静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2007年07月08日 | 説教要約
「恐れることはない」 マルコによる福音書6章45~56節

 神の言葉により大群衆の心を満たし、神の奇跡による食物でと大群衆の腹を満たされた主イエスは、弟子達を舟に乗り込ませ沖へ漕ぎ出だせ、自らは祈るために静かな場所へ行かれました。湖の真ん中まで来たとき、夜の間中、弟子達は向かい風に悩まされていました。

Ⅰ 恐れる人間
 すでに舟を漕ぎ出して、6時間以上ははるかに過ぎていて、時は午前3時で辺りは暗く、弟子達の疲労度はピークになっていました。その弟子達の苦労を知り、主イエスは近づかれたのであります。しかし、暗闇と疲労のせいか、弟子達は主イエスを幽霊だと思い、叫び声をあげたのです。彼らにとって、見たこともない光景、海の上を歩かれる者の姿を、どう受け止めていいかわからなかったのです。人間は、未知の世界や自分の領域を超えた世界に出くわすと、恐れを持つのです。

Ⅱ 恐れから解放する主イエス
 漕ぎ悩んでいる彼らを主イエスはほっておかれません。彼らに近づき、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と語られたのです。この「わたしだ」は原語では「エゴー エイミー」で、あのモーセが燃える柴の中より語られた神の名「わたしは有って有る者」をギリシャ語であらわす言葉、つまり、「私は永遠から永遠の神であり、全能の神である」ということであります。「その神なる私が、ここにいるではないか、恐れることはないのだ」と言っているのです。そして、主イエスは舟の乗り込まれますと風はやんだのです。

 私達は、弟子達のように未知の世界、自分の領域を超えた世界に出会うと恐れを持ちます。しかし、主は私達のすぐ隣で、声をかけてくださっているのです。舟に主イエスを迎えたように、私達も主イエスを心に迎え入れましょう。風はやむのですから。

2007/7/8 説教者 杉本守
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講壇の花

2007年07月08日 | 生花

投稿 S・I

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7月8日 天のマナ

2007年07月08日 | 天のマナ
「人生の節目」    「すべての営みに時がある」(伝道の書3:1)

 近くのある教会に行く度に、その教会の横にすっと空を目指して伸びている竹をいつも見ます。細いのに高く伸びて、風が吹いても折れないでいる竹に見入り感心をするのです。なぜ竹は強いのでしょうか。それは節があるからだと言われます。

 人生には、ざまざまな節目があります。生きていると迎える、誕生日、成人式、還暦、喜寿、米寿、白寿、葬式がまずありますし、他にも学校で言えば入学式や卒業式、会社で言えば入社式や退社式、開会式や閉会式、結婚で言えば結婚式に銀婚式、金婚式、教会では洗礼式や聖餐式などの節目であります。しかし、最近の社会の風潮は、この節目をおろそかにしている傾向にあるのではないでしょうか。特に「結婚式」はおろそかにされています。人生を二人で歩み始めるスタートを神の前、公の前で誓約して歩む幸いをおろそかにしては、深い自覚と責任をもって結婚生活を歩めるのでしょうか。

 これらの節目は、人間に人生とが何かということを厳粛に考えさせ、深い自覚と責任をもたらせるものであります。時に内容のない式典があり、そういう式典については主催者側が考える必要がありますが、私達の人生は、マンネリした歩みではなく、しっかりした節のある人生の歩みであり、信仰の歩みでありたいのです。
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