「祈りを聞かれる神」 詩篇28篇1~9節
この詩篇は祈りの素晴らしさを詩っています。この詩篇には三種類の「手」がでてきます。一つは「私の手」(2)、二つ目は「悪を行う者の手」(4)、最後に「主の手」(5)です。こられらの「手」を追いながら御言葉を取り次ぎます。
Ⅰ 祈り求める者
「私は手をあげる」とは祈りの姿であります。変わらない岩なる主に向かって祈っています。なぜ祈るのでしょうか。それは主が恵みの主であり、主の御手のわざを知っているからであります。悪者は主のなさること、主の御手のわざを知りません。
Ⅱ 祈りに応える神
詩人は祈りの中で、主に向かって手を差し伸べて祈ります。主の御手が詩人に触れ、詩人は祈りが聞かれたことを確信するのです。「聞かれた」は完了形です。ですから7節にあるように、助けを得たので詩人の心は大いに喜び、主をほめたたえています。
私達信仰者の手のわざは、何よりも祈りのわざでありたいのです。主は応えてくださる方です。
2010/8/8 説教者 杉本守
この詩篇は祈りの素晴らしさを詩っています。この詩篇には三種類の「手」がでてきます。一つは「私の手」(2)、二つ目は「悪を行う者の手」(4)、最後に「主の手」(5)です。こられらの「手」を追いながら御言葉を取り次ぎます。
Ⅰ 祈り求める者
「私は手をあげる」とは祈りの姿であります。変わらない岩なる主に向かって祈っています。なぜ祈るのでしょうか。それは主が恵みの主であり、主の御手のわざを知っているからであります。悪者は主のなさること、主の御手のわざを知りません。
Ⅱ 祈りに応える神
詩人は祈りの中で、主に向かって手を差し伸べて祈ります。主の御手が詩人に触れ、詩人は祈りが聞かれたことを確信するのです。「聞かれた」は完了形です。ですから7節にあるように、助けを得たので詩人の心は大いに喜び、主をほめたたえています。
私達信仰者の手のわざは、何よりも祈りのわざでありたいのです。主は応えてくださる方です。
2010/8/8 説教者 杉本守