崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

証明写真

2009年02月28日 05時05分17秒 | エッセイ
 旅券の有効期限切れで、また10年間のものに更新した。旧旅券には私の世界旅行の歴史が刻まれている。ロシア、東南アジア、中央アジア、ヨーロッパ、アメリカなどのさまざまな証印を見ながら思い出多い自分史と感じた。そして新しい旅券を手にした瞬間、また10年間生きることのできる命の保障がされたような感じがした。空白にこれから多くの証印をもらうことを願いたい。その出発がこの度韓国で出版された新著『映像が語る植民地朝鮮』の出版を祝うためのソウル行きになる。
 新旅券にも記載内容は変わっていないが、ただ証明写真が変わった。10年間自分の顔がいかに変わったか、驚いた。自家のカメラで撮ってサイズを測って持って行ったものが不合格であった。目の瞳が光っていることと顔のサイズが1ミリ小さいというのだ。走って専門店に行った。国籍を聞かれた。韓国と日本の旅券写真のサイズが若干異なるという。眼鏡の縁が光るかもしれないと言われて眼鏡をはずして撮った。自分の本当の肖像画のミニエチュアのような写真を見ながら犯人のモンタージュ写真のようにも感じた。旅券の写真は偽造されやすいので厳しくチェックすることが理解できた。

吉野桜

2009年02月27日 05時34分21秒 | エッセイ
 去年吉野桜の花見が予約できず断念したが今年はできそうで楽しみに待っている。贅沢な話に聞こえるかもしれないが、実は日韓併合後日本人の篤志家が韓国のあるところに吉野をモデルにして「朝鮮吉野」を作った植民地史の研究の一環として調べるのが目的である。朝鮮総督府は紀元節などに桜の木やポプラなどを韓国に植え、桜の花見の習慣も伝わった。しかし戦後、韓国は桜が日本を象徴する国花と思い、桜が抜かれて、切られて、伐採されるようになった。まるで花見が「非国民」の韓国人のような雰囲気になり、まさに「桜危機」であった。その時に「桜の原産は済州島」説が表れ、やっと桜が救われた。桜にとってこの牽強付会説が救い主である。
 韓国の両班が愛した四君子(梅欄菊竹)の美は中国文化からのものである。鑑賞植物や花のルーツを考えるとルーツを云々することは花の美、花見とは違う話である。花見の話はずっと次元が高い。花をイデオロギーで染めた桜「染い吉野」を植民地政策に使ったことと、それを切ったり抜いたりする日韓の幼稚な発想を超えて純粋な心で花見をする心の準備をして桜前線を待ちたい。

変わり目

2009年02月26日 06時13分30秒 | エッセイ
 公務員などの人事移動の話が聞こえる。長い間付き合った中国新聞の伊東雅之記者が本社へ戻る。彼は韓国に留学したこともあり、私が広島にいた時から知っていて、下関においても数年間付き合った人である。彼に取材されたことは一度もなく、私が彼の記事を引用したことはある。しかし彼は私の研究会などにはよく出席して韓国の話をしてくれた。今は友人となった彼が下関を離れていくことは寂しい。韓国から日本に研修に来て1年間暮らした二人の弟子が帰国する。また新しく慶南大学の張龍傑氏家族が日本に着いた。
 大学でも定年、転勤など激しい入れ替わりがある。また下関の市長選、市議会選、民団の団長選などで知っている顔が多く浮かぶ。学校では卒業、入学、国家的には予算年度も変わる。春の季節の変わり目であり、人事の変わり目でもある。政権も交代しようとする。政権は政策の良し悪しに関わらず変わるべきである。それが天理であろう。
 

アカデミー外国語映画賞

2009年02月25日 05時35分13秒 | エッセイ
 日本では韓国映画の「韓流」ブームである中、滝田洋二郎監督の「おくりびと」がアカデミー賞を受賞して熱狂状態である。伊丹十三監督の『お葬式』(1984)と似ているようなところもあるが、納棺師が死体に化粧し、納棺の儀式を行う。その儀式なしに、故人との別れは成り立たないことを訴える。
 滝田氏は『お葬式』(1984)にも出演した。記録映画のような『お葬式』は文化人類学的にも価値の高い映画である。私は韓国の大学で学生たちに見せたことがあるが、途中セックスのシーンが出て困ったことがある。韓国の林権沢監督がこの作品を真似して「祝祭」を作って摸作と言われたこともある。
 アカデミー映画賞は一種のコンテストであり、スポーツのゲームのような勝利の賞のようになっている。その賞とは関係なく名作になっていくものもある。その道は人間の普遍的な愛の表現と感動であろう。私が日常的に口癖のように言っている「普遍的」という言葉がこの受賞とともにマスコミでも使われているのでちょっと世間と通じた感じがする。
 

戻った1万円

2009年02月24日 06時03分46秒 | エッセイ
 銀行などにはほとんど行くことがなかったが、送金するために郵便局へ行ったら扱っていないという。最寄りの銀行を探して歩いた。梅、水仙やシクラメンなどの花が咲いていて花を鑑賞した。銀行の窓口ではチェキルソンという私の名前を見るだけで外国人と思われた。親切な指示により記載欄をうめて書いた。呼ばれた。領収証とともに1万札が戻された。数え間違いといわれた。なにか得した気持ちと、日本の社会の正直さに幸せを感じた。数日前4000万円を村の地蔵に供えられているのを発見した女性が喜んで「自分の金ではない」と語った表情が浮かんだ。
 お金は利益と欲心の象徴的な意味が強いが、巨額を祠に捧げた人や拾った人、金を返す人たちは汚れたお金を清めるような純粋な心を持っている。お金で失敗するニュースが毎日続く中でお金の持ち方について深く考えるべきである。守銭奴になるか、奉仕者になるか、マックス・ヴェバーは倫理観を意識している人を商売人と区別して企業人と表現している。

黒一点

2009年02月23日 06時32分23秒 | エッセイ
男性たちの中で一人の女性の存在を紅一点という。逆に昨日教会でのグループの集いで私が黒一点となった。一人のミスと二人の看護師を含め8人の女性に囲まれて二人からチョコレートとお菓子を貰ってリボンの結びを丁寧に解いた。このような女性たちに囲まれていると安心感を持つ。考えてみるとこのような安心感をかんじている自分の感情の変化が不思議である。私は若い時から時々女子大学で非常勤講師をした。20代に女子大学へ入る時は聖域に入る特権を得たような気分と男子トイレが少なく不便だった。そして女学生を前にすると学生というより複数の女性から見られているという気持が強かったことを新鮮に思い出す。その後教壇に立つ時間が長くなるにつれて女子学生はただの学生になったが、やはり心配りは男子学生とは違った。しかし今では女性に甘える感情や頼っている自分を発見する。女性の中で安心感を持つようになっているのである。子供の時と同様、老後には女性と自由な人間的な交際ができる。イギリスの有名な人類学者のメリーダグラスは若い女性は危険dangerと不浄polutionだといった。私にとっては女性から安心感をいただけるのは幸せなことである。

美醜の車内風景

2009年02月22日 06時12分20秒 | エッセイ
 大阪での研究会に参加して来た。行く時大阪駅で人身事故で運転を見合わせるということで車掌のお詫びの車内アナウンスがあった。しばらくして車掌が現われて脱帽して丁寧に遅れることを説明し了解を求めた。全車両に回ることは大変だと思った。アナウンスは続いた。乗り換えに支障が生じないように情報を流した。日本の交通費は世界的に高いといわれている。このような親切さで高価を納得した。
 去年円安の時のイギリスで電車が高いのに驚いたことがある。しかしその車内にはインターネットの無線ランがあり、コンピューターを利用できたので納得した。日本の親切さとは文化が違うといえると思った。そのようないろいろ考えている時であった。私の隣列の席にある男性客が椅子の腕掛けをたたみこみ、横になって寝ているた。体調不良とは思えなかったが、車掌が近付いても反応しない。車掌さんはこの「お客様」をどう注意すべきか困ったようだが、そのままにしていた。
 今は大学でも少子化に伴い、学生は「お客様」になっており、教育が難しい。命の恩人にもなりうる医師も昔は尊敬されたが今では患者が「お客様」であり、医療ミス疑いで訴訟を起こす怖い存在だとある病院の理事長から聞いたことがある。私たちは「困ったお客様」になってはいないだろうか。

「花を咲かそう」

2009年02月21日 05時46分46秒 | エッセイ
今朝の毎日新聞(山口)に寄稿したリレーエッセー文である。

 気温が10度くらい急降下、寒さが逆戻りした。数日前まで4月中旬頃の気温、異様な暖冬、温暖化だといわれたのが嘘のようである。私は春に花咲くころ寒さが逆戻りするのをほぼ毎年体験してきた。韓国では花が咲く頃の寒さをコッセンチュウイ、つまり花が咲くのをうらやみねたむこと、「嫉妬する寒さ」だという。しかし春の風は優しく感じて、ボンバラム(春風)で人が恋しくなるとも言う。日本の春の風は強く吹く。この「春一番」は厳しく怖いほどである。風は人の心にもダイナミックに影響している。政治的に追風とか、逆風とかいわれる。歴史的には神秘的な風を「神風」とも言われた。
 韓国人は日本人より気温に敏感である。日本より気温の差が激しいからであろう。コッセンチュウイの寒さには花を咲かせたくない、嫉妬する意味がある。人生に比して考えてみる。伝統的に人生の花は青春、結婚であった。韓国では「花らしき青春」コッタウンチョンチュンといい、日本では花嫁、花婿が人生の花である。私の父は10歳、母は11歳で結婚した。今は韓国でも婚期が遅延している。それは人生の花が咲くことを遅延させたからである。
 人生には開花を遅延させる「寒さ」「辛さ」がある。その辛さが人生の華やかな時代を遅延させるのかもしれない。人には辛い苦難の時期がある。それは人生における一つのリズムであり、花を咲かせる準備期でもある。その寒さに開花の遅延を待ちたい。人によってはそれを避けようとする。寒さ、すなわち辛さをただの不運として逃げようとする。またそれに屈伏するかも知れない。寒さに負けず素晴らしい花を咲かせてみよう。私は寒さに待たされた「花を咲かそう」と望みを持っている。

NHKアナウサーと談話

2009年02月20日 05時24分46秒 | エッセイ
 先日、彼を紹介された時私は何処かで会ったことがあるのではないかと失礼なことを言ったことがある。私は会った覚えがあるので、教えた学生だったかもしれないと思う癖がある。彼は私を知らないが私は彼に見覚えがある。実は彼はテレビニュースのアナウンサーだったのである。昨日彼は電話で話す時韓国語混じりであった。彼が私の研究室に訪ねてきて3時間以上話をした。彼は一人で韓国を歩くことができるほど韓国語ができている。明日21日毎日新聞朝刊に寄稿したエッセイ「コッセンチュイ」(花が咲くのを嫉妬する寒さ)を話題にした。彼は大学時代韓国語を勉強し、韓国語研修もしたという。山口は韓国に地理的に近く、文化的にも近いと実感した。
 彼の到着直前まで経営学の教員と対話をした。彼は自然科学や経済・経営学の立場から人文学で食べていけるのは不思議だという文化論軽視の態度をとった。私はその意見を否定はしなかった。そのような側面があると思うからである。アナウンサーの彼との話は時々文化論へ飛んだ。彼が文化の重要性に触れたので私は論理を飛躍したことが多かった。「冬ソナ」で日韓関係が劇的に変わったことに意見が一致した。嬉しかった。いろいろな人と対話をして異見を伺い、議論することを楽しんでいる。

私の教育信条

2009年02月19日 06時38分44秒 | エッセイ
少子化現象によって大学経営が難しくなっている。学生募集はもちろん、エリート教育などはほど遠く感じる。周りの多くの教員は学生の質の低下云々という。中には教育を放棄するような発言をする人もいる。しかし私は小人数の質高い教育をするチャンスでもあり、そうすべきだと思っている。まず中高の受験勉強式の成績による偏差値はそれほど信用しないからである。つまりそれは人間教育としては不十分な暗記教育が中心になっていると思っているからである。したがって大学でゼロからモチベーションづけ、対話式教育によって立派に学生は育つと思う。
 私は韓国で以前、地方の大学で一時試験に失敗した学生が大部分である大学で勤めたことがある。私はその学生たちに偏差値のようなものを信用しない、「皆さんは優秀な学生であり、十分可能性がある」と勇気を与えて指導と学習を行った。その学生から50人以上の大学教員、また多くの研究者が出て韓国や日本で活躍している。また、社長やその他のそれぞれの場においてリーダーとして活躍している。その成果は私も期待以上であり、嬉しく思っている。私は今も教壇に立っていて、その教育信念は変わりはない。その信念を学生募集にも表現したいがそれを理解してくれる人は少ない。

私の教育信条

2009年02月19日 05時35分19秒 | エッセイ
 少子化現象による大学経営が難しくなっている。学生募集はもちろんエリート教育とはほど遠くなったようである。周りの多くの教員は学生の質の低下と云々する。中には教育の放棄するような発言をする人もいる。しかし私は小人数の質高い教育をするチャンスでもあり、そうすべきと思っている。まず中高の受験勉強式の成績による偏差値をそれほど信用しないからである。つまりそれは人間教育としては不十分な暗記教育が中心になっているからと思っているからである。したがって大学でゼロからモチベーションづけ、対話式教育によって立派な学生が育つと思う。
 私は韓国で昔地方の大学で一時試験に失敗した学生が大部分である大学で勤めたことある。私はその学生たちに偏差値のようなものを信用しない、「皆さんは優秀な学生である」と勇気を与えて指導と学習を行った。その学生から50人以上大学教員、また多くの研究者が韓国で活躍している。その成果には私も期待以上であり、嬉しく思っている。今も教壇に立っていて、その教育信念は変わりはない。その信念を学生募集にも表したいがそれを理解してもらう人は少ない。

飲酒と禁酒

2009年02月18日 05時47分37秒 | エッセイ
 私は酒を飲めない、飲まない。それは別に信条によるものではない。ただ若い時韓国で友人たちに強く勧められて飲み過ぎて命の危険な状況になって以来アルコールのアレルギーもあって自然に好まないようになった。韓国では酒を飲まない人は教条主義的なクリスチャンのような人柄が硬いと思われる傾向がある。酒を好まないので酒を伴う会食会や酒宴などを避けると社交的に欠陥が生じやすい。この事情は日本、否世界的にも程度の差はあっても同様であろう。私が人間関係で難しいことがあったのを振り返ってみると酒を飲まなかったことに大いに起因していると思う。しかし飲酒により大きく失速したことはない。
 中川財省が酒で辞職した。彼は酒を飲むタイプであり、それが社交的にプラスに作用して政治的にも成功したと思われる。しかし重要な失敗をしたのである。酒好きな人が飲酒運転など社会的なトラブルを起こすことも多い。1920年代アメリカの清教徒中心に禁酒運動も起きた。酒は犯罪の源と思われる点もある。しかし酒のない社会でも犯罪はある。酒は麻薬に近い飲み物であるが、調節して飲むと百薬の長にもなる。結局は自己管理能力に帰ることである。

寒さの逆戻り

2009年02月17日 06時20分06秒 | エッセイ
 10度くらい急降下、寒さが戻った。昨日まで4月中旬頃の気温、異様な暖冬、温暖化だといわれたが恥じ入るほどである。私は花咲くころ寒さが戻るのをほぼ毎年体験してきた。韓国では立春頃の寒さを立春寒さなどとも云われる。特に花が咲く頃の寒さを「コッセンチュウイつまり花が咲くのを嫉妬する寒さ」という。以前にそれについて花が咲くことにも嫉妬されると感じると書いたことがある。しかしもっと深い意味があるかもしれない。花を咲かせることを遅延させること、咲いた花を長く持たせることの意味もあるだろう。
 人生に比して考えてみる。人生にも「寒さ」「辛さ」がある。人によってその辛さが人生の華やかな時代を遅延させるか、咲いている時間を長持ちさせることになるかもしれない。コッセンチュウイで風邪引きさんになるか、寒さすなわち辛さをただの苦難として逃げようとするか、屈伏するなどの人は永遠に花を咲かせないだろう。辛さこそ自分の人生の花期を持たせるものである。梅の満開を美しく観賞するために曇ってほしいと思う朝である。

「春困」、花粉、黄砂

2009年02月16日 06時06分08秒 | エッセイ
 韓国では春の季節の変化に身体の不調和からなる病的現象を一般的に「春困」という。「春困」とは春に感ずるけだるさである。居眠りや消化不良などが著くなる。それが季節からの影響だとすれば、なぜ日本ではそれに該当する言葉がないのだろうか。イタリアのG7に参加した中川財省が居眠りしたというのもそれであろうか。しかし日本人の居眠りは年中ある現象である。季節の感じ方にも国によっては一様ではない。文化的現象であろう。
 日本では花粉症で苦しむ人が多い。豊富な森林からの花粉によるアレルギー現象であるという。花粉と対照的なものが黄砂である。数日前から中国などからの黄砂が飛んでくる。中国やモンゴルの砂漠や山間地域を歩いた時森林伐採が酷かったことを思い出す。森林があってもなくても人間に影響する。中国は5千年前から「治山治水」という標語で政治をしてきたがそれは虚言になっているようである。

愛の物語り

2009年02月15日 06時49分30秒 | エッセイ
昨日は2月14日バレンタインValentineデーであった。家内と家内の友人からのチョコレートを食べた。日本ではこの日にチョコレートの消費量が一番多いと言われている。当初は女性が男性に愛を告白する日であったのが、もっとポピュラーに交際中の恋人や、夫婦の間、上司や同僚、ただの友人などの親しさや尊敬を表すためににもチョコレートを贈る。このような習慣は商業精神によって世界的に一般化された。
先日チョコレート工場の映画を見たことを思い出した。母の日にカーネションを送るようになったのが花屋さんの花売り宣伝から一般化されたように、この日にチョコレートが売れるようになったのは日本では1960年代に森永製菓が大々的にキャンペーンを行ってからであるという。バレンタインデーとはロマンチックromanticな愛の物語りが流行ったローマRomanus時代のロマンスromanceが関連付けられている。この記念日の起源はローマ時代の愛の物語りである。
 娘たちが紙に名前を書いた札を桶の中に入れ、それを取った男と祭りの間パートナーとして一緒になり、時にはそのまま恋に落ち、結婚するというロマンスである。またローマで兵士の婚姻禁止を犯してキリスト教司祭のバレンタインが兵士を結婚させ、処刑されたとされた記念日でもあるという。それがキリスト教の祭日にもなった。
 私は中国雲南の村で若い男女が歌で愛を語り、縁を結ぶロマンチックな民俗うたげを調査したことがある。また中国には七夕の愛の物語りが伝わっており、韓国ではそれに因んだ烏鵲橋が恋の象徴的な意味をもって語られることが多い。これらは特定の男女の愛の物語りであるが、バレンタイン物語りのロマンスは恋人以外に夫婦、友情、尊敬など幅広く、そしてチョコレートの甘さが結合された文化商品ともいえる。単なるチョコレート売りの商魂を超えて暖かい人間関係に潤滑に果たすことを望む。