「ゆとり教育」なる教育内容削減により学力崩壊を招いた、とされる教育政策が全面的に見直されつつあります。一度決めたらどこまでも、の伝統的な突撃精神を具現する政府にしては早い変わり身であり、国民からの強い反発を無視できなくなったというところでしょう。
この「ゆとり教育」の旗振り役を務めたとされる元文部官僚、寺脇研氏だけは今でも「ゆとり教育は間違っていない」と発言を続けており、この度は「日経ネットPlus」にも寄稿されたようです。読んでみても合理的な説明のない感情論だけで、「なぜ日本人の学力が落ちても構わないか」を示していません。そう、寺脇氏は「ゆとり教育で学力が落ちない」とは言っていません。「落ちたからどうなんだ」という確信犯です。
同コラムに対するコメントが多数ありましたが、ほとんどは日本人の学力低下、ひいては科学技術力や科学技術に対する理解の低下を衷心から憂うもので、寺脇氏に全面賛同する意見は皆無でした。単に失政の責任逃れを論理性のない文章でぐだぐだ綴っているだけでは説得力がなく、支持がないのも当然でしょう。「ゆとり教育」の愚劣さについては既に6年前の「週刊新潮」の小浜逸郎さんのコラムに読みやすくまとめられています。
寺脇氏が失敗から何も学んでいないのは明白ですが、我々は彼の失敗から学ぶべきです。意思決定が必要な場面において、「意図せざる結果」とか「一段階論理の正義」と批判される短視眼的な決定を採用することにより、その場では最善策に見えても長期的には多くの人が不利益を被るような実例が世の中にはたくさんあります。「ゆとり教育」もその一例なのかも知れませんが、それにしてもこれは簡単に先が見えるので、随分低次元な「意図せざる結果」を招いたものだと思います。
この「ゆとり教育」と、「15の春は泣かせない」の名文句を残して京都の高校教育を崩壊させた(公立高校の学力が低下し、京大への進学者が激減した)当時の蜷川知事には、ネットに流布する"KY"(空気嫁、空気読めないの意味で使われる略語)をもじって、"SSY"(園崎嫁、その先読め)という評価を贈りたいと思います。かくも結果が読めない愚昧さには、有名な川柳「へぼ将棋、王より飛車をかわいがり」にも通じるstupidityを感じますね。Scott Adamsさんなら上手に漫画にしてくれると思います。
授業内容の削減により教科書をなぞるのは確かに楽になるでしょう。しかし、教科書の裏にある自然法則まで簡略化されるわけではありません。教科書が簡単になったからと言って、新聞や小説まで簡単になってくれるわけでもありません。自ずとそこには、「上級の学校に行くために必要な学力」や「社会に出るために必要な学力」があります。多くの保護者はそれがわかっていますから、公立学校が学習内容を極端に削減したことに危惧を抱き、一斉に私立学校や学習塾に走ったのです。学歴志向の低下で青息吐息だった民間教育産業は、「ゆとり教育」のお陰で息を吹き返し、保護者の支出は増大しました。こんな簡単なことが予想できなかったでしょうか?
よく言われるように、教育は国家百年の計です。国民が教育に力を入れて、その結果が出るまでに百年とは言わないまでも数十年は掛かります。明治時代に日本が列強に伍して奇跡の経済成長を果たしたのには、江戸時代の寺子屋などによって当時の国民の教育水準が既に世界レベルに達していたことが大きな助けとなりました。以来今日に至るまで、日本人は子弟の教育について特に力を入れてきました。日本をモデルとしてアジアなどの発展途上国が同様に教育体制を整備したとも聞いています。今のアジアの隆盛は長年の教育投資が実った結果とも言えるでしょう。日本が転んでいる間、彼らは待ってくれるわけじゃありません。現代の教育は世界との競争なのですから、国内の競争を止めても益はないのです。
資源のない日本では、多くの国民がドメスティックな産業で豊かな生活を続けることなど不可能です。豊かでなくてもいいじゃない、って?寺脇氏もそんな言い訳をしていました。でも、本当の貧乏ってわかりますか?アフリカや南米の少数民族のように、国の経済活動の恩恵を受けることなく、教育が受けられないために貧困は固定化し、その場しのぎのテロリズムや非合法活動に手を出し、娘は売春婦として売られてHIVに感染し、幼い子供は予防注射も受けられず、悪魔のような臓器密売団からも狙われる。その日の食料にも事欠く貧困地帯では、家族の生命すら守れません。「島原の子守唄」の陰惨な歌詞が現実だったのはそんな昔のことではないのです。
幸いにして、日本人の多くは働き過ぎなどと言われながらも、家族に安全な生活をさせる程度の豊かさを享受しています。これはすべて我々が働いて生み出したものでしょう。努力を止めるのは簡単です。でも坂を下り始めたら、踏み止まるのは容易ではありません。「棒ほど願って針ほど叶う」のが世の中の仕組みなら、「ほどほど」の目標は最初から間違っています。努力して、産業の効率をより高めることで「ゆとり」を作り出すことはできるでしょう。しかし努力を止めてもゆとりは生まれません。教育政策が正しい方向に向かうように、少なくとも国の誤りによって保護者の努力を無駄にしないように切に願うものです。
この「ゆとり教育」の旗振り役を務めたとされる元文部官僚、寺脇研氏だけは今でも「ゆとり教育は間違っていない」と発言を続けており、この度は「日経ネットPlus」にも寄稿されたようです。読んでみても合理的な説明のない感情論だけで、「なぜ日本人の学力が落ちても構わないか」を示していません。そう、寺脇氏は「ゆとり教育で学力が落ちない」とは言っていません。「落ちたからどうなんだ」という確信犯です。
同コラムに対するコメントが多数ありましたが、ほとんどは日本人の学力低下、ひいては科学技術力や科学技術に対する理解の低下を衷心から憂うもので、寺脇氏に全面賛同する意見は皆無でした。単に失政の責任逃れを論理性のない文章でぐだぐだ綴っているだけでは説得力がなく、支持がないのも当然でしょう。「ゆとり教育」の愚劣さについては既に6年前の「週刊新潮」の小浜逸郎さんのコラムに読みやすくまとめられています。
寺脇氏が失敗から何も学んでいないのは明白ですが、我々は彼の失敗から学ぶべきです。意思決定が必要な場面において、「意図せざる結果」とか「一段階論理の正義」と批判される短視眼的な決定を採用することにより、その場では最善策に見えても長期的には多くの人が不利益を被るような実例が世の中にはたくさんあります。「ゆとり教育」もその一例なのかも知れませんが、それにしてもこれは簡単に先が見えるので、随分低次元な「意図せざる結果」を招いたものだと思います。
この「ゆとり教育」と、「15の春は泣かせない」の名文句を残して京都の高校教育を崩壊させた(公立高校の学力が低下し、京大への進学者が激減した)当時の蜷川知事には、ネットに流布する"KY"(空気嫁、空気読めないの意味で使われる略語)をもじって、"SSY"(園崎嫁、その先読め)という評価を贈りたいと思います。かくも結果が読めない愚昧さには、有名な川柳「へぼ将棋、王より飛車をかわいがり」にも通じるstupidityを感じますね。Scott Adamsさんなら上手に漫画にしてくれると思います。
授業内容の削減により教科書をなぞるのは確かに楽になるでしょう。しかし、教科書の裏にある自然法則まで簡略化されるわけではありません。教科書が簡単になったからと言って、新聞や小説まで簡単になってくれるわけでもありません。自ずとそこには、「上級の学校に行くために必要な学力」や「社会に出るために必要な学力」があります。多くの保護者はそれがわかっていますから、公立学校が学習内容を極端に削減したことに危惧を抱き、一斉に私立学校や学習塾に走ったのです。学歴志向の低下で青息吐息だった民間教育産業は、「ゆとり教育」のお陰で息を吹き返し、保護者の支出は増大しました。こんな簡単なことが予想できなかったでしょうか?
よく言われるように、教育は国家百年の計です。国民が教育に力を入れて、その結果が出るまでに百年とは言わないまでも数十年は掛かります。明治時代に日本が列強に伍して奇跡の経済成長を果たしたのには、江戸時代の寺子屋などによって当時の国民の教育水準が既に世界レベルに達していたことが大きな助けとなりました。以来今日に至るまで、日本人は子弟の教育について特に力を入れてきました。日本をモデルとしてアジアなどの発展途上国が同様に教育体制を整備したとも聞いています。今のアジアの隆盛は長年の教育投資が実った結果とも言えるでしょう。日本が転んでいる間、彼らは待ってくれるわけじゃありません。現代の教育は世界との競争なのですから、国内の競争を止めても益はないのです。
資源のない日本では、多くの国民がドメスティックな産業で豊かな生活を続けることなど不可能です。豊かでなくてもいいじゃない、って?寺脇氏もそんな言い訳をしていました。でも、本当の貧乏ってわかりますか?アフリカや南米の少数民族のように、国の経済活動の恩恵を受けることなく、教育が受けられないために貧困は固定化し、その場しのぎのテロリズムや非合法活動に手を出し、娘は売春婦として売られてHIVに感染し、幼い子供は予防注射も受けられず、悪魔のような臓器密売団からも狙われる。その日の食料にも事欠く貧困地帯では、家族の生命すら守れません。「島原の子守唄」の陰惨な歌詞が現実だったのはそんな昔のことではないのです。
幸いにして、日本人の多くは働き過ぎなどと言われながらも、家族に安全な生活をさせる程度の豊かさを享受しています。これはすべて我々が働いて生み出したものでしょう。努力を止めるのは簡単です。でも坂を下り始めたら、踏み止まるのは容易ではありません。「棒ほど願って針ほど叶う」のが世の中の仕組みなら、「ほどほど」の目標は最初から間違っています。努力して、産業の効率をより高めることで「ゆとり」を作り出すことはできるでしょう。しかし努力を止めてもゆとりは生まれません。教育政策が正しい方向に向かうように、少なくとも国の誤りによって保護者の努力を無駄にしないように切に願うものです。