静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2007年07月15日 | 説教要約
「神による罪のゆるし」 マルコによる福音書7章1~23節

 救い主イエスの名が広まるにつれ、救い主を待ち望んでいたユダヤ教のパリサイ人や律法学者は、主イエスを救い主として受け入れない所か、主イエスと弟子達の行動を調査し非難したのでありました。それは、「パンを食べる前に手を洗わない」というもので、衛生的な意味でとがめたのではなく、ユダヤ人のしきたりとして、「パンを食べる前に手を洗うという宗教的儀式を行わなければならない(宗教的に他者から受けたかも知れない汚れを洗い落とす)と定められているのにしない」というもものでした。彼らは神の言葉(律法)よりも、人の言い伝え(神の言葉に人間が付加したもの(拡大解釈)を優先していたのであります。
 それに対して主イエスは、「先祖からの言い伝えには真の権威はあるものではなく、神から与えられた言葉(律法)こそが真に守るべき権威のあるものであり、あなたがたこそ、神の戒めを本当に守っていない。口先では神を敬うが、心は離れ捨てている。神の言葉を無にしている」と応えました。
 外から入ってくるものは、人の腹を通り外へ出るだけ、しかし、人の内から出てくるものが人を汚すのであります。

Ⅰ 人の内から出てくるもの
  1 人の心の中から悪い思いが出てくる(マタイ23:25)
  2 悪い思い、性的乱れ(不品行、姦淫、好色)、盗み、貪欲、欺き、殺人、    邪悪、ねたみ、高慢、愚痴
  3 このような罪の支払う報酬は、人格の崩壊、関係の混乱、永遠の死であり    ます。

Ⅱ 神の内からでてくるもの
  神の賜物は、ロマ3:22~にあるように、イエス・キリストを信じる信仰に よる義であり、イエス・キリストのあがない(十字架)による義(罪のゆるし) であります。また、ローマ6:23によるとイエス・キリストによる永遠の命で あります。

 私達のうちから出る罪を認め、主イエスを信じ歩みましょう。主イエスは罪を赦し、義とし永遠の命を与えるのです。

2007/7/15  説教者 杉本守
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7月15日 天のマナ

2007年07月15日 | 天のマナ
「あなたがたは世の光である」           

 主イエスは、弟子達に向かい、「あなたがたは世の光である」と言われました。弟子達のどこに「世の光」としての根拠があったのでしょうか。それは、主イエスを救い主と信じ従っていたということです。主イエスは、神を信じ従う者を「世の光」とし、「世の光」と見ておられるのです。では、神様はこの世界をどのようにみているのでしょうか?神の目から霊的にこの世界を見たならば、この世界は暗闇であります。神から離れ、自己中心に歩む人達が罪を犯し続け、罪の奴隷、サタンの奴隷になって永遠の滅びに向かっています。「愛」は「欲望」に刷り返られ、「真実、誠実、忠実、純潔」は死語となりつつあります。
 
 しかし、その中で神に立ち帰り神の救いを受けたキリスト者達が、暗闇を照らす灯台のように、主イエスの光を放っていることも見ています。教会堂でキャンプで聖会で、救われる人が起こされる時、その人は「世の光」とされ、新しく光を照らし出すのです。しかし、逆もありえます。せっかく「世の光」とされたのに、世俗の波にのまれ神に従うことをやめ、「世の光」としての輝きを失ってしまうことです。それはどんなに本人とって、周りの人々にとって損失となるでしょうか。私達キリスト者には、「世の光」とされていること、主イエスの光を放っているという深い幸いな自覚が必要なのです。
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受付の花

2007年07月15日 | 生花

担当 S・H姉
                                           投稿 S・I

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