生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

心の膜が取り除かれて

2006-03-03 12:30:04 | エッセイ
今日は、去年の3月、教会で発行している月報に載せていただいた記事を掲載します。


 わたしが礼拝に出席する時は、ハンカチとティッシュが必需品です。必ず何度か涙が出るからです。「わたしって、おかしいのかなあ?」と思っていたら、2月の「月報めぐみ」に礼拝中に何度も涙しているというN兄のあかしを読んで、「よかった、わたしだけじゃなかったんだ」と嬉しくなりました。

 ある日の礼拝で涙を流したときのことを書いてみます。
 司会の方が「天の父なる神様」と祈り始めると、神様を父と呼べることに感激して涙します。主の祈りでは、「私たちの負い目をお赦しください」のところで、ああ、イエスさまの十字架によって私の罪が赦されているんだなあと心が震えます。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました(ヨハネ15-9)」
と聖書が読まれ、イエスさまにどれだけ深く愛されているのかと思い感動します。「神は、ご自分の子どもを身代わりに差し出すほどにあなたを大切に思って下います」というメッセージにどっと涙があふれます。賛美歌や聖歌の歌詞にも、祝祷の言葉にも感動して、後奏のあとしばらくは胸がじーんとして言葉が出ません。

いつからこんなに涙もろくなったのでしょう……。以前は礼拝に出ても心動かされることなく、メッセージを聞きながら頭の中で別のことを考えていたり、つい居眠りをしてしまったこともありました。

ところが、一昨年の12月に乳がんの手術を受け、術後10分の4のリンパ転移があることを知らされました。リンパ転移の意味がどういうことなのかを知ったとき、体の中に電流が走ったような戦慄を覚えました。リンパ転移3つ以上ある人は、再発転移のリスクが非常に大きいといわれ、5年後、10年後の生存確率がぐんと低くなります。

死ぬことが怖いわけではありません。ただ、ずうっと先にあると思っていた死が、すぐ近くに来ているかもしれないと思い、身震いしたのです。人間誰でも必ず死は訪れます。でも、その当たり前のことがわからずに、いつまでも同じ様な日がずうっと続くのだと思っていました。

日曜ごとに礼拝に出席できることを当たり前のように思っていましたが、必ず最後のときがくるのだと自覚したとき、これではいけないと思いました。それで毎回、この礼拝が生涯で最後の礼拝だと思うことにしました。わたしの心は膜でおおわれていて、心のアンテナの感度は鈍くなっていましたが、そのときから心の膜は取り除かれました。

それから、ハンカチとティッシュが礼拝の必需品となりました。流す涙は悲しみの涙ではなく、感動の涙です。礼拝は至福の時です。病気のおかげで、こんなに素晴らしい礼拝にあずかることができて、わたしは乳がんとリンパ転移に感謝しています。



この記事を書いてから約1年。心境は全く変わっていません。祈祷会でも涙が出ます。2人ずつで祈りあうときには、必ず泣いてしまいます。暖かい心と熱い思いで自分のために祈っていただけることに感動で胸がいっぱいになるからです。

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