崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

鳩から愛されている

2014年07月31日 05時30分33秒 | 旅行
東アジア研究所の私の研究室のベランダに鳩がきれいな一個の卵を生んでいるのを発見、驚いている。いつの間にか巣も作っている。この暑さでも卵を温めるが、時々留守をしている。その隙間に一カット写真を写った。鳩から信頼されて、選ばれた幸せな人だと勝手に思いながら見ていると鳩が戻ってきた。胸で温める。お腹ではなく、胸で心臓の鼓動をつなげて命と母の愛を入れ込むのだろうか。私は心から非常事態を宣言した。物の音を一切出さず静かに命の誕生を見守ることとした。

 その研究室で東京から来られた二人の記者から二日間で8時間半の取材があった。今読書会で読みながら翻訳をしている「慰安所帳場人日記」に関して説明をし、議論もできた。政治的な状況をどう排除して客観的に読むことができるのか、文を書くことに勇気がいる。120年の歴史を持つ出版社が全国的に多くの読者を持つ秘訣は何だろう。二人の記者は私の論文や評論などを数多く読んできた。その内容の確認からはじまったので多少話が不自然な感があった。しかし長い時間かけて多く話をしているうちに親しくなった。記者と筆者が親しくなるような取材方法であると分かった。最後に彼らの文書の書き方を質問した。「文は人なり」の感を受けた。今回は私自身が原稿を書くことにした。

ある女子学生の感想文

2014年07月30日 05時13分47秒 | 旅行
東亜大学に赴任したのは2005年、留学生が全くおらず、アジアへの玄関口という下関において不思議なことと思った。教授会などで積極的に留学生を受け入れるよう発言しても、当時の学長をはじめ役職の人に提言しても全く聞く耳もたずだった。教育体制になっていないとか反対された。数年前新しく学長になった櫛田氏と韓国旅行する機会があって詳しく提言をして、留学生を受け入れることとなった。3年余で主に韓国からの留学生など100人近くなった。それからは留学生を交えての教育はどうすべきか、問題であった。授業の場面を覗いてみたり学生たちに聞いたりして把握してきた。
 私自身の留学の体験を生かして、講義を聞きながら電子辞書を使うことや隣の学生との私語(通訳?)も許して、日本人の学生と留学生が互いに知ってもらうために名前を憶えること、自己紹介などをさせながら考えて聞き、話、読み、書くを中心に講義した。学生たちが感想文を書いた。ここでその状況を分かりやすく書いた4年生の女子学生の文を一例として紹介する。

 私はこの授業を受けてから韓国人の友たちがいっぱいできました。これは4年生になって初めてのことでした。以前も韓国人の学生と一緒に授業を受けたことはありましたが、全く話すことはなく、挨拶することもありませんでした。話してみたいとは思っていましたがそれは何となく壁があると思い、日本人は嫌いなのだと私は思っていたからです。でもチエ先生の授業はとても楽しくて、韓国、中国、ネパールなどいろんな国の人の意見や考え方を聞くことができ、実際に聞いてみると日本を良くも悪くも評価することができ、自分でも気づいていなかった日本がそこにはありました。みんな優しくて、日本が好きなんだなと思いました。そのことがだんだんわかってからはこの授業を受けることがとても楽しみになりました。授業の雰囲気がとても良くて自分の意見を発表することが楽しかったです。正直この授業を受けるまでの私はニュースやネットなどの情報で、韓国、韓国人を誤解していたことが多々ありました。でもこの3カ月で全くイメージがガラッと変わりました。大好きになりました。このことから私は相手のことをよく知らず、聞かず、見ず自分の考え、思いだけで成り立っている偏見というものはとても怖いものだと思いました。まずはちゃんと話しあい、相手をよく知り、思いやって自分の意見も分かりやすいように相手に伝える。まずはその一人、一人が大事だと思います。そういった人がどんどん増えて、それが広がって、国、世界を動かせたらなと思います。それが私の理想です。国や育った環境は違っても私たちはみんな人間です。私はきっとわかりあえることと信じています。人間は変われると思います。


報道者の「KBS●●●です」

2014年07月29日 04時42分34秒 | 旅行
このごろ中国の食品不正を話題にして中国の悪口が言いたい放題で広がっている。中国を多く往来した私としては当然のように頷く部分もあるが、一方以前の韓国への悪口も思い出す。韓国の空気や海の汚染、牛や豚に強制的に水を飲ませて体重を増やして売ったり唐辛子に有害着色をしたりした話を思いだす。そんな話は遡ると日本にも及ぶ。われわれはすべて古い悪い時代をへて現在に至っていることを考えなければならない。
 毎晩韓国のテレビニュースを視聴すると報道記者が自分の名前を強調することが耳に障る。おそらくCNNなどを真似していると思われるが、日本では異様なほど自己誇示のような印象があり、それより耳障りになる。止めてほしい。もっと気になるのは強く主張しようとする報道の暴力性である。セウォル号の会長の遺体の投影写真が詳しく報道された(写真これは矛盾かも)。白骨化した死体を画面に出すのをみて、墓の中の死体を掘って懲罰する李朝時代の異様な習慣を思わされた。今、韓国は恨みを払うより安全対策に最善を尽くすべきであろう。

『また「サランヘ」をうたおうね』(花乱社)

2014年07月28日 06時35分27秒 | 旅行
 今朝の本欄には新しいウィンドウ8で3回も投稿失敗して7へ戻って書くことにする。友美という日本人女性が在日韓国人二世・李卜之と結婚した話の小説『また「さらんへ」をうたおうね』(花乱社)を手にしてかなり時間がたった。在日と日本人の結婚ということだが、私から見れば日本人同士の結婚あるいはそのバリエーションにすぎないと思っていた。しかし、その内容は私の想像をはるかに超えていた。周囲の反対を押し切って結婚、その後も続く根強い差別と偏見などを読みながら、明治時代の話、近代化以前の話のように感じた。この小説が解放文学賞を受賞されたこととは違って私は在日への批判が湧いてきた。日本へ適応するために何代がかかるのか、永遠に不可能であろう。
 誰でも故郷や故国に懐かしさをもっている。それはそれでよい。しかし、それに執着しすぎると故郷へ帰還するしかない。私は日本人になれとは言わない。国籍にかかわらず自然な人間になるべきであろう。自分が住むところを嫌がっては幸せになれないからである。この小説から受け取ったメッセージは大きい。一読を望む。

「大正12.9.1東京大震災実況」

2014年07月27日 04時17分44秒 | 旅行
夏でも冷房しないて暮らせるといっていたが、昨日は冷房をつけざるを得なかった。猛暑の中、タッチラーン最新型のコンピューターを購入した。まったく異なった人物との付き合うようであり、新しく挑戦することになる。下関勝山在住の丹田三郎(85歳)氏から電話を受けて会い、大正・昭和年代の絵はがきを見せていただき、貸していただいた。彼自身がコレクターである。骨董品収集が趣味の方である。瓦なども床の間に飾っているという。なぜ瓦に関心があるのだろうか。屋根を見ながら鬼瓦に視線が行き、犬駒なども収集するようになったという。奥さんからはゴミと思われながらの趣味だという。25歳の時肺結核に患ってから以来規則正しく生活をした。148センチの小柄で軍隊には行けなかったが、市役所ではたらいてきた。
 タバコや飲酒もせず、社交生活は難しかったが友人が多く人間関係には異常がなかったといった。なんと私のことを彼から聞くような感がした。彼の性格から骨董品の収集の趣味がついたかと想像した。私も大学生時代から骨董品に関心があったのを思い出す。
 植民地研究の二つのプロジェクト、8月には帝国日本のものと人の移動と農村振興運動に関する研究を韓国で行う。農村振興に関する原稿を時間かけて書下ろし脱稿した。古い調査ノートと最近の研究に目を通した。その一環として絵はがきにも関心が注がれている。彼から信頼されて、このような資料提供をえられ感謝している。彼からの絵はがきをみている。1923年関東大震災のものが「大正12.9.1東京大震災実況」の33枚であり、堀研氏からいただいたものと合わせてもう一つの展示会ができそうになった。それはなぜ悲惨な状況が絵はがきにになったのか、深く考えることができればよいかと考えている。歴史的な記録と画像による情報広報であろう。絵はがきの意味も時代によって変わったのである。

留学生総集会

2014年07月26日 04時45分59秒 | 旅行
 前期の講義が終了、来週から試験、しかし学生たちは「試験」という言葉にはアレルギーがあるようで、私は「自己評価」と言っている。「アジア言語文化」は初めて設けられたものであり、日中韓の学生の混合クラス、アジアについて比較、討論した。留学生と日本の学生と話す機会となった。留学生総集会に参加した。私が赴任した時、留学生は一人もいなかったが強く勧めて今は韓国からの留学生をはじめ100人ほどとなり、彼らと会えて嬉しかった。私が留学した時は留学試験などがあり、日本人にとって留学生は優秀だというイメージが強かった。しかし現在は少し変わっているようで、日本の入管法は厳しい。勉学状況までチェックするようである。留学生は将来、文化交流などに貢献できると考えてほしい。勉学はもちろんであるがアルバイトなどを通して日本人、日本社会に直接触れて日本社会や日本文化を体験できるように協力すべきである。
 昨日午後、防府市議会議員の中林けんぞう氏(62歳)が娘さんと一緒に来られた。彼の父親がコレクトした絵はがき数百枚を持ってこられ、それを全部東亜大学東アジア文化研究所へ寄贈して下さったのである。彼は数年前まで中林製畳所を営んでおられたが、無所属で当選した方である。彼の話の畳製造から政治家への変身が劇的に聞こえ、私はいろいろ質問し、お話を聞かせていただき楽しい時間だった。これからは絵はがきを丁寧にスキャン、整理、保存、展示などに努めなければならない。後にこの話を聞いた副学長の鵜沢氏はこれからは一緒にする助力者の後継者が必要だろうと言っておられた。


長周新聞報道「絵はがきから見る近代山口」

2014年07月25日 05時53分35秒 | 旅行
 展示会後にも観賞者からの連絡、訪問が続いている。7月23日付けの長周新聞には私とのインタビューと竹下一氏の感想を踏まえて6段記事として詳しく全体が要約されている。日本の絵はがきは、日ロ戦争勝利記念として発行された。個人の写真アルバムのない時代、カーラー写真のない時代の公的なアルバムとして意味づけられた。それがある景色や物などを「名所化」していく。
 関東大震災の絵はがきのように絵はがきがメディア機能もあった。着色写真の製作過程が分かる。絵のはがきから写真へ、写真から絵へ、そして写真芸術の誕生を見るようなことができる展示をした。もう一つ重要なことは運動会などを記録、記憶していきたい強い意志が感じられる。人はこの世に生れてこのように生きたことを残したいという。しかし今は写真などが氾濫する時代、プライバシー云々と残したくない人も増えている。自分の生存を残すか、消すかが時代によって異なるようである。

栄える福岡

2014年07月24日 05時24分01秒 | 旅行
昨夜福岡市天神の繁華街にある第2正友ビルで第90回九州・アジア/中国ビジネス研究会で講演をした。講演と言うより勉強会に参加したようであった。比較的若年層の方々、二十数人の研究者や企業の指導者と話す機会であった。あらかじめ添付して送ったレジュメが事務局で用意されえおらず慌てた。予定のなかった琵琶演奏を楽しんで、また時間が15分短縮して櫛田学長とどう相応するか心配であった。しかし私が日韓関係の難しさと植民地研究、韓国の近代化に日本の影響が大きい、日本も韓国からの影響は多く、相互の交流を語った。日韓関係は悪い時期が長い。しかし民間レベルでの交流が基礎になっている。今日本で最も栄えている福岡はアジア向けに開放しており、積極的な交流が効を成していると強調した。教育者として私は客観的な視線を持つ人材を教育しようとしている。そこから櫛田東亜大学学長が東亜大学で留学生教育などの話につなげて続けた。懇親会は失礼して帰りのタクシー運転者から福岡は34度だと聞いた。蒸し暑い日であった。
 栄えている福岡から新幹線で小倉で在来線に乗り換え、門司駅で乗り換え、車内が消灯、それは中国電力へ切り替えるからと聞いたが、田舎風を感じ、廃れてしまったような下関、帰宅は夜10時であった。「以熱治熱」暑い日に熱く討論した。わがマンションはまだ冷房は必要ない。関門海峡、朝鮮海峡の風が常に吹いているからである。感謝である。
 
































本日福岡で講演のお知らせ

2014年07月23日 05時22分11秒 | 旅行
日時:平成26年7月23日(水)午後6:30~8:30
場所: 久留米大学福岡サテライト教室

崔吉城 「韓国‘漢江の奇跡’に学ぶ現代の日韓関係」


 終戦、解放、独立しても植民地は簡単に終わらない。戦後は後期植民地ポストコロニアル時代である。植民地史は戦後も断絶せず続く。戦前、戦後から日本文化の影響は大きい。戦後からはお互いに交流している。
 日韓の板挟みになりながら植民地史を研究している人にとって客観的な研究は難しい。客観的ではない研究は研究とは言えない。脱価値的に客観的な視線が必要である。韓国で日本研究は危険でもある。李栄勲教授の受難がそれである。韓国で反日と親日の論、日本で親韓と嫌韓がある。
 韓国経済の発展について日本の影響を主張した研究がある。
ジャネリー:Making Capitalismは韓国の某財閥は日本の営業技術を導入したという。もう一つは軍隊式であるが、これも日本と無関係ではない。
安秉直:日帝植民地時期の経済と生活の変化に関する研究。韓国の経済の発展に関しては米国と日本の植民地と違うところはない。1945年以後独立した韓国の資本主義と市場経済の要素は日帝時期に形成された。統計と歴史的資料を基礎にした事実だと提示した。既存国史学界の抵抗と侵略の両極端的論争、市場経済、近代的な制度と要素が解放以後突然天から落ちてきたのではなく日帝時期に形成された。
崔吉城:朴正熙大統領のセマウル運動(新しい村運動)が「漢江の奇跡」と呼ばれる。その根源は宇垣一成朝鮮総督の「農村振興運動」にあった。(写真は朴正煕生家を訪ねた時)


展示会を終えて

2014年07月22日 04時52分25秒 | エッセイ
 5日間の展示会を終えた。鑑賞人総計571人、盛況だったといえる。私と家内が別々個別あるいはグループ毎説明した。私一人だけでも100回ほど説明をした。100年ほど前のコレクターへの手紙の紹介から旧山口県庁、秋吉台、湯田温泉、干拓、船橋、運動会、萩城、松陰先生、乃木将軍、関東大震災、門司、着色写真などの順で暗記するほどとなった。コレクターが山口の方であり、山口を中心になっているので下関のものが少ないのは残念であった。しかし、この展示会を見られた方から寄贈希望者が現れたのは幸いである。
 物事に関心のある人、下関や山口に縁のある人が多く見ていかれた。多くの方は「懐かしい」と言った。細かく見る人に私は常に加わって人の表情や行動を指摘するとまた話が盛り上がることも多かった。真面目に全部見てなお、また絵はがきアルバムを見る人も多かった。展示場が美しい、懐かしい、楽しかった、良い資料だという感想などが聞けた。私としては多くの市民と話すよい機会であった。ある人は「残るのは写真だよ」と写真の価値を改めて認識したという語録を語った。白黒写真時代に色を付けた着色も、同じ電車にライトがあるものとないものもあって着色写真の色には信憑性がない。現在のカーラー写真とは違った歴史にも関心が寄せられた。いろいろご協力くださった方々、ともに時間を過ごして下さった皆様、有難うございました。
  (写真は私が疲れていて、そうなりたい心を表す目の前の彫刻)

松原健治氏からの便り

2014年07月21日 05時26分28秒 | 旅行
昨日は東亜大学からは川村先生、松井先生ご一行、下関市文化協会の野村会長、映画人の鈴木氏、日韓親善協会の伊藤氏夫婦、朝鮮に資生堂の化粧品販売した夏川氏夫婦などと延々と話はいつも盛り上がった。連休ということで広島、鹿児島など遠くからも来られていた。楽しい人間関係の始まりの展示会である。下関の市民からは下関のものが少ないと言われた。初日に来られた松原健治氏からご自分の文集とともに昭和時代の着色絵はがきのコピーなどが郵便で届いた。「山口本街通り(小椋一象堂発行)」下関のものが6枚ある。次の展示時には下関を含め、多様な方法でできればと考えている。そのためにはより多くの方へインタビューや資料調査も行うこととなると思う。その時には読者の方々はもちろんのこと、いろいろな方のご協力を願いたい。
 松原氏は展示室で私のスナップ写真を撮って送ってくださったのも、とても嬉しい(写真)。彼の文の一節に下記のごとくありました。
 
 
フォトエッセイ「家業回想の記ー旧友への便り」に関連して文末に、、戦前の下関の昔懐かしいフォトを掲げてみました。折しも、下関市立美術館で、東亜大学・東アジア文研究所主催の「絵はがきから見る近代山口」と題する写真展があり感慨深いものがありました次第です。また、手隙の折、ご笑読くださいませ。2014・7・20(記)


 

「嫌名録」

2014年07月20日 03時33分27秒 | 旅行
 わが夫婦は市立美術館に出勤するように毎日会場にいる。昨日の初客は山口市内から来られた方で「自分の生家がテレビで映ったよ」と言い、湯田温泉の松田屋の息子、86歳、山口停車場の横に第二松田屋の前に立っている着物姿の女性が母、母を見ている子供が自分らしいと、自分が生活した部屋を指差して感激していた。続いて山口から娘夫婦と来られた86歳の女性は運動会の写真を指しながら自分の母校だと言い、感動されていた。福岡教育大学と大学院の学生たち、東亜大学デザイン学科の3人の教員と10人の学生たちを迎え、記念写真をとった。昼食の時間を見つけることさえ難しく前日の倍数が来られた。軽食堂から呼ばれて行くと、山口のある百貨店から次の展示の要請を受けて無条件OKした。エレベーターで時々逢う同じマンションのご夫婦を含め、市民たちとの交流の場になった。会場は常に笑い声があった。中には絵はがきのコレクターがおられ、連絡して情報を交換することを約束した。展示は明日までであるが交流は終わらず、続く。
 午前中東亜大学の櫛田学長が来られた。準備過程から声援して下さった。ある人は市民のためにこのように東亜大学がサービスしてくれるということで感謝しておられた。東アジア文化研究所へ関心を寄せる人もおられた。このような催しを行うたびに協力者への感謝を感じなら協力してくれるべき人の無関心に対する不満が伴うことがある。芳名録のほかに見えない「嫌名録」ができるような気持ちになる。感謝と不満が同時に発生する自分の心をややもてあましながら表面的には人を愛するというのではないかと反省する。私よりもっと頻繁に大きい規模で行事を行う人はそのたび出席者と欠席者への芳名録と嫌名録が並んでいるはずである。私も多くの人の嫌名録に乗っているのではないだろうか。(写真は上からデザイン学科、松田忠雄氏、福岡教育大学生たち)

「瀧穴」

2014年07月19日 04時58分11秒 | 旅行
 「アジア言語文化」の講義の終盤になり、韓国からの留学生たちに日本語学習の時の難しさについて質問した。濁音が区別し難いという点、当然である。英語のgameを日本語ではゲーム、韓国語ではケームと発音、表記している。日本人の学生は濃音とバッチンが難しいと指摘した。「カ」kka、「タ」ttaの発音が難しい。そこから日本語の起源論を紹介した。ハングルで万葉集を読めるとか、百済語で日本語を読むという民間語源説のような本が日本と韓国でベストセラーになっていることにも要注意。大学生は適切な本を探すようにも言っておいた。授業が終わって展示場へ向かった。 
 昨日より多くの方々が見に来てくださった。累計170人。NHKニュース,朝日、毎日、山口新聞を見て、読んで来られた人が多かった。諸社に感謝したい。同じ市立美術館の2階には子供の絵本の展示がされている。20世紀初めころのヨーロッパと日本の絵本が展示されいる。子供の絵本とはいっても子供が分かり難い。横文字のアバンガードの芸術の世界が分かるようなものが主である。子供の関心が注目される。工事の現場の絵があった。今の私も関心を持っている。私もまだ童心を持っているのだろうか。
 受付は礒永、園田、菅原の三人、心強かった。長周新聞の竹下一氏の取材を受けながら多くの人と話ができた。絵はがきや写真を持っている人、平均年齢70才くらい、懐かしさの感想が多かった。買いたい人、次の展示を待つ人、絵はがき展を別に企画したい人の話を聞いた。刺激を与えたことも感じた。秋吉台は古くは「瀧穴」と呼ばれ、松明を持っている写真からは大正以前のものと時代想定をしてくれる人もいた。
 映画祭などもやってみて私は市民との交流を主張してきた。この展示場も交流の場にしたいという意思を実行することができつつある。芳名録を置いている。その情報を通して楽しい人間関係を作りたいと思っている。
 

展示室の中にいた

2014年07月18日 05時05分46秒 | 旅行
 昨日は朝9時半から一日中、展示室の中にいた。展示会はNHKの取材からオープニンとなった。受付は鵜沢副学長、教会の任氏、毎日新聞、朝日新聞、山口新聞の取材、市の教育長、図書館長、山口新聞の佐々木氏、曽田県議員夫婦など5時まで80余人、一人一人話をしたので喉がかれてしまった。正午のNHKニュースを視て、山口市の湯田や小郡から車を走らせてきた人もいた。松田屋隣に住んでいる人が来られ、今も残っていること、関係者に告げておくといいと、写真を撮って行かれた。またある女性は「「私の祖父が集めたもの」とのこと。コレクターのお孫さんに当たる方で貴重な出会いであった。全体の写真を撮って行かれた。展示されたものは大体100年ほど前のものであるが、写真中の人物を知っているという人もおられた。後に芳名録を見て連絡してその事情をお聞きしたい。91歳と89歳のご夫婦は写真葉書が懐かしく憶えていることを語ってくださった。夫人は戦前の朝鮮で生まれ、銀行マンの父の転勤により馬山、大邱、尚州、裡里、高敞,基,南原、京城など朝鮮半島を転々としたので朝鮮半島全体が懐かしいといっておられた。小郡から来られた若い人は戦火を受けず自分の家には古い写真などが多く残っているという。ぜひ見せていただきたい。はがきに映っている現場を訪ねていきたい。
 午後にはこの絵はがきを私に寄贈して下さった堀研画伯夫婦と孫娘が来られた。収集者の家から寄贈されたものを私に寄贈し、このように立派な展示ができたことに感謝であると語った。私こそ感謝の言葉を繰り返した。シャッターが下ろされて館長とあいさつを交わし、非常口から出た時は嬉しく解放感があった。帰宅して間もなく、夕方のNHK山口ニュースをみた。要点と鮮明な画像映像を流してくれた。今朝の朝刊、朝日新聞、毎日新聞、山口新聞に報道された。下関には韓国への関心を持つ人も多く、私に韓国語で話した人もいて韓国の絵はがき展もしようかと思っている。さらに着色写真展、関東震災時のはがきなどの展示会も企画してみたい。短い期間ではあるが、多くの市民が参観し、多くの情報を交換したい。写真は朝日、毎日、山口の順になっている。 

「絵はがきから見る近代山口」の準備を完了

2014年07月17日 04時28分22秒 | 旅行
 大雨の中「絵はがきから見る近代山口」の準備を完了した。この展示会の特異な点は何であろうかと記者に質問された。なにより絵はがきの原本はもちろん拡大コピーして美しく見せることであると答えた。展示室において美しく展示することができて大満足である。この度は初体験したことも多い。同僚の山本氏の車で美術館まで運び、川野教授画伯、清永美術評論家の二人が迎えてくれた。美術館の物運び専用の入り口にものを下ろして網戸のエレベーターで上がるのは初めてのこと、45メートルの展示壁に貼り付ける作業を行った。まず私がものを動線にそって並べてから、川野氏の指導によって押しピンで付ける作業が始まった。押しピンの押し方さえ初めて、メージャーを使いながら協力して作業が行われた。美術館の館長、事務の方、同僚や学生による作業、本場以上に準備過程を重要視する私として嬉しい時間であった。作業は展示物へ照明、展示室への誘導の案内板、受付のテーブルまで細かく進行した。
 今日から5日間、市民・県民の方々が来て観て感動があることと情報の分かち合いを願っている。今日の初日の午前中は私一人が受付け担当、テレビと新聞の取材が予定されて、一人芝居のようになりそうである。しかしこの体験は次のアジア向けの交換展示会などへと広げようとする話もあり、貴重なものと考えている。一人でお客さまを迎えることになるが、一人、ひとり嬉んで歓迎したいし、来て見ていただけるだけで感謝である。
 そもそもこの展示会は私の関心をキャッチした堀研画伯の寄贈により始まったことである。数年前から朝鮮に関する「写真葉書」(絵はがき)の数千枚を韓国で英語、日本語、韓国語でキャプションを書き、出版を準備している。それは私の研究からは日本帝国の二つの研究プロジェクト「帝国日本のものと人の移動(代表は植野弘子)」「セマウル運動と農村振興運動の研究(代表は崔吉城)」と関連があるテーマである。個人がカメラを持つことが難しい時代に主に日本人が帝国をどのように見たかという関心と視線と美の感覚などを見せてくれる。個人や家族のアルバム以前の公的なアルバム、それは美と歴史そのものである。白黒写真しかない時代にカーラー写真への念願であろうか。写真に色を塗った「着色写真」が盛況していた。それはカーラー写真ではない。白黒の樹の写真を花が満開にしり、紅葉にも着色できる。同じ自然なものとは色が異なるものが多い。写真から絵へ、写真葉書を「絵はがき」という意味が分かる。山口ものには着色が少ない、色の感覚が少なく、素朴な地方性を表すのではないだろうか。
写真は左から礒永、川野、山本、清永、家内、私、山中静