いーなごや極楽日記

極楽(名古屋市名東区)に住みながら、当分悟りの開けそうにない一家の毎日を綴ります。
専門である病理学の啓蒙活動も。

最後の藁しべになるのは?

2008年03月12日 | 医療、健康
"Straw that broke the camel's back"という諺があるそうです。「藁しべ1本でも、積み過ぎれば駱駝(らくだ)の背骨を砕く」とでも訳すといいでしょうか。私が通勤途中に読んでいる"Tom Sawyer"にも"This final feather broke the camel's back."という文が出てくるので、英語圏では昔から受け入れられているようです。もちろん、元は駱駝を家畜とする中東の格言なんでしょう。

 「もう少しなら積めるだろう、と欲をかいちゃ大事な駱駝を潰すことになる。無理は重ねちゃいけないよ。」という大事な教えを含んでいると思うのですが、日本に相当する諺がないのは民族的な気質の違いなのでしょうか。この数年、産科や小児科を中心とした「医療崩壊」が急速に認知されつつあります。当初は医療事故が起きた際に、マスコミも原因を調査することなく「医師や医療機関の猛省が必要」とか「赤ひげ先生はどこに」といった精神論的なスタンスでまとめてしまうことが多く、行政も「被害者がいるのだから加害者を罰すれば良かろう」式の単純な理解しかなかったようです。

 こうした観念的で目的意識のない対応が多くの医師を萎縮させ、特に福島県立大野病院の産婦人科医師が、稀で重篤な疾患である癒着胎盤の症例を救命できなかったことで、医学的に明らかな落ち度がなかったにもかかわらず逮捕された事件を契機に、産科や小児科、救急の現場を敬遠する医師が増加し、江戸時代の農民逃亡に例えて「逃散(ちょうさん)」と称されています。

 日本の医療においては、この大野病院事件が最後の藁しべになったのかも知れません。WHO(世界保健機構)からは低いコストを含めて最高の評価を受けながら、無理にでも医療費を削減したい政府と、政府の誘導に乗ったマスコミの医療叩きにより医療機関の余裕はなくなる一方で、医療の最前線は長年に渡って疲弊しており、ちょうど限界まで荷物を載せられた駱駝のような職員が多かったのです。さすがに耐えられなくなったな、と感じる医師が増えてきたのでしょう。

 世界の医学水準は少しずつ上がっていますから、かつては治らなかった病気も治るようになることがありますし、医療機関のサービス内容も向上していきます。ただし、医療サービスというものは、診断も治療も看護も、工場で大量生産できるものではありません。もちろん薬剤や機器の改良もありますが、それと同様に現場の専門家の労力によるところも大きいのです。

 このような労働集約型のサービスの水準を上げようと思えば適正な人員増加が必要になります。日本が世界に遅れることなく医療水準を改善しようとするなら、人件費を中心に応分の出費は不可欠なのです。データを見れば明らかなことですが、これまで日本の医療は他の先進国に比べて平均的には安価で高水準のサービスを提供してきました。これが成立したのは職員の労働条件が過酷と言ってもいいほど劣悪だったからです。この無理をした職員に追い討ちを掛けることで、現場からの逃散が次々に起こり、将棋倒しのように周囲の医療機関が順次閉鎖や縮小に追い込まれる。これが医療崩壊の本質です。医療への要求がここまで高くなると、もはや「低い医療費」と「高い医療水準」は両立しえないのです。

 特に地方から医療崩壊を危惧する声が上がっているのに対して、政府の対応はさほど危機意識を感じさせないのは気のせいでしょうか。地方で医療機関がなくなることにより医療に大きな制限が掛かり、国の支出抑制が期待できるからとも聞きます。一説には現在の医療崩壊は、政府内外の新自由主義経済を信奉する(医療における規制緩和を大きなビジネスチャンスと見る)人たちによって意図されたものということです。真偽の程はわかりません。しかしアメリカ型の露骨な格差医療がすぐそこまで来ているようです。

 今度こそ、国民は重要な政治的選択を迫られるのではないでしょうか。医療現場はもう限界に近づいています。何を残して、何を諦めますか?あるいは何を新たに購入しますか?それとも政府の路線に乗せられてアメリカ型の自由診療がいいですか?いずれにしても負担なしのサービス向上はありません。背骨の折れた駱駝はもう使い物になりません。国民皆保険制度を基本とする医療システムを維持したければ、それが完全に崩壊する前に手を打たなければならないのです。
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