静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2007年07月01日 | 説教要約
「神の御手の中に」 マルコによる福音書6章30~44節

 五千人の給食の奇跡より、信仰とはどこからくるのかを見ていきます。

Ⅰ 信仰を試す主イエス
 主イエスは、神の国の話を聞き夕暮れを迎えた群衆に、食物を与えるようにと弟子たちに言われました。5000人を超す群集です。人間的にはどう考えても無理なことです。信仰とは、人間のできることによっては試されません。人間にできないことだから、信仰が試されるのです。ヨハネ6章におきましては、「主は自分でしようとすることをよくご承知であった」とあります。これは、信仰の試練の背後には、主の深いご計画と主がなされようとする御業が必ずあるということです。それを見ることができるかという私達の信仰へのチャレンジなのです。

Ⅱ 不信仰による応えと信仰への応え
 主イエスに信仰のチャレンジを受けた弟子たちの中で、まずはピリポが応えます。状況把握と計算の賜物がある彼は、「200デナリ(一日の労働賃金が1デナリ)のパンがあっても足りない」と応えました。彼は、今までたくさんの主の奇跡を目の前にしながら、全能の主イエスを計算にいれていませんでした。

 また、アンデレは、行動派です。1人の子供を見つけ、主イエスに彼がささげる5つのパンと2匹の魚をもってきたのです。しかし、彼も「こんなに大ぜいの人では何になりましょう」と信仰的な応えをすることはできませんでした。主イエスは、弟子たちが、「私たちの手でできるだけのことをいたしました。あとは主イエスあなたが、御業をあらわされることを信じています。あなたにおゆだねいたします」との信仰の言葉を期待していたのでしょう。

 最後にこの子供はどうだったでしょうか。主イエスを見ていました。主イエスのお役に立ちたいという純粋な気持ちで、精一杯をささげたのです。彼の姿に信仰をみるのです。そして、彼の手から、主イエスの御手にパンと魚が落ち込んだ時に、主の御業がなされ、5000人以上の者が満たされ、なお余ったのです。

 信仰とは、主イエスを見るところから来るのです。そしてその信仰が主の御手の中に落ち込むときに、大いなる御業を私たちは体験するのです。

2007・7・1 説教者 杉本守
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7月1日 天のマナ

2007年07月01日 | 天のマナ
「人の労をねぎらう大切さ」

 ロサンゼルスでの生活を終え、日本の静岡に遣わされて10年目を迎えました。久しぶりに帰国直前に書いた日記を見てみました。その中に「日本に帰って心がけること7条」と記した箇所に目がとまりました。その一つに、「苦労してない人は一人もいないから、接する人の労をねぎらうこと」と書いてありました。ロサンゼルスでは、牧会の苦労はありませんでしたが、言葉と習慣の違いの苦労や経済的な苦労がありました。人にはそれぞれに苦労があることを知り、ねぎらうことの大切さを教えれたのです。

「よくやってきたね」「よくやってるね」という人の労をねぎらう言葉は、どんなに語られる人を生かし、その人のうちにエネルギーを起させるでしょうか。「よくやってくださって、ありがとうございます」という前に、「遅いとかの苦情」や「間違えの指摘」などを、私などすぐに指摘してしまうので困ったものです。この言葉を語られた人の内にあるやる気とエネルギーをどんなに奪ってしまったか申し訳ない限りです。相手を生かし、相手の徳を高める気持ちと言葉をもちたいと祈る次第です。

 「わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである」(ローマ15章2節)
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講壇の花

2007年07月01日 | 生花

担当 A・N姉
                                          投稿 S・I

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