崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

講演:旧職場「韓国・国立民俗博物館」で講演

2011年11月30日 21時39分56秒 | エッセイ

友人に電話して私が泊っているホテルを伝えると彼も同じホテルにいるという。偶然であろうか、どういう訳かと聞いたらこのホテルに常住しているという。高級なワンルームを購入したという。このようにホテル式のサーヴィスを受けながら老後を過ごすというのである。若い時の友人から聞かれた。なぜ昔のような性格が今のように変わったのかと。おそらく真面目な日本人になりたくて日本化されたからであろうと返事をした。しかし本性はそれほど変わっていない。
 アメリカに移民してから20年ぶりに韓国に帰ってきたという女性が私にくっついて親しく話をしてくれた。韓国があまりも西洋化されたので面白くないという。彼女は20年前から私の本を2冊も読んで写真などを見ながら想像した私に直接会ってみるとあまりも変わった印象だという(写真)。実に私は変わったのであろう。
 講演のために集まった人々の中にはシャーマンが多く混じっているという。演壇から降りたとたん近づいて質問する人々がいて変わり順番で写真を撮り、名刺を交わした。中には泣きながら私の講演を聞いたという人、講演時間が短い過ぎという人などが多かった。或る人はホテルに向かって歩いていく時にも質問をした。結局ホテルまで行き、また夕食も一緒にした。彼は電波商店を経営しながら祈っているという。3年前に神を迎えてシャーマンになっている。彼の入巫に関する調査を兼ねて夕食をご馳走してあげた。

国立民俗博物館シャーマン展示開幕式

2011年11月30日 05時38分31秒 | エッセイ
 韓国・国立民俗博物館を訪ねた。館長の千鎮基氏は大学2年生の時、私に英語購読Culture and Communicationを学んだという。研究官の梁氏の努力によって世界シャーマン特別展示およびネパールシャーマンの儀礼が行われた。多くの学者、知識人、また全国からシャーマンやムーダンが参加した。そこで1969年から3年間同僚であった河孝吉氏に会い、また久しぶりに済州島の秦民俗博物館長などと会い、感激した。国立民族博物館の朝倉敏夫氏と太田心平氏にも会った。その開幕式に館長などと並んで立ってテープカットをした。ロシアヒョウトル人類学博物館、日本の北海道函館博物館などから貴重な遺物などwo借用して展示されている。韓国ではシャーマニズムの研究者も多く、国家の伝統文化の尊重さが追い風になってこのように盛大な展示会ができたのである。私は50年前にシャーマニズムを研究し始めた以来の時間の流れを強く感じた。しかしその歴史はもっと古い。西洋宣教師たちの研究、そして日本人学者の研究が蓄積されてからのことである。(下の写真の上は私から河、朝倉、千館長)
 数百人に餅と食事の宴、別途民俗苑出版社に冷麺をごちそうになった。ホテルでは広島大学時代の元学生の二人、崔錫栄と中村八重の両氏と研究状況の話をした。小ゼミーのような時間であった。

「良い結婚しましたね」

2011年11月29日 05時26分47秒 | エッセイ
 研究会に参加して帰りに発表者を家内の運転で送る車中で彼が私に言った言葉が「良い結婚をしましたね」であった。家内の日程を大体知ってからの話であり、それを聞いて私が家内に感謝すべく自覚をするようになった。家内は私の朝夕出勤と退勤の送り迎え、病院勤務、私のすべての日本文の校正、ブログ、ゲラなどを校正をしてくれる。それだけではない、教会や各種集会に同行してくれ社交活動も共にしてくれる。その上、私の持病のために症状がおかしくなると処置してくれる。彼が言った言葉が私に響くことは大きい。

旅は人を変える

2011年11月28日 05時15分19秒 | エッセイ
「絹代塾」の映画鑑賞会で東亜大学の鵜沢和宏教授の概説で鑑賞をした。キューバの革命家チェ・ゲバラ(エルネスト)の医学生時代に友人と1台のバイクでアルゼンチンからチリ、ペルーを経てベネズエラへと旅をしながらいろいろな人々とのふれあいを描いた映画である。夏の風景であってもクローズアップされずモーターサイクルで乾燥し道路の塵をまきおこしながら走り、最後のハンセン氏病患者たちとの触れ合あいが感動的であった。マチュピチュ遺跡やアマゾン、アンデスの雪山などが映ったが自然風景には焦点を置かずもっぱら旅を通して人か変わる姿を忠実に見せる映画であった。鵜沢教授のペルー発掘現場に着くまでに36時間がかかるという話。映画と解説、討論を通して参加者は満足、その現場に行って観たくなったと言っていた。(写真は鵜沢教授自身の発掘画像以て説明する)

「世界から見た韓国のシャーマニズム」

2011年11月27日 05時26分57秒 | エッセイ
 しあさって30日ソウルの韓国・国立民俗博物館で「世界から見た韓国のシャーマニズム」という題で講演する予定である。母親からの母胎信仰のように親しみのある我が生まれ故郷のシャーマニズムが京城帝国大学の秋葉隆が調査したということを知った時は大きな驚きであった。それが私の研究につながった。その研究のために日本留学、秋葉研究から植民地研究へと広げてきた。シベリア、中央アジア、東南アジアなどに調査旅行を多くしてきた。今度はその根底の母胎信仰に触れることから始めようと考えている。

국립민속박물관 국제샤머니즘 특별전 기념학술강연회 및 샤먼의례
1. 국제샤머니즘 특별전
일시 : 2011년 11월 30일 ∼ 2012년 2월 27일
장소 : 국립민속박물관 기획전시실
2. 학술 강연회 및 히말라야 샤먼의례
일시 : 2011. 11. 30(수). 14: 00∼17: 00
장소 : 국립민속박물관 대강당
- 세계에서 본 한국 샤머니즘 최길성(일본 히로시마대 교수)
- 시베리아 샤머니즘 라리사 파블린스카야(Larisa Pavlinskaya)
(표트르대제 인류학민족지학 박물관 시베리아부 부장)
- 샤머니즘 본질, 생명문제, 의례유산 양종승(국립민속박물관 학예관)
- 히말라야 샤먼 의례 시연 비라하 라이 대샤먼 외
* 자세한 사항은 국립민속박물관 전시운영과(02-3704-3156) 또는 김창호 학예연구사(02-3704-3153)에게 문의하여 주시기 바랍니다.

エジプトの民主化

2011年11月26日 05時23分49秒 | エッセイ
 「アラブの春」はイェメンまでに至った。その続きの矛先はどこであろうか。独裁政権を倒すのは革命であるが、それを定着させるのも大事である。私は韓国の民主化革命後軍事クーデタ、朴大統領が暗殺された時、それをチャンスとして横どりした軍事政権の続きを見て来た者としてエジプトの早期の民政移管に注目したい。革命は熱気でするが本当の民主化は冷静でないとできない。「熱と冷」の長い過程が順調に進行することを祈る。

胡桃

2011年11月25日 05時32分58秒 | エッセイ
 以前にも触れたように私の好物の一つは胡桃である。お土産にいただいた一袋(100個以上)を二日間でほぼ私が食べた。若い時大量に食べて下痢をしたので私の脳には消化させる能力、「脳力」があるはずである。私は好きなものを摂食せず、我慢をすることには非常に弱いと悟った。喫煙、飲酒、麻薬など嗜好や中毒の人の心が理解できる。昔から酒色が危険視されてきたのはこの好きなことを禁欲するのが難しいことを意味するのだろう。味を知ることには特に学識や教養は必要ではない。動物や子供でも美味しさは知っている。それを禁欲するには強い意志と教養や学識が要る。

町を歩く

2011年11月24日 04時47分09秒 | エッセイ
 朝は雨であったが晴れ間に下関グリーンモールでリトル釜山フェスタへ行った。朝鮮初中学校の女子学生たちのカヤクン(琴)演奏があり、北朝鮮で観たのとそっくり。つづいて東亜大学トータルビューティ学科の化粧ショーが行われた。私が勧めて2回目、去年は観れなかったので初めて観た。留学生が一緒に出て日韓交流が主題になっているがまだ舞台には慣れていない。しかし大学生、留学生も多く参加して若者が増えた印象がある。ただ梅光大学からは参加がみえないし、前日の懇親会でも私の隣席に副学長の席があったが欠席され、残念であった。ヤスモリの出店で櫛田学長にごちそうになり、韓国光陽市の日韓親善会の会長夫妻と合い席になり話が盛り上がった。マンション隣家の車で送ってもらって、お土産でいただいた一袋の胡桃をかじりながら出版ための原稿のゲラを読み始めた。まさに「下関を生きる」(拙著)日であった。

韓国大使申氏の講演を聞いて

2011年11月23日 06時25分52秒 | エッセイ
 東京からの帰路に書き始めた韓国国立民俗博物館での講演原稿の長文をやっと書き終えて送って、私の口から「大変なストレスであった」の一人ごとに家内が頷いた。難事にあっても「私はストレスを知らん」とよく言っており、その都度上手くこなし、対応している。しかし最近はこなせる力が劣っているか忙し過ぎか。昨日韓国からのお客との昼食会と案内、そして駐日韓国大使申珏秀氏の日韓親善協会連合会50周年記念講演『21世紀における新たな韓日関係のパラダイムを求めて』を聞いた。流暢な日本語で講演し、質問を受けて答えた。日韓関係の難しさと重要さを前提に 「共生と協力」を訴えた。日本での「韓流」ブーム、韓国での「日流」ブームなどでお互い心理的距離が近くなり、競争ではなく協力が重要であると語った。
 広島総領事辛氏の紹介で名刺を交換し、彼は私に大先輩ですねといいながら「東京に来た時は食事でも一緒に」と言われた。彼は晩さん会でテーブルごとに廻りお酒を勧めながら歓談する様子を見て、まさに外交官であると感じた。彼の隣席の自民党の有名政治家はだまっていて、途中退席したのとは対照的であった。日韓の政治家や外交官の対比が見えるような場面であった。大使のパーソナリティと博識の高さを強く感じた。

密貿易

2011年11月22日 05時13分48秒 | エッセイ
今日は山口県日韓親善協会創立50周年記念会が開かれる。私は韓国からのお客様を迎えるために港に出るつもりである。その準備の打ち合わせ会である民団の役員が心配をしていた。それは日本人は知らない日本税関の厳しさだという。彼は先日高齢の女性たちを連れて行って案内して帰国の時税関での例を言った。せっかく韓国に行って物価が安いということで16足の靴下をたった1000円で買って来たものが引っかかって40分も調べられて全員が驚いたという。税関員は密貿易者を「捜索」したようである。北朝鮮でサッカー選手が税関で時間がかかったのが話題になったが、北朝鮮側は日本の税関は検査というより「捜索」であったと反論した。頻繁な往来を勧めている私にとっては困った話であった。
 先週土曜日東洋大学で開かれた研究会でトランスナショナル現象としてフィリピンなどで国境を越えて水上町を作る報告を思い出す。在日朝鮮人の多くの中には戦後密入国をした人もいる。戦後から日韓国交正常化までの間には密貿易があったようで東洋大学の松本教授がその文書を公開して面白かった。私は日本への国境のハードルが高い時、越えて来た者として当時より時間的に近くなったとはいえどもまだ高い。EUのようにならないのだろうか。

翻訳家舘野氏

2011年11月21日 05時22分59秒 | エッセイ
 拙著『哭きの文化人類学』の訳者である翻訳家舘野氏と昼食を取りながら出版事情に関する話をした。翻訳中の私の韓国語の最近著の文を操作ミスで喪失したということで中止になっている。実は昨日の朝私も韓国での講演原稿をホテルで熱心に書いた文を操作ミスで喪失してしまったので機械の良さと悪さから話が始まった。彼のお詫びに対して今度私が直接に書くと話した。彼は出版事情に広い情報を持っている。彼によると韓流の影響か、韓国文学が売れるという。彼が東京都庁の公務員を退職してからハングルを勉強して翻訳家になったその努力は私は頭が上がらない。彼がカバン持ちのように駅まで歓送をしてくれ、一緒に歩く時東京は夏日であり、家内がコートを持たせたのが荷物になった。宇部空港に降りると真冬のように寒い。唐戸でバスを降りてコートを取りだして冬の服装で夜の道を歩いて帰宅した。冬らしい冬であるが、持病を持っているのでこの寒さが怖い。

白山人類学研究会のフォーラム

2011年11月20日 05時51分29秒 | エッセイ
 宮下氏の案内で雨の中、東洋大学に着いたのは10時過ぎ、52年の歴史のあるアジア文化研究所(所長高橋継男)で雑談をし、1200人受容の学生食堂で松本誠一教授と食事をした。食堂は一般住民にも公開されて、利用客もいた。イタリアンからウドン、ラーメン、寿司など7,8軒の食堂が並んでいて土曜日の昼食時間にもかなり混んでいた。東京のど真ん中の大学に学生が多く、私は羨ましく思った。校舎が多く、つながっているがエレベーターの乗り換えの数回、会場に辿りつくまでが楽しかった。
 研究会は韓国巨済島(井出弘毅、松本誠一、上野弘子)とフィリピンのサマ(青山和佳、中津一史、鈴木佑記)における移民、交流が中心であった。密貿易の資料も出された。私は植民と移民の概念をもって、人の移動の普遍性を論ずるように語った。帝国主義の時代の人の植民とグローバル時代の移民とは似て違う点を強調し、全体の発表と関連させた。特別講演という題にはふさわしくなくとも研究発表の一員として参加したような親しさを強く感じた。総合討論(司会山本須美子)では末成道男氏も加わった。討論の熱気が冷めないうち懇親会につづいた。出された料理に上野先生から私が食べ始めないと始まらないと言われ「日本にそのような敬老思想がまだ残っているのですか」といいながら、大きい毛蟹が出された時には人の前では食べにくい表情をして、皆さんから韓国のヤンバン扱いされた。上野教授は祖~父母がアメリカ、ベトナム、青島などを遍歴、井出氏は日韓に跨った家族関係、青山氏の夫はフィリピン人という話も出された。私は自分のことは棚上げして、みんな複雑な国際家族であるといった。十年間アメリカで勉強をしたという本間さんと井出さんの案内で雨の中ホテルについてしばらく談話、東洋大学での一日が終わった。次のソウルでの講演が気になる。

東京へ

2011年11月19日 05時56分53秒 | エッセイ
日常とは違って旅行中は小さいことに無神経で大きい失敗をすることがある。昨日は私が研究会の会場を確認しなかったのでパニックになった。家から雨の中歩いて、乗った空港行きのバスは交通渋滞で時間がかかり宇部空港にかなり遅れて着いた。機内で民団の役員の姜昌憲氏夫婦に会った。私が先に降りて彼らを待って同行した。姜氏とは会議などで握手する程度であったが奥さんとは初めてお会した。モノレールの席に向かい合った。彼らもJCOMチャネルで韓国のドラマを連続して見ているということで、話しは盛り上がった。私はテレビドラマ「家門の栄光」について例のように話をし、関心を持たせ、貸してあげることにした。
 法政大学で行われる研究会へ行く途中、合間を利用して東大の前にある第一書房に立ち寄った。社長は酸素を吸いながら仕事をしていた。肺の機能が弱いからという。私もそうであること、チベットでは酸素を吸ったことなどの体験談をした。法政大学の構内学生食堂で急いでラーメンを食べて会場に着いたが、いつもの会場が変わっていた。コンピューターにはメールでお知らせで場所が書いてあったが急に原稿を手直して送るなど慌ただしくなって見る暇もなく来てしまって困ったのだ。始まる時間が迫ってパニック状態になった。ある事務員に聞いたところ、時間だけかかって知らせてくれた場所は間違いであり、30分も遅れて名札のある席に着いた。発表者は熊本空港の大雨で遅れて一緒に着いたので結果的には私も間に合う形になった。 

郷土史家の蔵書寄贈

2011年11月17日 23時55分17秒 | エッセイ
 下関の郷土史家の故木村勘一郎氏の蔵書約3000冊を東亜大学東アジア文化研究所に寄贈される。その遺族が倉光誠氏に委託したものであり、寄贈が実現することになった。リストを見ると本人の関心分野が分かる。私の蔵書も一緒に入れるために準備をしている。彼の郷土史的視野に私の朝鮮半島関係の本が合わさってより充実になるかと思う。12月10日の開所式では寄贈式を行う。本は本人が購入したものであれ、それは共有文化財産である。紙に活字の文化が衰退すると言われるにしても、紙文化の強さは守られるだろう。

豆もやし

2011年11月17日 05時05分13秒 | エッセイ
 ソウルから送られてきた白大豆を水につけて三日間で,豆もやしができた。子供の時に母が作るのを見て覚えている。網蒸し器に豆を入れて一日数回水をかけることを繰り返す。芽が出るとき黒い布などをかぶせて日光が当たらないようにする日が当たると青くなるからである。家内がスープや味付けでナムルにしてくれた。数回の食事、弁当など連続して食べた。母から伝承された作り方を再演し、母の味を懐かしく思った。