーパー(兵士)、ウイル・ケンプ(語り手)、マシュー・ハート(悪魔)、ゼナイダ・ヤノフスキー(王女)
英ロイヤル・オペラ・ハウス版 2009年9月13日・15日 新国立劇場 中劇場 WOWOWによる録画放送
今まで耳でしか味わったことがないこの作品、こうして見ることが出来たのは幸運である。
あらゆる疑問に答える、つまり現世の栄華を得ることにつながる書物と引き換えに、ヴァイオリンつまり魂を悪魔に売ってしまった兵士、それを取り返して一度は王女を助けるが、また最後は悪魔に滅ぼされる。その間、語り手は兵士に付き添い、また観客もそこに加わっているような演出。
音楽は全編常に演奏されているというものではなくて、劇音楽といった感じである。
気が付けば当たり前なのだが、こうして舞台では、4人が踊り、台詞をしゃべるのである。ウイル・ケンプは映画にも出ているようだが、なんとアダム・クーパーも台詞が多い。この作品がほとんど最初とか。そういえば映画「リトル・ダンサー」で最後にちょっと出た時も、声はほとんど出さなかったのではないか。
アダム・クーパーの兵士、長身で見ていてほれぼれする、そうだからこそ彼が堕ちていく過程も説得力がある。おそらく作曲された1918年という第一次世界大戦後の時代を反映した兵士の運命なのだろうが、やはり舞台だから兵士が貧相だと、この時代の悲劇をいう一方的なものになってしまう。
ウイル・ケンプも達者である。ただしもちろん、初演時のフランス語ではなく英語である。
こうしてヴィジュアルなイメージを一度獲得するといい。
今、1962年録音のLPレコードをかけながらこれを書いている。
指揮はイーゴリ・マルケヴィッチ、語り手はなんと初演(1918年、指揮:エルネスト・アンセルメ)の時と同じ ジャン・コクトー、兵士はピーター・ユスティノフという豪華メンバーである。
コクトーは次の年に亡くなっているから、貴重なもの。そしてレコード・ジャケットの絵はコクトーによって描かれている。
もう一つ持っている録音は、1981年ピエール・ブーレーズの指揮、兵士はあのパトリス・シェロー(バイロイトで衝撃的な演出をした)、やはり誰か大物を起用するものらしい。
ただし、初演もマルケヴィッチ盤録音のきっかけとなった上演も、おそらく声と舞踊は別の人によったのではないか。その意味でも、こうい飛び切りの人たちがいる現代はいい。
バレエ「ロメオとジュリエット」(プロコフィエフ作曲)
英国ロイヤル・バレエ団 日本公演 (2010年6月29日、東京文化会館)
11月19日(金)NHK教育TV「芸術劇場」の放送録画
ジュリエット:吉田都 ロメオ:スティーヴン・マクレー
振付:ケネス・マクミラン
ボリス・グルージン指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
バレエに限らず今年観たり聴いたりしたものの中で、文句なしのベストである。
実はバレエというもの自体をじっくり見たことがない。
この間、「プロフェッショナル・仕事の流儀」(NHKTV)で吉田都がロイヤル・バレエのプリンシパルとしての最終公演にかかるところを見、彼女によるバレエ・レッスン再放送の後半数回を見るというめぐりあわせになり、このところバレエについて幾分知識がついてきた。
それにこのレッスンで「ロメオとジュリエット」は取り上げられる回数が多く、吉田都がもっとも好きで力が入っているとのことで、いくつかの視点も記憶していた。
それにしてもこの話、舞台、映画、ミュージカル「ウエストサイドストーリー」などいくつもの形態があるけれども、このバレエが一番ではないだろうか。これを見ると、セリフも歌もいらない。音楽と踊りで、少女ジュリエットのときめき、両家の確執、街の喧騒、そして二人の情熱の高まりと悲嘆、ジュリエットの決意が、劇的な感興とともに雄弁に語られている。
この曲をオーケストラ・コンサートで組曲形式で聴いてもそんなに感じるところはないかもしれないが、こうして聴くとプロコフィエフという作曲家は大変な人である。
そして、吉田都。少女から親の押し付けに対するためらいと拒否、ロメオとの出会いとときめき、その迷いと燃え上がり、どれも自然な感情の裏付けがある、そしてイマジネーションがある素晴らしい演技だ。レッスンで言っていることをきいていて、常套的な言い方だが、日本人でこれほど自発性と想像力にもとづいた感情が感じられる人は珍しいと思った。
特に第3幕は群衆が出てこない室内劇、ラブシーン、そして仮死状態になっているジュリエットとロメオのパド・ドゥーも驚くべきもので、吉田都が何にもしてないはずはないけれども、死んでいる状態のジュリエットの体がなんとも見事。
最後のカーテンコール、これが彼女の最後の公演とあって舞台の上で延々と祝福が続く。こんなに盛大なものは見たことがない。彼女とバレエ団のこれまでを反映したものだろう。
吉田都がやっているうちに自分でたてた目標の高さに感銘をうける。
とにかくバレエというものの、力、奥深さを初めて知った公演だった。
ダンテ「神曲」 演出・舞台美術・照明・衣装:ロメオ・カステルッチ、音楽:スコット・ギボンズ
「地獄篇」「煉獄篇」 2008年7月アビニヨン演劇祭 アビニヨン法王庁広場
「天国篇」 2008年11月 チェザーナ(伊)サン・スピリット教会
2010年3月12日NHK教育TV「芸術劇場」で放送されたもの(2時間15分)
「神曲」ということで気楽には見られないだろうと録画したまま放っておいたのだが、見てみたら予想とは違って、一気にひきこまれるものであった。もっともフルに収録されているのは「天国篇」だけで、「煉獄篇」はダイジェスト、「天国篇」は演劇ではなくインスタレーションで、その模様が数分紹介されるだけである。
それでもカステルッチの「神曲」がなんであるかをうかがうのには充分だ。
カステルッチ(1960~)の神曲はほとんどセリフがないもので、登場する多くの役者が様式化された動きを繰り返したり、また一人が法王庁の壁をよじ登ったり、子供を象徴的に使ったり、というもので、観客に自由に想像させることを意図しているようだ。
最初にカステルッチ自身が登場して名乗りをあげる。神曲は読んでいないが、原作でも冒頭でやはりダンテがやっているのと同じらしい。そして吠える犬がたくさん登場し、なんとカステルッチ自身が防護服をつけて犬に噛みつかれるという場面がしばらく続く。警察犬の訓練と同じものだが、あっと驚く。しかし人間以外のものから、ひどい仕打ちを受けるというのはこれだけで、そのあとはカステルッチがインタビューで言っているとおり、人間の多くのペアが抱きついたり(愛し合ったり?和解したり?)、後ろから優雅に寄り添って首を切ったり、高いところで十字の形をし後ろに投身したり、そいう場面で進んでいく。
カステルッチが語るには、ダンテが描く地獄も多くは、何か怖いものに苦しめられるというより、人間の中にあるものに苦しむ、人と人との間で苦しむことのようだ。
一つ一つは様式化され、同じポーズ、動きの繰り返しで演者ごとに個性はあえて出さないようになっている。ファッション・ショーの動きのよう。
確かにこうして同じ動きを、まだ続くのというくらい繰り返し見ていると、こちらでも自然になにか頭に浮かんでくる。
1時間半と少し、こうして見ていると、湧き出てくるのは人間へのいとおしさ、というと陳腐だが、ほんとうに漠然とそうしたものが定着してくる。カステルッチの罠にうまくはまったということだろうか。
一人一人違う群衆、その「衣装」がうまい。基本的にいくつかの単純なパターンで、違いはなく、模様もなく色だけが演者を分けるのだが、多彩な色をアースカラー調に穏やかにした、その色たちのアンサンブルがいい。
「煉獄篇」は一転して、家庭内の母と息子、そして父親、の何か成長過程の問題を思わせる劇で、音楽がもう一つの主人公の扱いになっている。後半の展開で、息子が突然長身になり苦悶している父親との逆転が示される。「地獄篇」の最後で燃やされたピアノが舞台におかれ、息子はピアノを習っているようだ。これも何かの象徴だろう。
「天国篇」は教会の穴を、観客は一人ずつくぐり、その中の暗黒に目が慣れてそのあと、という過程を体験させるというもののようだ。これは演劇の本質でもあるということらしい。そういえば金沢21世紀美術館でいくつか体験したインスタレーションにも通じるものがある。
やはり「地獄篇」に焦点があたるは自然で、これはながく記憶に残るだろう。