生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

わたしの罪のために……

2006-03-06 13:32:05 | エッセイ
昨日、受洗の面接を受けた友人から、「あなたの罪の為にイエス様が十字架にかかられたことを信じますか?」と質問されたけれど、文香さんはどのようなときにこのことを信じたのですか?というメールを頂きました。それに答えるかたちで書きます。

わたしは、洗礼を受けたとき、自分の罪には気づいていましたが、自分の罪のためにイエス様が十字架にかかって下さったという明確な信仰を持っていませんでした。

 なぜ罪に気づいたかについては、救いの証し「心のすき間が埋められて」に書きましたので省きますが、もしそのとき、「あなたの罪がイエスさまを十字架につけたのですよ」と言われたら「えっ、何で? イエスさまが十字架にかかったのは2千年も前のことなのに……」と思ったことでしょう。

 洗礼を受けた当時のわたしは、自己中心という罪に気づいていましたが、自分がすごい罪人とだは思っていませんでした。少なくとも人を傷つけたり、悪口を言いふらす人たちよりはましだと思っていたのです。みかけは温和で人とトラブルを起こしたこともなかったので、周りからは「いい人」と言われていました。家の中では母に逆らい、わがままを言っていましたが、外では穏やかだったのです。
 
 聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」という言葉があります。わたしは、友達が困っているときは助け、悲しむときは同情し、共に泣くことができました。でも、共に喜ぶことができないのでした。
たとえば、当時は「売れ残りのクリスマスケーキのようにならないように」と言われていたように適齢期は24歳でした。25歳になると売れ残りと言われた時代です。
短大の友人の結婚が決まったと聞くと「おめでとう」と言いながら、心では悲しんでいました。結婚してからは、すぐに子供が欲しかったのに与えられなかった時期に友人のおめでたの報告を受けると、やはり口では「おめでとう」といいながら悲しみました。

自分に子供が与えられた後には友人の妊娠、出産を心から喜べるようになったのですが、自分の願いがかなわないうちは喜ぶことができないという、自分勝手な人間でした。
キリスト教はご利益宗教ではないのに、祈り求めることといえば、自分の健康、夫、子供の健康、幸せばかりで、人のためにはオマケのように少しだけ祈っていたのでした。

「心のすき間」にも書きましたが、わたしは洗礼を受けて間もなく教会を離れてしまいました。その間、結婚して長男が与えられました。同じ団地で向かいの棟に住む人と子供を通して知り合いになりました。
彼女は創価学会に入っていました。なんども集会に誘われて仕方なく行ったのですが、どうしても気が進まないのであるとき、「わたしはクリスチャンだから、そういう集まりには行きたくないの」と断りました。
すると、その人はキリスト教の悪口をいい、「処女がキリストを産んだなんていうことをまさか本気で信じていないでしょうね」と、詰め寄りました。優柔不断なわたしは「信じてないけど…」と答えて、彼女は「ああよかった」と喜んだのを覚えています。

本当は信じていたのに嘘をついたのです。信仰は違っても、彼女はわたしにとって必要な人でした。はじめての子供をかかえて、母乳のことや離乳食のことなど色々不安のある時期でしたが、彼女はよき相談相手、よき助言者でもありました。同ころ生まれた乳飲み子を持つ母親で親しい人はそのときは彼女しかいませんでした。わたしは、彼女の友情を失いたくなかったのです。
 
でも嘘をついたことで神さまを裏切ったうしろめたさと罪の重さに耐えられなくなって、再び教会へ足を向けたのでした。「心のすき間(6)」では、再び教会に行くようになった理由を喘息の不安のためと書きましたが、この出来事もその理由のひとつです。
 
3年のブランクの後、教会へいって、平日の婦人会にも出席し、そこで入門の学びをしているとき、イザヤ書53章4、5節のみ言葉がわたしの心をとらえました。

 まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎(とが)のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。


(自分勝手な道を歩いていたのは、このわたしだ。自分本位で、人から嫌われないように嘘までつき、人の幸せを願うどころか嫉妬していた。このわたしの罪がキリストを十字架につけたのだ)とはっきりとわかったのです。
 
わたしは自分の罪のためにさめざめと泣きました。でも、その後で罪赦された喜びが沸き上がってきました。「「種入れをかかえ泣きながら出ていく者は、束をかかえ喜び叫びながら帰ってくる(詩編126:6)」

神様は罪に泣く者のために「赦し」というすばらしいプレゼントを用意して下さっています。キリストが十字架にかからなかったら、わたしの「罪」は永遠に赦されないのだと思うと、イエスさまのしてくださったことに胸が熱くなるのです。


その後、創価学会の友人とどうなったかについては、明日書きます。

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