「主イエスの弟子としての歩み」 マタイによる福音書5章21~37節
キリスト者の歩みは、律法による歩みではなく、主イエスの福音のよる歩みであります。言い換えますと、パリサイ人の義にまさる主イエスの義に生かされる歩みであります。
Ⅰ 表面的な行為の中に生きる人間
「殺すな」「姦淫するな」「偽り誓うな」とは、律法である十戒の一部と律法について説かれたものであります。パリサイ人らは、これらを守っていましたが、表面的で形式的なものになっていました。表面的には守ることによって、律法を守っていると主張し、律法の基本的精神である内面的なものには目を瞑り逃げ道を作っていました。
内面的なものとは、「殺意をいだく怒り」「みだらな思い(情欲)で異性をみること」「誓いを守れない思い」であります。内面的な葛藤を持ちながら、思考においては自らを吟味せず、さまざまな言いがかりにおいて逃げていたのです。
Ⅱ内面的な解決を与える主イエス
主イエスは、その内面においても、神の光を投じ、「和解」「罪に対しての厳格に向きあい、離れ、きよくされること」「約束への誠実」を語られたのでありました。行為においてだけではなく、内面においても義とされることが、パリサイ人の義にまさるキリスト者の義なのであります。
このキリスト者の義は、自らの努力ではなく、律法を完全に成就された主イエスに身を置き、キリストの義をいただくことによって、得られるのであります。
2009/11/1 説教者 杉本守
キリスト者の歩みは、律法による歩みではなく、主イエスの福音のよる歩みであります。言い換えますと、パリサイ人の義にまさる主イエスの義に生かされる歩みであります。
Ⅰ 表面的な行為の中に生きる人間
「殺すな」「姦淫するな」「偽り誓うな」とは、律法である十戒の一部と律法について説かれたものであります。パリサイ人らは、これらを守っていましたが、表面的で形式的なものになっていました。表面的には守ることによって、律法を守っていると主張し、律法の基本的精神である内面的なものには目を瞑り逃げ道を作っていました。
内面的なものとは、「殺意をいだく怒り」「みだらな思い(情欲)で異性をみること」「誓いを守れない思い」であります。内面的な葛藤を持ちながら、思考においては自らを吟味せず、さまざまな言いがかりにおいて逃げていたのです。
Ⅱ内面的な解決を与える主イエス
主イエスは、その内面においても、神の光を投じ、「和解」「罪に対しての厳格に向きあい、離れ、きよくされること」「約束への誠実」を語られたのでありました。行為においてだけではなく、内面においても義とされることが、パリサイ人の義にまさるキリスト者の義なのであります。
このキリスト者の義は、自らの努力ではなく、律法を完全に成就された主イエスに身を置き、キリストの義をいただくことによって、得られるのであります。
2009/11/1 説教者 杉本守