極楽息子(大)の宿題の資料調べに岩崎城へも寄ってみました。駐車場が広くないので、イベントで人が多いと停めにくいかなと心配でしたが、この日は何もなく空いていました。元々が小城なので公園としては規模が小さく、控え目な展望台としか認知されていないのでしょうか。
古地図みたいな描き方になっていますが、今の岩崎城の地図です。元の天守閣は今より少し右奥の、「古城の碑」とある位置にあったそうです。小牧長久手の戦いで激戦地になり、城を預かる丹羽勢は小勢ながら奮闘し、羽柴方の池田勢を大いに悩ませ、岡崎攻めの時間的余裕を失わせた末に落城。その後廃城となり長らく省みられませんでしたが、1987年に鉄筋コンクリートで再建されました。元の遺構などが残っていないため、再建天守閣に当時の資料はほとんど展示されておらず、日進市の歴史資料や児童の絵などが飾られています。
この辺りは尾張の織田と岡崎の松平の勢力がぶつかる地方だったようで、岩崎城も一時は織田方が支配するものの、名将とされた家康の祖父、松平清康がこれを奪い取り、その後松平のお家騒動で清康が憤死したために松平の勢力が減退。その隙に城主となったのが丹羽氏のようです。小牧長久手の戦いでは徳川方勝利のきっかけを作り、岩崎城は失うものの功績を賞され、各地を転封されながらも大名として江戸時代を生き抜き、最後は播磨国三草一万石として明治維新を迎えます。
各地を転封、と言うと幕府に警戒されているみたいですが、その逆に丹羽家は譜代大名の中でも幕府の信用が厚く、参勤交代を免除された定府(じょうふ)大名であり藩主はずっと江戸住まいでした。領地がどこにあろうと江戸表で将軍家の側近として気楽な生活ができたわけですから、石高以上に大事にされていたということです。
天守閣から見える資料館。資料も古戦場の資料館に比べると控え目で、宿題には物足りませんでした。入場無料ですし、たいした資料でもないのに内部撮影禁止も疑問。小牧長久手の戦いを再現したジオラマも、老朽化したエルモのフィルム映写機の画像や音がすっかり劣化しており、もう少し手を入れる必要があると思います。