「愛修会の恵み」 使徒行伝20章7~12節
13日(月)に15名で静岡市内の殉教の地と碑を三か所巡りました。非常に幸いな学びの時となり、信仰が燃やされました。ヘブル書11章には、「これらの人はみな、進行をいだいて真だ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。」(13.14)「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(16)とあります。
キリスト信者が迫害を受け、殉教する中で、彼らが持っていた信仰も上記のみ言葉であったに違いありません。彼らは地上だけの歩みではなく、すでに永遠の歩みをしていたのです。信仰とはアクセサリーではなく、キリスト者にとって命であり歩みそのものであります。人々の前に輝き、主に喜んでいただける信仰をさらに持たせていただきましょう。
2014/10/19
13日(月)に15名で静岡市内の殉教の地と碑を三か所巡りました。非常に幸いな学びの時となり、信仰が燃やされました。ヘブル書11章には、「これらの人はみな、進行をいだいて真だ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。」(13.14)「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(16)とあります。
キリスト信者が迫害を受け、殉教する中で、彼らが持っていた信仰も上記のみ言葉であったに違いありません。彼らは地上だけの歩みではなく、すでに永遠の歩みをしていたのです。信仰とはアクセサリーではなく、キリスト者にとって命であり歩みそのものであります。人々の前に輝き、主に喜んでいただける信仰をさらに持たせていただきましょう。
2014/10/19