「一つ一つのことに神の栄光があらわれる」
時々、牧師はメッセージ中に、聖霊に示され導かれ準備していないことを語ることがあります。先週の礼拝でのメッセージ中に私は、聖霊によって次の事を気づかされ語りました。今までは、「神の栄光があらわれる」というと、何か大きな集会を開いたり、多くの人々が救われたり、信仰に燃やされ献身したりすることと思っていました。しかし、それだけではないことを示されたのです。「神の栄光があらわれる」とは、日々の働きの中においても、神が私達を通して「神の栄光をあらわしてくださっている」ということです。雑用だと思っていたこと、毎日の繰り返しだと思っていたことにも、神の栄光はあらわれていますし、神の御業はそこにも進んでいるのです。家庭での一枚一枚の皿洗いにも、部屋の掃除にも、ゴミ捨にも、料理を作ることから着替え、歯を磨く、風呂に入ることにもです。仕事場での書類作成にも、伝票処理にも、コピーや印刷にも、車の運転、レジから外での作業に至るまで、クリスチャンにとって一つ一つが神の栄光をあらわし、神が御業を進めることに加わらせていただいているのです。もっとこの意識を深めたいのです。
「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(Ⅰコリント10:31)
2016・1・31
時々、牧師はメッセージ中に、聖霊に示され導かれ準備していないことを語ることがあります。先週の礼拝でのメッセージ中に私は、聖霊によって次の事を気づかされ語りました。今までは、「神の栄光があらわれる」というと、何か大きな集会を開いたり、多くの人々が救われたり、信仰に燃やされ献身したりすることと思っていました。しかし、それだけではないことを示されたのです。「神の栄光があらわれる」とは、日々の働きの中においても、神が私達を通して「神の栄光をあらわしてくださっている」ということです。雑用だと思っていたこと、毎日の繰り返しだと思っていたことにも、神の栄光はあらわれていますし、神の御業はそこにも進んでいるのです。家庭での一枚一枚の皿洗いにも、部屋の掃除にも、ゴミ捨にも、料理を作ることから着替え、歯を磨く、風呂に入ることにもです。仕事場での書類作成にも、伝票処理にも、コピーや印刷にも、車の運転、レジから外での作業に至るまで、クリスチャンにとって一つ一つが神の栄光をあらわし、神が御業を進めることに加わらせていただいているのです。もっとこの意識を深めたいのです。
「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(Ⅰコリント10:31)
2016・1・31