崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

朝日カルチャーセンター福岡で講義

2005年10月29日 09時57分06秒 | エッセイ
 朝日カルチャーセンター福岡で講義をはじめようとする時,九大の松原孝俊教授が現れ,私を紹介してくれた。そこで白髪の彼は27歳の時、日本語を教えるために韓国・啓明大学に来て私と会ったころの話をした。それを聞きながら年月の流れの速さにいまさらながら、悲しさと懐かしさを感じた。
 講義では「冬のソナタ」の映像を分析して見せた。冬のソナタは日本の女性たちにとって、懐かしい、昔の恋愛物語のようである。見ていない、あるいは否定的な人は純潔というテーマは古い。真面目なドラマは現代の日本人、特に若者には合っていないという。この「冬ソナ人気」は日本の男性への批判的な目が、優しく、ピアノが弾け、数学は天才的、マナーがよく、たくましい、パーフェクトな男ジュンサン=ベヨンジュンへ向けられたものである。
 聴講生は50代の女性が多く、男性は二人しかいなった。その二人は、なぜかずっと笑っていた。
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マンションで愛犬トラブル

2005年10月24日 20時58分15秒 | エッセイ
 一個建てからマンションに引っ越してから,我が家の犬のことが気になるようになった。マンションで犬に対して住民の苦情があるらしい。わが家の愛犬ミミちゃんは18歳過ぎで、かなり老犬で吠えることもなく、隣に迷惑をかけることはないと思うが、韓国で苦労したことを思い出して気が重くなる。
 今から30年ほどの前のことである。韓国では犬肉を食べるし、当時愛犬が少なかった。マンションに住んだとき、犬を飼っているということで酷くいじめられたことを覚えている。「人より犬を大事にするのか」と白い目で見られた。
 その犬2匹をつれて日本にきた。名古屋空港について、税関員たちがわが愛犬に声をかけてくれとき、日本にきてよかったと安心した。犬を食べる国から解放さ、日本は犬にとって天国かもしれなと思った。最近マンションでペットについての貼り紙を見て、韓国での辛かったことを思出だした。
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死を考える

2005年10月21日 07時02分19秒 | エッセイ
 恩師との対話の中で、死についての話が心に残る。先生は日本語で死ぬことを「なくなる」と表現することに寂しさを感ずるようであり、韓国語の「トラカダ」(戻る)という言葉が良いといわれた。生まれてきたところに戻るということは霊は永遠に存続するという考えた方である。死からの救済の問題が信仰の基礎である。
 先生はクリスチャンであっても死後観については韓国の伝統的なものを持っていらっしゃることがわかった。
 私は若い時、西洋人の墓石に休んでいる(rest)と刻まれているのをみて勇気付けられたことを覚えている。つまり命ある限り、働いて「死んでから休む」ということを考えた。しかし今、自分では働きすぎではないかと矛盾していることを考えている。
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過去を振り返ってみる

2005年10月19日 06時58分46秒 | エッセイ
 年を取るにつれて自分の過去を振り返ってみることが多くなる。私の恩師とは45年以上も師弟関係が続いている。先生との会話は何時間、何日間でも飽きない。昔は緊張感もあった師弟関係であったが今は「一緒に老い」の関係というかもっと純粋な人間関係になった感がある。
 この度3日間我が家で過ごされ、いろいろな失敗談などをいろいろ語ってくださった。それは私も同感できるところであった。先生な弟子を愛した。しかしやさしく、甘やかすものではなく、とても厳しいものであった。しかし、先生はお孫さんが可愛らしくて「目に入れても痛くない」(諺)ほどだと表現する。また大嫌いな人、恨んでいる人もいるが、その理由は自分を裏切ったからだとのことである。
 誰でも背信者は寛容しにくいのが常であろう。愛弟子が先生にとって重要なことに対して反対する発言をして自分の人生に大きく影響したことは忘れられないという。背信とは良くやってあげたことが前提になっている。
 私も自分ではよくやってあげたのに裏切られたと思うことである。その恨みにどのように対処すべきか悩む。しかしそれは一つの職務のように考えることである程度恨みの感情は和らげることができる。人を愛することは当然のこと、恋人を愛するのは当然である。裏切られたとき許す、つまり寛容になることは難しいが、当然なすべきことをしたまでだと思うことによって寛容になることができるかもしれない。
 報われることを前提にした愛は危険である。イエスに学ぶところは大きい。
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李杜鉉先生来宅

2005年10月16日 12時25分02秒 | エッセイ
 恩師の李先生が来宅した。先生は1922年韓国北部の咸境道の永興で生まれて1944年、日本名大宮杜夫として、日本軍に徴兵されて会寧で終戦を迎えた。その時、山上で日本人だけの会議が終わって、日本が負けたと聞かされた。そして自分たちとは行動を共にしなくても良いとも言われた。翌朝6時に全員が集合するようになっていたが集まらなかった。そこで日本軍服のままで5人の戦友をつれてそこから逃げて友だちの家に行き、朝鮮服に着替えてから歩いて会寧の自宅に到着した。戦友たちは何件かの家に分散して泊まってさらに歩いて南にある各自の家に帰っていった。その後先生は故郷で選ばれて銀行員、小学校の先生をして1946年ソウルに来てソウル大学師範学部に編入試験を受けた。その時面接官の先生は左翼の金起林先生だった。その先生が左翼で有名だったことを知らずに、面接のとき北朝鮮の悪口ばかり言ったので落ちると思ったが運よく合格した。
 足を痛くして歩けなくなった人を助けながら歩いたので暗くなったことが反ってソ連軍に見つからず、皆が助かった事、身体検査で乙種合格になったことが逆に満州に行かず会寧に徴兵されたこと、厳しい訓練のために死ぬかと思ったが満州の戦線での戦死をまぬかれたという宗教的な証のような話が興味深かった。
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中国は大国

2005年10月13日 06時59分56秒 | エッセイ
 東京の法政大学市ヶ谷キャンパス26階で行われた東アジアのナショナリズムについてのシンポジウムが終わり、夕食会がありました。そこである中国の学者が中国は日本や韓国の大きさとは比較にならないほど大きいし、さらにヨーロッパ全体と同じくらい大きいと「大国」を自慢した。私は冗談半分で大国思想とか、帝国主義のような大国よりは小さくても社会福祉などのしっかりした国が「良い国」だと反論した。またソ連やユーゴスラビアのように分裂しなかったことは如何に中央政権が強かったということを意味するだろうといった。そこに同席した日本の中国研究家はいつか少数民族問題が起こるかもしれないと言っていた。
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民団指導者たちと歓談

2005年10月11日 10時06分06秒 | エッセイ
 民団指導者たちと歓談で、朴大統領の独裁政権の時の話で盛り上がった。在日のある指導者が朝総連の運動会に寄付金を出して名前が出た人が韓国に行って中央情報部に連行されて受難を受けたという。韓国人は民主化に闘争して民主主義国家を作り上げた。今そのようなことを忘れて他所の国の独裁を笑っている。私は新宿の焼肉「明月館」に怖くて入れながったという話をした。しかしもっと遡ると日本の軍国主義と聖戦に辿り着く。50歩100歩の差であろう。将来日本の「小泉劇場政治」を笑い話で笑う姿を描いてみる。
 ある政治化の奥さんに会った時政治家の話を沢山聞いた。政治家の裏話も多く聞いた。政治によって社会福祉などの恩恵を受けるが、私の体験では悪い政治のために苦労したことが多いと感ずる。政治家を非難しながらも彼らに左右されるのは悔しい。
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右と左とは

2005年10月08日 12時24分01秒 | エッセイ
 日本に長く住んでいても新聞などが右寄りとか左寄りということは知らなかった。与野党が分かれているように新聞の性質を考える人がいる。ある新聞は賛成、またある新聞は反対というのだ。そのような新聞には掲載するものが決まっており、また結論も決まっているというのだという。客観性を重要なモットーにすべき新聞がこうであればそれは非常におもしろくない話である。マスコミ自体が偏執性があるのに、また右か左かに偏っているなら酷い話である。最近私はその問題に傷付いたのである。
 新聞だけではなく人間関係もそのように思う人が多い。あの人は良い、悪いと決めて付き合ったり嫌ったりする人がいる。それは差別やいじめとつながっているはずである。それを乗り越えて自分の意思で自主的に付き合ってみて喧嘩したり和解したりするのが良いかもしれない。その点、韓国人の人間関係ではいじめや差別は少ないと思う。
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犬に似ていく

2005年10月05日 21時09分07秒 | エッセイ
 犬は飼い主に似るといわれている。しかしわが家族は愛犬のミミちゃんに似ていくようである。ミミちゃんはドッグフードより家内の手つくりの料理が好き。家内はミミちゃんが好きなものを作ってあげる。若いときは硬いものを齧ったりしたが牛肉が好きで家内は自然に牛肉料理を良く作り、犬も人も食べるようになった。しかし犬も年をとるにつれてやわらかいものを好むようになった。18歳を過ぎたミミちゃんが現在は豚肉を好んで食べるようになり、あまり豚肉を食べなかった私もこのごろは豚肉を食べるようになった。犬に似ていくということだけではない。実は犬の19歳は人間の百歳をはるかに越えた年なので私は犬の長寿をひそかに自分の長寿にしたいと願っているのである。
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人間文化財 金石出氏の死霊祭に参加して

2005年10月03日 15時50分36秒 | エッセイ
 韓国釜山に近いところで行われた人間文化財である金石出氏の死霊祭に参加した。現場においてはいろいろな思いで慨無量であった。彼とはじめて会ったのは60年代末であった。当時彼らは学会には全然知られていなかった。当時、私は世襲巫に関心を持っており、彼らについて海岸の村を歩き回った。そして時々テレビ、新聞などに紹介した。それがほぼ2年間続いた。そのころ私は将来マリノウスキイーのような人類学者になることをと想像していた。しかし調査中朴大統領政権のセマウル運動が強化され、迷信打破政策が激しく、予定した村祭りが中断されたこともあった。私が日本へ留学することになり、彼らと別れる時、彼らは「これから自分たちは打破され、なくなるかもしれない」といい、私もそうなるかも知れないと思ったた。私はなくなる前に記録する必要があると思ってその資料を持って1972年暮れ日本に向かったのである。
 1977年私は韓国に帰国した。迷信打破で巫俗がなくなったかのように思った私の想像は誤算であることを知った。その間、韓国は民族主義が高潮し、巫俗は固有文化として注目され、文化財の位置に上昇していた。金氏は被差別のサンノムだと打ち明けていたがいつの間にか両班のように昇進して「先生」と呼ばれるようになり、子供たちもムーダンになりたいと堂々と言った。
 社会の価値観がこのように急変していることに私は戸惑った。金氏は人間文化財として82歳で栄光なる人物として死亡した。韓国新聞は彼の死を報じた。今度の死霊祭にはほぼ報道関係者、研究者、伝授者など100人くらい参加した。私一人でついて歩いた1960年代とは大きく対照的であった。クッにはいつも多くのカメラマンなどがついて歩くようになった。彼らは私の白髪を見て歳月を感じているが、また私も彼(女)らが老いているのを見て寂しかった。調査当時世襲巫が四十数名であったがすでに十数人が死亡している。
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