バレエ「オンディーヌ」
作曲:ハンス・ウェルナー・ヘンツェ、振付:フレデリック・アシュトン
バリー・ワーズワース指揮ロンドン・コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
吉田都(オンディーヌ)、エドワード・ワトソン(貴公子パレモン)、ジェネシア・ロサート(ベルタ)、リッカルド・ケルヴェラ(地中海の王ティレニオ)、ゲーリー・エイビス(隠者)
2009年6月3日、6日、英国ロイヤル・バレエ公演
2011年3月19日 NHKBSハイビジョン放送 108分
初めて観るバレエ。オンディーヌ(ウンディーネ)は古くからある話で何人もの作家が題材としているらしいが、読んだことがあるのはジロドウの戯曲で、これと比べると登場人物の名前も少し違うし、話の筋はかなり単純化されている。
だからジロドウ作を読んだときには細かいところにも隠喩、暗喩など何かあるのかな、と構えていたが、今度はない。バレエを見せるにはその方がいいかもしれない。
パレモンがオンディーヌと出会う場面、これはかなり長い。そして二人一緒に航海に出るが前の婚約者ベルタも入り込んでいてオンディーヌにてこづった水夫達が彼女を海に放り出してしまう場面。パレモンとベルタの結婚と祝宴、そしてオンディーヌが登場し「死の接吻」。これらを吉田都を中心にたっぷり見せる。
したがってこのバレエの筋を理解するのはそれほど難しくはないが、退屈せずに楽しむには、かなりバレエの楽しさを知っていることが必要だろう。少なくとも私のレベルではちょっと足りない。
全体に、水の精、神話世界の舞台で、装置、衣装などもそのようにつまり「精」と「聖」になっており、唯一婚礼祝宴の場面だけが特に衣装が「俗」になっていて、むしろこれがきれいでほっとする。
とはいえ、吉田都はこの水の精を演じて、先のジュリエットとは違う、人間の娘から女への変化とは違う、プロセスを納得させる演技で、当たり役と言われるだけのことはある。体重がないような動き、また軽い空気感とでもいったらいいか。「ロメオとジュリエット」より難しいかもしれない。
ヘンツェの音楽は、ぴたりをはまっているようだが、プロコフィエフに比べると、メロディーだけで耳に残るというところはなかった。
シェイクスピア 「マクベス」
上演:無名塾、上演台本:隆巴、演出:林清人、音楽:池辺晋一郎
仲代達矢(マクベス)、若村麻由美(マクベス夫人)
2009年10月 能登音楽堂
2009年11月 NHKで放送されたものの録画
ちょうどこの年の11月、能登の和倉温泉、そして金沢に旅行したとき、県の知人がこの上演を見たことを聴き、放送されないかなと思っていたもの。あまり軽い作品ではないからか、録画をみるまでにかなり時間が経ってしまった。
番組の最初に仲代が語っているとおり、この演出と演技では、欲望にかられた凄みのある人間というよりは、普通のものが、魔女の予言というか、周囲の声、空気にその気になっていってしまう、そういう弱さを表出するという形になっている。どうしてもいつもの仲代のちょっと無理なユーモアがある口ぶりがでてしまうけれど、それもこの設定では範囲内といえるだろう。若村麻由美は外見にもっとやり手の雰囲気があることを予想したけれど、ちょっときれいすぎた。しかし、この女にかかればその気になってしまう、ということは確かである。
それとこの主役の二人の台詞は聞き取りやすく、それはさすがである。
そして池辺晋一郎の音楽、特にほとんど全編でてくるチェロの独奏、これは舞台の右側で奏者が奏でているのだが、人間の声となじみやすいこの楽器が、台詞を邪魔せずに、しかもその空気を補強して、見事。
ところでこのホールは、能登半島の先、東側を穴水から和倉温泉まで走る第三セクター能登鉄道、和倉温泉の少し手前「のとなかじま」近くにある。舞台奥がさっと開くと、そこは野原から森に通じるようになっていて、この借景は演出に使えるものになっている。
今回のマクベスでは冒頭で主役たちが馬に乗って登場するところ、そして終盤、まさかのバーナムの森が動いてくる場面、この二か所で使われる。効果的なんだろうが、ビデオでは衝撃がそれほどでもなかったのは残念で、これはやはり実際にに見るしかない。
マクベスという作品は、実はあまり見たい、読みたいものではなく、この愚かにも破滅に突き進むというタイプの劇は、「オセロー」も同様、好きではない。シェイクスピアの作品では、実は「夏の夜の夢」とか「あらし」とか、コメディの方が好きである。
この台本、魔女そのほか狂言回しのような人物たちが登場するときの台詞は歌舞伎のような七五調になっている。わかりやすいといえばそうだが、もう今の舞台、主役たちがこの今の言葉で自然に聞こえるようになってみれば、どうなんだろうか。
と、翻訳はとみれば、当然と言えば当然だがこれは小田島雄志。なつかしい。
小田島先生には大学教養課程で英語を習った。テキストはアイリス・マードック「切られた首」、作者も作品も当時としてはずいぶん進んだもの、と知っってからまだ10年経っていない。そういうものだろう。
二人の夫とわたしの事情
原作:サマセット・モーム、演出・上演台本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ、翻訳:徐賀世子
松たか子、段田安則、渡辺徹、新橋耐子、皆川猿時、猪岐英人、西尾まり
2010年5月4日(火)シアターコクーン 2010年7月NHKTV放送の録画
サマセット・モームはたくさんの劇場台本を書いていて、読んだことがあるのは「劇場」(1937)だけである。こうして翻訳劇の形であれ、ほかの作品を楽しめるのはいい。もっともこっちは1918年、仲の良かった夫が出征して死亡、夫の意を受けたようにその親友と再婚、しかしどうしたことか死んだはずの夫が帰ってきて、二人の夫と生活することになり、もちろんいろいろなトラブルが続き、そこに戦争中の貧窮事情ゆえか、金持ちの求婚者が現れ、、、という展開で、3幕のコメディである。
なんという偶然、先の「兵士の物語」も1918年、そしてなんという対照!
戦争ということは別にして、ドラマとしては気楽に見られるものになっている。「劇場」はもっと深刻な面があったけれど。
モーム原作というだけなら、放送を見つけ録画もしなかったかもしれないが、やはりそこは松たか子が主役ということが大きい。映画「告白」を見た後だったし。
かなり早口にたくさんの台詞をしゃべるのだが、口跡がいいのか言葉はよくききとれ、しかも変に濃い演技になっていないのがいい。色気も適当、チャーミングで憎めない、男の手をするりと抜けてしまう、という感じを実現しているのが見事。
この人を主役にした時点で、この舞台の成功は決まったようなものだろう。
最初の夫の段田安則、二人目の渡辺徹もそれぞれのタイプにはまっていて、演技もやりすぎていない。松たか子の母親役新橋耐子は貫禄。
もう一つの注目はケラリーノ・サンドロヴィッチだった。演劇界には疎いから、この人について知っているのはあの傑作TVドラマ「時効警察」シリーズでいくつか脚本を書いていることくらい。だからもっと細かいすべりを期待してしまったのかもしれないが、そこはかなりオーソドックスだった。第3幕の途中は少しくどくで退屈で、端折りがあってもよかったか。
でも最後の、夫二人が意気投合したところは、その後の映画などでも似たような感じはあったような気がする。こういうものをベースに、いろんなものが出てきたのだろう。
例えば、大好きな映画「夕なぎ」(1972)でロミー・シュナイダーに振り回されたイヴ・モンタンとサミー・フレイが顔を見合すラスト。