いーなごや極楽日記

極楽(名古屋市名東区)に住みながら、当分悟りの開けそうにない一家の毎日を綴ります。
専門である病理学の啓蒙活動も。

「原発停止はある意味集団自殺」発言に思う

2012年04月19日 | たまには意見表明
 報道によれば、仙谷由人政調会長代行が名古屋の講演で、原発を停止したままにしておくことは経済と生活への影響が大きく、ある意味で集団自殺をするようなことになる、と発言したそうです。

 さすがにロイターなどは発言内容に対して中立の扱いですが、中日新聞あたりは相当に批判的な記事になっています。今までの報道姿勢を見れば予想できることですが。中日のスタンスは、リスクとベネフィットを天秤に掛けて評価することなしに、リスクばかりを感情的に拒絶する読者層には共感されるでしょう。しかし同社が日本人の生活について責任を負っているわけではありません。

 石油価格、あるいは天然ガスの価格がどこで決まっているのか、理解できる人には仙石発言は妥当なものです。そう、どちらも市場で決まります。

 「オレんとこは、先祖代々オタクの店から炭を買ってるだ。これからも絶対に他では買わねえし、ガスに替える気もねえから頼むぞお。」と言われれば、意気に感じた店主が「おお、わがったとも。どこの家より安くしてやっから任しとけ!」と言ってくれるのはごく限られた経済圏だけです。世界有数のエネルギー消費国である日本の需要を賄う石油の量は膨大で、これを国際市場で調達しないといけません。「世界経済のネタ帳」によれば去年の原油輸入額は約1850億ドル。為替レートにもよりますが80兆円近く。これだけ巨額だと、ただ安定して購入するだけでも数多くのプロの労力が必要です。石油が日本の生命線の1つであることは疑いようがありません。

 その日本が原発を止めたとしたら、喜ぶのはヘッジファンドのマネージャーとか、アラブの王様でしょう。ヘッジファンドがすべての原油を買い占めることはできませんが、日本の石油依存が大きくなるぞ、という波に乗って先物相場を吊り上げ、勢いをつけることはできます。こうなると日本政府が介入しても止められない上昇基調になります。好例は1992年のポンド危機。大物とは言え一介の投機家であるジョージ・ソロスのポンド売りを契機に、「ソロスに乗れ!」と世界中の巨大投機資金がポンド売りに走り、イギリス政府の介入も空しくポンドの大幅下落につながった事件です。国家といえども市場の流れには逆らえないのです。

 自ら石油に依存する以外の選択肢を放棄してしまえば、投機筋の絶好の標的になるだけです。投機筋に膨大な利益をもたらすのは、もちろん日本人の資産。これが経済と生活に深刻な悪影響をもたらし、ある意味で日本人の集団自殺になる、という表現は何一つ間違っていません。もし菅元首相の構想みたいに原発を即時永久停止するならば、世界中のヘッジファンドから「日本はいい国だ」と感謝されるでしょう。それでなくても原発が次々停止することで、4兆円分の原油を余計に輸入せざるを得なくなったのが現状です。

 それでは化石エネルギー以外の再生エネルギーで、と言っても、まだまだ石油や原子力にコストと安定性で太刀打ちできません。石油や原子力の1kwh当たりの発電コスト試算は、条件次第である程度上下しますが、5円台から10円台。これに対してソフトバンクなどのメガソーラー業者が採算ラインとしているのが40円台。ソーラー発電はこの数年で始まったものではなく、何十年も前の石油ショック以来、巨費を投じて研究を重ねた末がこの程度なのです。近年では改良の余地があまりなくなり、技術革新がほとんどなくなったため、価格競争力の強い中国企業に生産が集中しています。市場原理に反してメガソーラーに莫大な補助金を投じたところで、喜ぶのはソフトバンクと中国企業だけです。

 「お金より命が大事」などと言いますが、公共インフラ、医療、食料、防災などを考えればわかるように、お金がなければ命も守れません。福島の原発事故は想定外の災害による重大な事例ではありますが、それでも被ばくによる死者はいないし、今までの医学的根拠に基づくなら、これからも死者が出る可能性はごく低いです。反面、全国の原発を廃止して電力が足りなくなることは、国民の生活つまり命を守るための財政基盤を著しく毀損することがほぼ確実です。これからも日本に住み続け、子供を守り育てる生活者として、仙石発言を支持せざるを得ません。
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3 コメント

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再投稿 (Yoshio)
2012-04-27 00:10:01
●先日(2012/4/24)投稿しましたが,使い方がイマイチよく分からず,タイトルを入れなかったためか,それとも,承認されなかったためか,コメントが反映されていないようです。理由を判断しようがないので,再度コメントを投稿します。これを最後とします。

●2012/4/21 付けの朝日新聞で,「仙谷発言問題」を取り上げた,くだらない投稿があったので,ネットで少し調べていたら,こちらのブログに辿り着きました。

新聞投稿は,もはや,退職者らの生き甲斐たるものと化しており,文字数に制限があるとはいえ,その内容の低さには耐えられません。こちらのエントリーは,「マトモな意見」だったので,エントリー内容と噛み合っていないかもしれませんが,この場を借りて,自分でも少し考えたことをコメントさせて下さい。

●インターネットは,「教育格差」に拍車を掛けている。

インターネットの利点の1つは,1冊の本は書けないが,1ページや1行の文章なら書けるような人達の知識や経験などに基づく情報(インテリジェンス)を入手できることである。

一方,その欠点の1つは,「マトモな意見」と「マトモでない意見」が同列に扱われ,それらの判断基準が,読者の知的レベルに依存することである。つまり,「マトモな意見」を論理的に理解できないが,「マトモでない意見」は感覚的に理解できる読者には,「マトモな意見」が「マトモでない意見」とされ,「マトモでない意見」が「マトモな意見」と認識されてしまう。

以前ならば,(一応)一定水準以上の内容と認められたものしか,人の目に触れることは無かったが,インターネットは,その環境を,その是非は別として,破壊してしまった。

●その代表例が,今,日本を騒がせている「原発問題」における数々の言動である。

「マトモな意見」を論理的に理解できないが,「マトモでない意見」は感覚的に理解できる人達には,「原発再稼働」が「マトモでない意見」とされ,「脱原発」が「マトモな意見」と認識されてしまう。彼らの思考パターンは,客観的論理ではなく,条件を無視した,自分に都合の良い主観的論理であるので,彼らを説得させることは不可能である。

「原発再稼働」に反対する人の論理は,「喫煙」に反対する人の論理と同じであるので,比較すると分かりやすい。

少数である喫煙の“悪影響”は問題にするが,多数である飲酒の“悪影響”は問題にしない。これは,彼らにとって,禁酒の主観的弊害が大きいからに他ならず,“悪影響”という客観的弊害が重要なのではないからである。

少数(30%)である原子力発電の“悪影響”は問題にするが,多数(60%)である火力発電の“悪影響”は問題にしない。これは,彼らにとって,脱火力発電の主観的弊害が大きいからに他ならず,“悪影響”という客観的弊害が重要なのではないからである。

彼らは,“安全性”という,一見,客観的基準だと認識させるコトバを使って,自分らの考え(脱原発)を正当化するが,実際は,脱原発を進めるための主観的論理に過ぎない。

このことは,「その“安全性”をクリアした原子力発電所は建設しても良い」,「火力発電の“安全性”は大丈夫なのか?」,「原発停止で生じる想定外も考えなくてはならない」など,自分に都合の悪いことは決して口にしない,彼らの言動が証明している。これは,彼らにとって,原子力発電の主観的弊害が大きいからに他ならず,“安全性”という客観的基準が重要なのではないからである。

●そもそも,「原発問題」の論点は,「原発の是非」ではない。

我々の命や生活は,今や,電気によって成立し,経済システムによって維持されている以上,今後も,世の中の絶対的危険を排除し,相対的安全を向上させながら,そして,ある面では相対的危険を受け入れながら,今の「平和で,安全で,豊かで,快適で,健康的で,衛生的で」ある生活を維持していく社会を持続していくことでしか,守っていくことが出来ない。これは,つまり,「エネルギー問題」と「経済問題」に他ならない。

「説明責任」を押しつけるだけのグーグル馬鹿による,『絶対的安全(という非現実)や安心(という主観的欲求)を得るためには,如何なる犠牲(コスト・労力・時間・人命)を払うこともいとわない』という“宗教観”が,まさに,「ある意味,日本が集団自殺をするようなものになる」状態に陥っていることを示している。
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ぼくは反対だよ (Hana-chan)
2012-07-15 01:30:05
読ませていただきました。同窓生のHana-chanです。
私は左翼ではなく、愛国主義者ですが、脱原発派です。
それも、30年も前から一貫して原発反対です。
そんな立場で反論を一通りしてみます。
最近にわか反原発派によって、言い尽くされているかもしれませんが。

1. 安全性
人間はミスを起こし得る事、そして一つのミスがとてつもない人的、経済的被害をもたらし得る事は、福島の事故を経験する前からすでに自明の事でありました。私たちは少なくとも、JCOの事故や、柏崎刈羽の事故の段階で、脱原発に舵を切るべきだったと思います。東日本大震災がなくても、遠からず福島の様な事故は起こったと思います。人間はいまだ原子力を制御できる能力を有していません。仮に完璧なシステムができたとしても、ヒューマンエラーはゼロとはいえず、シビアアクシデントのリスクがゼロになることはありません。人口密度が高く、地震が多い日本は、世界の中でも最も原発に向かない国と思います。

2. 負の遺産
放射性廃棄物は、安全な物質になるためには、ただひたすら時間を時が経つのを待つしかありません。その間、保管に必要な場所(+安全必要なマージン)、多額の費用が必要となります。これらはどんどん負担を増していき、原発を動かしている限り減少することはありません。そして保管に問題があって漏出すれば、甚大な被害をもたらすかもしれません。このような負の遺産を未来の世代におしつけ、自分たちだけが富と繁栄を享受していいのでしょうか。私はこのこと一点のみでも、原発はやめるべきだと思います。

3. コスト
私も科学者の端くれで、データがどのように、生み出されるのかという事は熟知しています。いかに世の中に出回っている数字が、恣意的で公平性に欠けるか、よくわかっています。原発はローコストといいますが、高校生の頃から、廃棄にかかるコストはいっさい計上されておらず非常に推進派にとって都合のいい数字で、また何かの事故がおこった時のリスクも考慮すると、決して安くはないと言っていました。私も事故後に知りましたが、実際にはもっとはるかに巨額のコストがかかってました。地元への補助金、マスコミへの接待費やCMという名の賄賂、政治家への献金、大学などへの研究助成費等々。原発は安いといいながら、先進国で最も高い電気代の理由が、ようやく最近表面化してきました。

4. 温暖化
これは、もう話をする必要がないですね。温暖化問題そのものが、本当か嘘がわかないない話で、すっかり利権の種となって、独り歩きをしています。あえて一点いうと、二酸化炭素をださないから温暖化にいいといいますが、原発はエネルギーの何割を電気として取り出しているのでしょうか。かなりの部分は海の水を直接暖めるためエネルギーになっていませんか。

5. 軍事上のメリット
原発を推進した中曽根たちは、日本が核兵器を生産できる状況にすることが目的の一つであったと言われています。核兵器を持つことの是非は別として、すでに現在もっているプルトニウムだけで、多くの核兵器を造れます。原発を続けることの理由にはならないと思います。

6. 輸出産業
自分たちがうまく扱えない物を、安易に輸出していいでしょうか。


では、どうしたらいいのでしょうか。
未来に負の遺産を押し付けないという観点からは、化石燃料に頼り切るというのは、やはりよくありませんせんし(ウランだって、実はそれほど潤沢にはないのですが)、産油国や投機筋に足下を見られかねず、避けるべきでしょう。
やはり、再生可能エネルギーの比率を高めるしかないわけですが、国賊孫が打ち上げた花火にのるのは私も反対です。孫や原口は通信分野でも国益に反した行動をしておりますし、こいつの言うことは全て自分や韓国の利益に強く結びついており、日本全体の事などなにも考えていません。太陽光発電にも期待はしていますが、工場とか、小さな町程度の共同体単位での、ちょっとした発電をもっと利用すれば、電力会社からの供給をかなり減らせると思います。これまでは、電力会社が儲けるために、個々の発電を執拗に押さえ付けてきたのです。メガソーラーもいいですが、もしこれをやるなら、ソフト●●●やサム●●を排除して、シャープなど国産メーカーを優遇して、景気回復にも一役かってほしいですね。
風力発電も洋上の大きなプロジェクトから、建物単位の小さなものまで色々あり得ます。低周波問題など都会で行うには問題が残っているかも知れませんが、それこそ、国が研究費を出して、技術発展を促せば、有害事象対策や、効率性、コストなど、現在よりもより可能性のある選択肢になると思います。


つまるところ、仙石の発言は、賛成できないですね。
望ましくない姿であっても、現在の日本の経済・エネルギー・安全保障上受け入れるしかないという、人質をとって脅迫するような話し方は好きでないですね。少なくとも望ましい姿に舵を切ろうという姿勢すら見せないのであれば、なおさらです。
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蛇を捕らふる者の説 (enagoya)
2012-07-17 18:19:31
他の掲示板に書いた意見の転載ですが、リスクコントロールについての私見です。

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「苛政は虎よりも猛し」あるいは「蛇を捕らふる者の説」を覚えておいででしょうか。ある村では毎年のように虎や毒蛇による犠牲者が出るが、虎や毒蛇のいない他の村に比べれば年貢が軽く、暮らし向きがいいため誰も他の村に逃げようとしない。

程度問題こそあれ、人間は低い確率で少数が犠牲者になるリスクには耐えられても、みんなが苦しい生活をするリスクには耐えられないという昔からの真理をよく表していると思われませんか?原発のリスクは無視できないが低確率で局地的だし、事故だってあるが立ち直ることはできる。しかし原発や飛行機、自動車などリスクのあるものを廃してみんなが貧乏な生活をすることは耐え難い。

考えてみれば当然で、原発事故はもちろん、原爆ですら局地的な被害であって、日本人全体の存続がおびやかされるわけではありませんが、貧困は日本全体が滅びることにつながります。個人レベルでリスクを感情的に評価するのは仕方がないとしても、コスト的に競合できる代替エネルギーがない以上、国家の判断として原発を廃止することはできないのです。

シマウマはライオンがいても豊かな草原でしか生き残れません。
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