いーなごや極楽日記

極楽(名古屋市名東区)に住みながら、当分悟りの開けそうにない一家の毎日を綴ります。
専門である病理学の啓蒙活動も。

特攻兵器「回天」「海龍」

2018年12月05日 | 極楽日記(国内旅行)

 魚雷に、搭乗員1名が辛うじて乗り込むだけの操縦室を取り付けた特攻兵器「回天」。

 この展示室の決戦兵器には、大和などに少しは感じられた華やかさとか誇りといったものが一切感じられません。戦局が窮まり、切羽詰まった中で考案、実行された自爆兵器ですから。

 「回天」では100名以上の搭乗員が戦死しています。その他にも訓練中の事故で亡くなった人や、他の特攻兵器で亡くなった人が少なくありません。身の程知らずの戦争遂行は国民に多大な犠牲を要求しました。

 搭乗員として戦死された塚本少尉の遺影と遺品が展示されています。享年21歳。

 こちらは2人乗りの「海龍」。いずれにしても特攻兵器で、乗員の生還は想定されていません。不気味な存在感が回りを圧します。この異様な空気の前では、十分の一大和は所詮模型だなと感じます。

 敗色が濃厚になり、設計も生産も不自由な中で、ただただ搭乗員の自爆のみを目的とした、いわば手抜き兵器。この不細工な工作精度を見て下さい。こんな物に前途ある若者を乗り込ませて、人間魚雷に仕立て上げていたのです。

 精度のない工具で穿ったような穴。搭乗員の嗚咽が漏れ聞こえてきそうな錯覚がします。戦争の現実というのがどういうことだったのか、この展示こそできるだけ多くの人に見て頂きたいと思います。
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大和の模型

2018年12月04日 | 極楽日記(国内旅行)

 戦艦大和の十分の一模型。大和ミュージアムの看板であり、確かに巨大で精密な模型です。

 全長26mありますので、上の階に上らないと全貌が見えません。

 細部まで精密ですね。米軍機が大和攻撃の際に、最初に標的にされた対空機銃です。戦闘機の護衛がない捷一号作戦では、軍艦の対空砲火だけが敵機に対する防御であり、機銃を薙ぎ払われた大和には爆撃機や雷撃機が余裕を持って接近することができました。これは最期の改装で追加された仮設機銃で、ほとんど防備もありません。恐らくは真っ先に戦士した乗組員と思われます。

 世界最大最強を自称した武蔵、大和もかなり背伸びをした設計と建造であり、例えば不沈艦と言わしめた分厚い鋼板も、溶接が極めて困難だったために部材と部材の接合部が設計通りの強度を確保できず、魚雷に対しては十分な防御を持ち得なかったとされています。今でも厚い鉄板の鍛造や溶接は高度な技術であり、電気溶接が導入されたばかりの段階で大和を設計通りに建造するのは難しかったと思われます。

 学会場にあったポスター。常設展を100円割引ということになっていますが、特別展の長門と一緒のチケットは割引済みだということで引いてくれませんでした。
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呉海軍工廠

2018年12月03日 | 極楽日記(国内旅行)

 軍艦建造の中心であった呉ですが、当初は欧米の模倣から始まっています。日本海海戦で旗艦を務めた三笠は1900年にイギリスのヴィッカースで建造。装甲にはドイツのクルップ鋼を採用。主砲は30cm砲でしたが、ここに展示されているのはフランスのホチキス製速射砲つまり「保式速射砲」で口径57mm。ステープラーの代名詞であるホッチキスと同じ名字ですが、開発したのは別人だそうです。

 1912年に完成した戦艦金剛の建造もイギリス。これは金剛のボイラーで、石炭と重油を混ぜて使うヤーロー型と言われるものです。当時の蒸気機関車と同じく、人力作業で石炭を投入していたんですね。これだけでは出力が足りないため、同型のボイラーが36基。

 金剛は高速戦艦と言われるほどの速力を誇りました。このような輸入軍艦をお手本に、国産軍艦の建造が始まります。

 一足飛びに欧米並みの海軍力を自力整備しようという試みは現場に大きな負担を強いることになります。早くも1906年(明治39年)に竣工した第六潜水艇は、岩国沖で訓練中に浸水事故を起こして浮力を失い、14人の乗組員と共に海底で眠りにつきました。第六潜水艇という名称ですが、第一から第五は輸入の潜水艇なので、国産潜水艇の第一号です。アメリカ製の潜水艇を参考に建造したものですが、忠実な再現は難しかったらしく、より小型で安定性のない潜水艇だったようです。

 殉職した乗組員が最後まで持ち場を守り、佐久間艇長が冷静に遺書を残したことから、「沈勇」として称賛されますが、潜水艇自体の完成度が不十分であったのに加えて、佐久間艇長の背伸びした運行が重なった上での事故らしく、現代であれば手放しで褒め称えられたものではないでしょう。今では事故の客観的な分析もなされています。

 これは空母「赤城」かな。元々戦艦の予定だったのを改造し、独特の三段式飛行甲板を設置した特殊な空母で、1925年の建造当時は離着陸距離の短い複葉機が同時に離発着できる利点が認められていたものの、その後艦載機が高速化して長い飛行甲板が要求されたため、途中で1枚甲板に直されたものです。当初の設計を引きずったのか、甲板の位置が妙に高い高床式みたいな形が特徴的。加えて、左舷に艦橋のある空母は赤城と飛竜だけです。飛竜は横須賀建造なので、呉に縁のあるのは赤城のみ。

 「ア」は赤城のアなのかな。着陸する艦載機が母艦を間違えないようにする標識だと思います。

 呉海軍工廠から独立した広海軍工廠が海軍航空廠に。戦争への道をひた走ります。

 伊号潜水艦の各型も呉海軍工廠の建造によります。

 伊号第400潜水艦は世界初の潜水母艦でした。

 サイパン、硫黄島と進行してきた米軍は、海軍の拠点であった呉に徹底した攻撃を加えます。14回もの空襲で海軍工廠は機能を失い、市民の生活も破壊されました。

 海軍と呉の落日。広島の原爆は呉からもはっきり見えたそうです。
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戦艦長門と日本海軍

2018年11月30日 | 極楽日記(国内旅行)

 旧日本海軍の戦艦と言えば大和が最も有名ですが、大和が現役だったのは昭和15年(1940年)8月から昭和20年(1945年)4月までの5年にも満たない期間です。それに対して長門は大正9年(1920年)から終戦まで主力艦として運用されており、大和よりもずっと長きに渡って海軍のシンボルでした。

 戦艦としてこれだけ長く一線にあったということは、何回も改装を経ているとは言え、当初の設計と製造が高い水準にあったということでしょう。明治維新から半世紀で最先端の軍艦建造が可能になったというのは驚くべきことだと思います。

 同型艦「陸奥」の主砲が引き揚げられ展示されています。

 同じく舵とスクリュー。

 当時はCADもコピーもないので、設計図を写し取るには青写真を使いました。若い人には何のことかわからないかも知れませんね。

 長門の完成に合わせて絵葉書が出たり、命名式の入場券が発売されたり、国家的な祝い事になったことがわかります。今でも信頼されているジェーン海軍年鑑にも、当時最大の41cm砲を搭載した最新鋭の戦艦として解説されています。

 ワシントン海軍軍縮条約により、主力艦の合計トン数は制限されていました。その中では、いかに強力な戦艦を持つかが海軍力の鍵であり、最強と目されたのが7隻の戦艦、いわゆるビッグセブンでした。長門と同型艦の陸奥は、このビッグセブンのうち2隻を占めたわけです。攻撃は最大の防御であって、強力な戦艦は抑止力としての機能を期待されていました。このため、後の大和の時代と異なり、海軍は「平和の守り神」としての長門を大いに宣伝し、長門が海軍のシンボルであることは国民に広く知られるようになります。

 これは長門の士官用の食堂を再現したのかな。それまでの艦船に比べると装備の充実が際立っており、「長門御殿」という言い方もあったそうです。

 機密一点張りだった大和、武蔵と異なり、長門の写真はたくさん残っているようです。終戦までその生命を永らえ、米軍に接収されて原爆実験艦となり撃沈。米軍は自前の空母「サラトガ」なども原爆実験に使っているので、必ずしも不当な扱いとは言えませんが、大和の玉砕と並んで日本海軍の終焉を象徴する最期でした。
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呉のレンタバイク

2018年11月29日 | 極楽日記(国内旅行)

 散歩中に見かけて面白そうだとは思いましたが、原付きレンタルが8時間4,500円からというのはレンタカー並ですね。ちょっとこの値段では魅力を感じませんが、5,000円出すと125が借りられるのでずっと得です。前2輪、後ろ1輪のトリシティも同じ値段だから、一度乗ってみたいという人にはいいんじゃないでしょうか。125なら山道もそう不自由せずに走れるので、50よりずっと使いでがあります。ただ、今の季節は防寒装備が必須です。路面の凍結にも注意を。
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呉の街を歩く

2018年11月28日 | 極楽日記(国内旅行)

 古くからの繁華街ということで、れんが通りを歩いてみました。地方都市によくあるアーケード街です。

 この羊羹屋は只者ではないですね。

 戦前戦中に補給艦「間宮」の船内で羊羹を作って各艦に配給していたのが評判になって、戦後も羊羹を作り続けているらしいです。これは参りました。

 間宮羊羹を中心に、ネタになりそうなお土産を集めるとこんな感じです。

 こういう家庭的な店はいいですね。

 思わず足を踏み入れたくなる路地。

 やっぱり海軍ネタが多いです。

 「この世界の片隅に」は呉にとって大きな追い風になりました。

 残念ながら、土産物屋などは夜が早いようですし、営業してない店も目に付きます。

 ここはデパートなのかな。休日前にしては静かな繁華街です。

 看板が面白い骨董屋。

 朝の呉市は冷え込みました。

 戦艦大和の錨が展示してあるところは呉らしいです。

 クリスマス用の電飾の準備が進んでいましたが、これはどう見ても空母。

 他の町でこういうクリスマス飾りはまず見ないでしょうね。

 艦載機もしっかり作り込んでいます。熟練していないとこれだけ様にならないでしょう。

 こっちは戦艦。さすが海軍の町。徹底しています。
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呉港

2018年11月27日 | 極楽日記(国内旅行)

 呉の宿は海側の部屋で、呉港がよく見えました。中央桟橋から松山行きのフェリーが出ています。

 その向こうは江田島ですね。

 集中豪雨の被害から復旧した呉線。東側の安浦から三原区間はまだ運休しています。

 港町らしい景色。

 古くからの造船所なんでしょう。

 3515は海上自衛隊の練習艦「やまぎり」だそうです。練習艦と言っても、護衛艦として運用されていた実績があり、必要があればまた護衛艦に戻ることもあるとか。

 7月の集中豪雨の爪痕が痛々しい住宅街。がけ崩れの跡にブルーシートを被せてあるのだと思います。

 山陽地方の町によくあるように、山が迫っていて平地が狭いので、住宅が山裾にへばり付くように建っています。

「この世界の片隅に」では、こんな呉の町が舞台になりました。

 駅前で一番安い部屋を探して泊まったので、有名な漫画家が同じ宿に泊まっていたとはちょっと意外でした。

 もっとも、ビューポートくれホテルは値段こそ安いものの、特に改装直後の海側の部屋は小ざっぱりしてとても快適です。特別に豪華な部屋を求めない限り、誰が泊まっても不満はないと思います。元々は呉の海員会館、つまり船員のための宿なので、いかにも船員という感じの人や、外国人が多いのかと思っていましたが、ごく普通のビジネスホテルでした。
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札幌ビューホテル大通公園

2018年07月05日 | 極楽日記(国内旅行)

 出張の基地となった札幌ビューホテルは、開業1周年だそうです。伊良湖ビューホテルと同じ系列だったんですね。

 大通りに面しているので眺めはいいはずですが、曇っていたので遠景はわかりません。

 晩は簡単に済ませてしまったので、朝食ブッフェで栄養補給します。学会前なので酒は飲めませんけどね。

 この後ろにある「武蔵窯」を使ったグリル料理が売り物だそうです。

 これのことかな。普通のオーブンとどこが違うのかはわかりません。ビューホテルグループは那須りんどう湖でリゾート事業を展開しており、そこでも武蔵窯のグリルが名物だそうです。子供の頃はかなり国内のあちこち連れて行ってもらった思い出がありますが、今は時間が取れなくて息子たちに同じような経験をさせてやれないのが大変残念です。
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札幌農学校と黒千石のカラメルパイ

2018年07月04日 | 極楽日記(国内旅行)

 札幌のお土産です。白い恋人とかバターサンドとかは名古屋で入手容易なので、日頃見ないものを選びました。と言っても空港で買ったものなので、そんなに変わったものはありません。どっちもきのとやオンラインショップで手に入りますし、高島屋の北海道展にも出店しているようですね。

 ちなみに赤いサイロは品切れ中。
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新千歳空港

2018年07月03日 | 極楽日記(国内旅行)

 学会会場から札幌駅を経て新千歳空港に着いたのは午後8時近くでしたから、飲食店や土産物屋も閉まり始める時間でした。

 こういう店構えには誘われますね。

 北海道出張の最後を飾るには魅力的ですが、この後中部空港から自宅まで運転しないといけないので、酒が欲しくなるメニューはパスします。

 そんな時にはこんなメニューが目に付くもの。

 また家族で来た時に取っておきましょう。

 なぜかこんな路面電車が。

 イクラ、ウニは痛風の大敵です。

 結局、この晩は味噌ラーメンで札幌とお別れしました。札幌ラーメンじゃなくて弟子屈(てしかが)ラーメンだけど。

 摩周湖と屈斜路湖の弟子屈町には、小学生の頃に家族旅行で2回ほどお邪魔しました。民宿「なかよし」の名前を覚えていますが、検索すると見つからないので、もう廃業されたのでしょうね。冬の厳しさを反映して、濃厚な味噌ラーメンが特徴のようです。ちなみにこの向かいには旭川ラーメンの梅光軒。名古屋の池下に店舗があるので、申し訳ないですが今回は見送らせて頂きました。
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札幌狸小路

2018年06月29日 | 極楽日記(国内旅行)

 札幌は学会出張なのでほとんどとんぼ返りでしたが、宿から近い狸小路を少しぶらついてみました。東から西に向かって1丁目から7丁目のアーケード商店街が連なっており、これは7丁目の東側。

 これはシンガポールエビ麺と読むそうです。

 男の居酒屋。よくみるとイタリアン居酒屋と書いてありますが、メニューが純米酒とか刺し身、焼き鳥、串揚げとかで、どこがイタリアンかは不明。

 これも同じ並びですね。

 6丁目のバー。

 いい雰囲気ですね。明日が仕事でなけりゃねえ。

 気合の入った店構えの居酒屋。

 サービスにも気合を感じます。

 私は「孤独のグルメ」はやらない立場なので、一人で来る繁華街は実につまらないですが、家族で来た時のために取材を続けます。こっちはパエリャ選手権2連覇だって。

 こちらは世界のビール。ビールと言えば、21年前の学会でお邪魔した「麦酒亭」を再訪したかったのですが、時間の都合で果たせず残念でした。

 お店の玄関だけ眺めておいて、この晩はローソンの弁当と酎ハイです。一人で美味い物食べても楽しくないですから。この弁当だって北海道仕様だし、別に不味くはないですよ。
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のぞみで行く別府周辺弾丸ツアー(その8)

2014年01月14日 | 極楽日記(国内旅行)

 最後は大宰府にやって来ました。一応、学問の世界の端っこで生きていますので、天神様にはお参りしておかないと。もちろん、これからお世話になる息子たちの方が大切です。

 神牛の像。菅原道真公は牛と縁の深い人で、亡くなられた時も牛がこの地を墓所に選んだらしいです。大宰府天満宮の中に11頭か12頭の像があると言われていますが未確認。撫でるとご利益があるそうです。

 さあ、学問の神様にお参りします。

 御本殿と飛梅。樹齢は千年以上。道真公の住居まで飛んできたという逸話は有名。道真公が亡くなられた後に、そこから墓所であるこの地に移植されたそうです。

 さて、息子たちにも知恵を授けて頂けますかどうか。そう言えば天橋立では文殊菩薩にお参りしたんだっけ。昔も今も、人間が神仏に願うことはあまり変わっていません。

 飛梅は境内で一番に咲く梅だそうです。ご覧のように蕾が膨らんできています。

 お参りしただけで天神様並の知恵とはいかないでしょうから、今年も家内安全ならいいです。後は自力で頑張りましょう。

 天満宮に来たらやっぱりこれですね。

 寒風の中で頬張る梅が枝餅は一層温かく感じます。

 こんな洒落たカフェ。時間のないのが残念です。

 明太子を買い込んで帰途につきました。次はどこに行けるかな。
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のぞみで行く別府周辺弾丸ツアー(その7)

2014年01月12日 | 極楽日記(国内旅行)

 美しい場所には違いないですが、観光客が大挙して押し寄せるような名所ではないように思います。韓国からお越しの皆さんなど、どうお考えでしょうか?

 このすぐ近くに、湯布院を代表する高級旅館の亀の井別荘がありました。ひっそりとした佇まいで、中に入るのがはばかられますが、レストランや売店は宿泊しなくても利用できるそうです。本来の湯布院らしさは、こんな宿に泊まってみればわかることなんでしょうね。

 時間がないので、金鱗湖を折り返し地点として繁華街に戻ります。

 お昼はどこも込みますから、あまり考えずに入れる店に。

 こんな特徴のあるカレー。

 お昼をぜんざいで済ませた人も。

 トトロと記念撮影して湯布院ともお別れ。ここは通過するより隠れ宿みたいな宿に泊まってみたいですね。

 バスは九重の吊橋へ。日本一の大吊橋とありますが、「歩行者専用の橋としては最大」という限定付きの日本一です。観光客のニーズにうまく当たったらしく、当初の見込みを大幅に越える人気だそうです。

 ほら、この狭さでは自動車は通行できません。強度は十分にあるようですが。

 元々標高が777mと高いし、風の通り道なので非常に寒いです。九州の寒さを甘く見ないほうがいい!

 この峡谷を吹き渡る風の冷たいこと!

 渡って展望台に行くまでに顔色がなくなっています。

 また渡って帰らなきゃいけないんですよ。対岸がやけに遠く見えます。

 滝が見えますけど、寒くて寒くて、それがどうしたって感じです。もう少し早く、紅葉の時期ならもう少し楽しめたんでしょうか。
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のぞみで行く別府周辺弾丸ツアー(その6)

2014年01月10日 | 極楽日記(国内旅行)

 杵築の町が時代劇のセットと違うのは、人が生活している生きた町だということ。きっと元気な子供もたくさんいるのでしょう。

 バスターミナルのあるふるさと産業館もなかなか面白いですよ。この辺の海岸にカブトガニがいるんですね。

 こんな鍛冶屋がまだ残ってるんですね。

 一般的な包丁に加えて、農業や漁業などの幅広い需要に応えます。値段は安くないですが、看板を出さなくても馴染みの顧客が買ってくれるそうです。プロの道具としての信頼ですね。

 本多平八郎が兜に着けていたような鹿の角。

 バスは杵築を後にして湯布院へ。標高が高いので別府や杵築より更に寒いです。

 東京資本の大規模開発を避け、まとまった温泉街のない静かな温泉地、というイメージが浸透している湯布院ですが、大通りは商店と観光客がひしめき合って、夏の軽井沢や清里を連想させる賑わいです。

 軽井沢にもありそうな手作りジャムの店。

 山下清の美術館。

 こういう少女趣味なところも本州の高原観光地とよく似ています。

 こっちもちょっと子供っぽいですね。皆さんが求める湯布院らしさとはこういうものでしょうか?

 こちらはもう少し大人の感じ。いろいろな資本がモザイク状に入り込んで、決して統一された雰囲気の町ではありません。

 自動車関係の展示と思われますが。

 博物館と言うよりは寄せ集めのB級スポットですな。これは。

 有名スポットの金鱗湖。広さは釣堀ぐらいしかありません。観光の目玉としては弱いですね。少なくとも短時間で表通りを歩く限り、湯布院らしさというのは今ひとつわかりにくいです。
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のぞみで行く別府周辺弾丸ツアー(その5)

2014年01月09日 | 極楽日記(国内旅行)

 宿については、昔ながらの団体客向けの宿という以上に印象はないですねえ。部屋は清潔で畳も新しいんだけど、空調が不十分で寝具も整っていなかったので寒い思いをしたとか、敷布団が今時珍しいほどの煎餅布団で背中が痛くなったとか、まあ学生向きのスキー宿に毛が生えた程度と思えば腹は立ちません。

 夕食も品数は凄いでしょう。でも刺身がペラペラに薄くて乾いていたり、大概の皿が冷めていたりで、食べてて何だか寂しくなってきます。作っている方は毎日大変な思いをしてこれだけ揃えているんでしょうが、努力が空回りしていないでしょうか。見栄えは相当なものですから、多分旅行業者向けのプレゼンでは評価が高かったんでしょう。30年前に観海寺温泉に泊まったときも、大きくて立派なホテルなのに血の通わないサービスにがっかりしたものです。別府全体として、湯布院や黒川に個人客を取られるだけの理由はあると思いますよ。

 食事のサービスをしてくれたのは東南アジアの若い女性で、「研修生」と名札を着けていました。それ自体は問題ではありません。しかし、別府温泉の団体旅館は昔から、立場の弱い人を臨時で安く使うことに慣れ切っている感じがします。30年前もそうでしたけど、「今シーズンはこの宿だけど、昨シーズンはあっちの宿で働いてた。パートだからシーズンオフは仕事がない。」そんな従業員ばかりだから、宿に対する帰属意識がとっても低いし、従業員同士の連携も悪い。今の別府に泊まるのなら、小規模な家族経営の宿の方が気分良く泊まれるのではないでしょうか。もっとも、大手旅行会社のツアーがそんな小さな宿を利用するとは思えませんがね。

 朝はブッフェでした。人件費を削減したいなら夕食もこの方が気兼ねせずに楽しめると思います。

 三十年が一日の如き別府の旅館を後にして、バスは国東半島の杵築に着きました。幸いなことに?こちらはもっと変わらない歴史があります。

 有名な勘定坂。武家屋敷と言えば、時代劇に出てくるような白壁の屋敷町を連想するのですが、これは公用の建物や最上級の旗本や藩士の屋敷に限定されます。

 藩士と言っても余程の重鎮以外は土壁に茅葺です。

 それでもこちらの北台は上級藩士の屋敷町だったそうです。角で改修しているのは大原邸。この酢屋の坂を下りると商人街、向こうの坂を上ると南台になって、北台よりは身分の低い藩士の屋敷町だそうです。2つの高台よりなる武家屋敷の谷間に町民が商売を営む特異な構造の町で、サンドイッチ形などと呼ばれています。

 武家屋敷なので藩校もあって、往時の雰囲気を偲ぶことができます。江戸時代から日本人は教育熱心でした。

 二宮金次郎の銅像もここでは現役。

 谷間にある商人街も、昔の姿で営業中です。ガラスが障子になれば、そのまま江戸時代の商店ですね。

 この味噌屋は老舗で、遠くから買いに来る人もいるそうです。

 何とも渋い店構え。こんな町をゆっくり歩いて、雰囲気のある喫茶店でのんびりしたい気がしますが、周遊型のパックツアーゆえ時間がありません。
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