いーなごや極楽日記

極楽(名古屋市名東区)に住みながら、当分悟りの開けそうにない一家の毎日を綴ります。
専門である病理学の啓蒙活動も。

癒着胎盤の診断は難しい

2008年03月25日 | 病理学もしくは病理医
 大方の医師の予想に反して責任者が逮捕された福島県大野病院産婦人科の医療事故で、「産科医が癒着胎盤による危険を予見して対応すべきだったので過失がある」という検察側の論告求刑公判が3月21日にありました。検察の立場は一貫して被告の加藤医師の医療過誤を主張するものであり、これに対して日本産婦人科学会をはじめ現場の医師は「癒着胎盤は稀な症例で予見不可能」と反論しています。

 私も病理の立場から癒着胎盤についてコメントさせて頂きましょう。写真をご覧下さい。慣れていないとわかりにくい写真だと思いますが、placenta accreta又はaccreta of placentaで癒着胎盤のことです。この写真では子宮を摘出して縦に半割してあります。赤黒い部分が胎盤組織の一部で、これが子宮筋層に食い込んでしまってうまく剥離しないのが癒着胎盤です。

 これがなぜ命にかかわるのでしょう?胎盤は出産と同時に不要になる器官です。普通は出産直後に胎盤も子宮から剥がれ落ち、「後産」となって排出されることはご存知かと思います。

 さて、胎盤は極めて血量の多い器官、と言うか血管でできた迷路みたいな構造をしています。胎盤は母体と胎児の間の一種の交換機であって、薄い膜を隔てて双方の血液が大量に循環することで酸素や二酸化炭素、栄養分などが交換されます。胎児の成長は急速ですから、母体の血液が大量に胎盤を通過しないと胎児の生命を保つことができません。このため、子宮と胎盤との間には多数の動脈、静脈が連絡しています。これが危険なのです。

 胎盤が剥がれ落ちることと、子宮と胎盤の間の血流が極めて多いことは矛盾する要素です。そのまま剥がれ落ちたら大出血で母親が死んでしまいます。これを解決するために子宮は特別な機能を持っています。子宮の内側には内膜という普段は薄い膜がありますが、妊娠時にはこれが発達して脱落膜というクッションを形成します。胎盤はこの脱落膜に食い込むことで子宮に接着し、子宮から脱落膜に伸びてくる多数のらせん動脈と言われる動脈から血液を取り込むことで血液供給を受けます。

 出産後はその名の通り脱落膜ごと剥がれ落ちますので、胎盤も子宮からスムーズに剥離するようになります。これに先立って、らせん動脈が強く収縮して胎盤への血流を止めるため、致命的な出血を避けられるわけです。それでもこの状態が危険なのには変わりがなく、全例が「自然分娩」だった時代には生理的な止血がうまく働かず、産後の出血で亡くなった母親は多かったはずです。

 癒着胎盤では脱落膜が欠落しており、胎盤が子宮の壁の中にある筋層に食い込んでしまうため、出産しても胎盤がうまく剥がれ落ちてくれません。筋層の動脈はらせん動脈ではなく普通の動脈です。もちろん普通の動脈にも傷を負えば止血する仕組みはありますが、特殊ならせん動脈ほどではありません。動脈を切るにしても、胎盤の破片を残すにしても、どうしても大出血につながってしまうのです。子宮と胎盤の間で止血できないなら、子宮ごと摘出することで止血するしかありません。細い動脈が無数にある子宮と胎盤の間ではなく、太い動脈が数本あるだけの子宮そのものの方が、手術で止血可能だからです。

 ではこの危険な癒着胎盤を前もって診断することはできないでしょうか?癒着胎盤の頻度は1万例に1例とも、3,000例に1例とも記載がありばらついています。これは癒着の程度が様々だからだと思います。顕微鏡で見ないとわからない上に、臨床的にもたいした出血をしないものであれば、癒着胎盤と診断されることなく「正常分娩」と扱われているものもあるのでしょう。

 ほとんどの癒着胎盤では、胎盤の全面が子宮筋層と癒着しているわけではなく、一部に危険な癒着があるに過ぎません。全面的な癒着胎盤というのはほとんどなくて、部分的な癒着で剥離するまでわかりにくいことが多く、しかもどれが大出血を起こすのか判断材料がほとんどないという産科泣かせの疾患です。事後に胎盤(と時には子宮も)を標本として採取し顕微鏡で見ないと病態の解明は難しいのです。

 子宮を摘出する前の段階で、産科医としては「普通に剥がそうとしたけどうまく剥がれない」ことで癒着の可能性を考えるしかありません。この程度の小さな癒着でも、顕微鏡では子宮筋層の動脈にはっきり連絡していて、大出血の原因となるものは十分に考えられます。細い血管であっても動脈は静脈に比べて格段に血圧が高いため、大量出血につながりやすいからです。

 それじゃ、胎盤が剥離しにくければ子宮を摘出すれば?それは無理です。「胎盤が剥離しにくい」と言っても、胎盤の位置や形による場合もあるでしょうし、胎盤を剥離した後のらせん動脈の収縮の程度や脱落膜の剥がれ方にも個人差があるでしょう。正確に判定(あるいは予測)するのは極めて難しいと思います。疑わしい場合は大量輸血を用意して子宮摘出を、というのが検察の立場のようですが、少し剥離しにくいだけで子宮を摘出していたら、相当な例で子宮摘出をすることになるでしょう。結果的に病理検査で「癒着胎盤ではない」と判定されれば、今度は「必要のない子宮摘出を行った」として産科医が業務上過失傷害で逮捕されるのでしょうか?そもそも顕微鏡レベルの癒着胎盤を触感で診断しろと言うのは無茶です。

 問題の症例における癒着胎盤の程度は、検察側病理医が「広範で子宮筋層の半ばまで」の重篤な癒着、弁護側病理医が「範囲は狭く、子宮筋層の1/5まで」と見解が大きく分かれています。正しく作られた標本を見て、他の情報も正しければ病理診断もほぼ同じになるはずなので、この違いは奇異に映ります。

 病理診断は組織を採取して顕微鏡で精査することから、最も確実な証拠を得られることが多く、医療における最終診断とされるのですが、それはパズルの最後のコマを嵌め込む意味で最終診断となるのであって、それまでの診断経過が間違っていれば間違った病理診断が出ることもあります。それに病理医による得手不得手は当然あります。

 検察側の病理医は腫瘍が専門であり胎盤については一般的な病理医の域を出ないのに対し、弁護側病理医は胎盤病理の専門家であり5万例の症例を持っています。私が驚いたのは稀な症例である癒着胎盤を24例も経験しておられることで、この分野では医学会を代表する権威と言えるでしょう。これで検察側の鑑定がほとんど突き崩されているのですから、「癒着胎盤の程度は外見からは著しいものではなく、産婦人科専門医といえどもこの症例に対して癒着胎盤を予見することは無理だった」と考えるべきです。

 検察は「病理医なんだから何でもわかるはず」と考えたのでしょうが、現場の病理医は極端な人手不足のため全分野を受け持っている人が多いだけで、それぞれの専門分野はあります。病理医の充足しているアメリカでは消化管なら消化管しか見ない専門化した病理医がたくさんいますし、皮膚病理でも腫瘍と炎症疾患の専門家は別です。日本では何でも見る(見ざるを得ない)一般病理医が多く、どうしても手に負えない場合だけ大学などの専門化した病理医に送って専門的な意見を頂くことになっています。

 胎盤病理の専門家ではない病理医に鑑定を依頼して、「癒着胎盤を無理に剥がそうとして出血死させた医療過誤例です。鑑定お願いします。」と予断を与えた場合、正しい鑑定を期待するのは難しいのではないでしょうか。私たち病理医が顕微鏡で読み分けているのは、場合によっては(他科の医師に見せてあげるとそう言われるのですが)本当に微妙なものであり、そんな難解例を診断する際はどんな些細な情報でも欲しいものです。検察の「方針」が病理の鑑定に悪い影響を与え、そうしてできたあやふやな病理診断が、今度は「絶対の証拠」として裁判の行方を左右する。そんな悪しき連鎖はどこかで断ち切らないといけません。今度は5月に弁護側最終弁論があるそうで、裁判がより真実に近付くことを期待します。
コメント (2)
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